片方だけ

「え…?行かない…って?」

俺がそれを聞いたのは、夏が近くなってからだった。
次のツアーに向けて、吉井からスケジュールの確認が入り、「OK」の返事を告げてそのままかけた電話の向こうで、エマの声音は穏やかだった。
『だから、今回は欠席。バーニーさん、頑張ってね』
「ちょ…待ってよエマ。行かないって…え?行かない?」

そんな返事は予期していなかったんだ。
…いや、本当に本当のことを言えば、前のツアーが終わる直前、ほんの少しだけ違和感的なものを感じたのは認める。
だけどそれは、二人の間に距離を感じるとかそういうものではなく、例えるならば、学生の頃の卒業式直前の親友同士みたいな…何気ない瞬間を愛しむような空気で。

そう、確かにそれは感じたんだけれど、
「エマさぁん」
という、独特の呼びかけで、吉井は相変わらずエマに諸々の相談をしていたし、エマのほうも
「んー、この辺は課題だね。まぁ、今回はこういう方向しかないのかもね」
なんて、まるで終りを予期させない返事をしていたではないか。
だからほんの少しの違和感なんかは、それこそ気の所為だとばかり思ってた。

「あの、なんかあったの?もしかして吉井と喧嘩とか…」

そう。
それに吉井とエマは、所謂ソロアーティストとサポートメンバーというだけの間柄ではないではないか。
元バンドメンバーという範疇にすら留まらない。親友と称して尚あまりある…

『喧嘩なんかしないよぉ』

俺の危惧をものともせず、エマはころころと笑い声を立てた。

『心配しないで。本当に吉井となんかあった訳じゃないから。今年はね、俺がやりたいこといっぱいあって…。吉井もさ、いろいろ模索してるし、悪いけど支えたげてよ』
「エマ…」

こんなことを言うと怒るかもしれないけれど、俺は時折エマの細い双肩が健気な無理をしてるように見えることがある。
それは彼の持って生まれた柔和な面ざしと、俺なんかとは比べものにならない華奢なスタイルが見せる幻覚なのかもしれないのだけれど。
だけど、エマが今までずっと吉井を支え続けて来たのを見ていた中で、あながちそれだけとも言えない健気さを確かに持っているのを、流石に俺も知っている。

吉井がやりたいことの為に、エマを蔑ろにしたのではないか?
そういえば、バンド時代からの古巣の事務所を辞めて独立したと言っていた。
糟糠のナントカって奴と同じで、先が見えてきたらもう用なしとか…もしそういう理由だったら、俺は吉井が許せない。
俺が怒る筋合いじゃないだろうけど、あれだけエマに支えてもらっておきながら、それはないんじゃないかと思う。
エマは他の人間とは違うんだから―――――。

何と言葉にしていいか解らない混乱と、独断的な怒りに火が付き始めたそのときだった。

『…あ、雨…』
「え?」

エマが急に声を上げた。

『雨っ!ヤバっ!』

電話の奥でガラッ…バタバタッという慌てた音がした。
つられて窓の外を見ると、確かに大粒の雨が降り始めている。

「雨がどうかした?」

疑問をそのまま口にしたら、その返事はくぐもった音で返ってきた。

『吉川さんのツアー行ってるじゃない、俺。今日やっとオフだったからさ、洗濯いっぱいしたんだよね。お天気良かったから外に干したのに』
「ああ…」

そうだ。エマは他のアーティストのサポートに出てるんだっけ。もしかして、単にその都合…?いや、スケジュールはずれてた筈だ。
それとも吉井のサポートを外れることを前提に他の仕事を入れたんだろうか。

『おーっ!俺のは無事ぃ!…でも、ふふっ』
「?」
『残念。吉井のパンツだけアウトだ。日頃の行いの所為かもね』

「…ぱんつ…?」

吉井のパンツを洗っているのか、エマは。

『もうね、俺にはしょっちゅう片付けろとか洗濯物溜めるなとか言う癖に、ちょっと離れてると荒らしてんだもん、吉井のヤツ。かっこつけだよね』
「あれ?エマって吉井と同居だっけ?」
『え?ううん。俺んちだよ。吉井の奴、俺の留守中こっちに移住してたんだって』

そもそもどっちがどっちの家か、よく判んないけどねー、と、エマは笑った。
本当に仲が悪くなった訳とか別れたわけではないらしい。

「なんか…いや、いいや。判ったよ、エマ。欠席なんだよね?」
『うん』

間髪入れない返事で、なんとなくエマが今パンツの話なんか持ち出したのは、「それ以上つっこんでくれるな」という合図だったことを示している。
だから電話を切ったそのあと、恐らくエマが小さな溜息をついたであろうことも想像に難くなく、更にそれは確信でさえあった。

 

今回のツアーメンバーも嫌いではない。
前回からの継続も含めると、ある程度各々の癖や流れも掴めてるし、エマがいない今回、俺は最古参メンバーだ。
わざわざ来日してステージに立ってる新しいギタリスト、ジュリアンの腕は流石に確かで、吉井が今やりたいことに合ってるとは思う。

ただ。

…なんか…違うんだなぁ。

吉井がやりたいと思うことも、そのセレクトも、理解はできるんだけど、何かが違う。
テクだとか歌唱力だとか、そういう部分を理由にできない何かが、圧倒的に違う。
その違和感だけが、俺にずっと付き纏っていた。
吉井はそれを感じているのかいないのか、ステージでも打ち上げでも元気にはしゃぎ、まるでエマがいないことなど念頭にもないようにその名を口にしない。
それどころか俺達がエマの話を振ると、にこやかに返事するものの、すぐに話題を逸らせる。
あれほどべったりだった癖にそりゃないんじゃないの、と、俺は人知れず小さな苛立ちを、その度に僅か3秒ほど抱えるようになった。

あの瞬間までは。

 

それは、前回のツアーでもやった曲を弾いているときだった。
『ALL BY LOVE』。
好きだと言っていたその曲を弾くとき、エマは他の曲よりも元気よくイキイキしてたのを思い出す。

ああ、やっぱり違うんだなぁ…。

それを飄々と弾く、ステージの反対側に立つジュリアンを、その日思わず盗み見ていた俺に、センターの吉井は必然的に視界に入った。

 

「ついやっちゃうんだよぉ」

以前、そのアクションの派手さを微笑ましく揶揄したとき、エマが照れくさそうに肩を竦めた。
そのとき吉井は、
「あれは昔からエマちゃんのお気に入りアクションだもんね」
と、愛しそうにエマの髪を撫でたっけ。
二人の仲の良さが嬉しくて、俺は揶揄の対象を吉井にチェンジした。

「吉井、エマがアクションすること想定して、あのフレーズ入れたんじゃないの?」

吉井はぴくりと片眉を上げ、苦笑した。

「かもね」

と。

 

ダウン・ピッキングの手をそのまま伸ばし、ぐるりと腕を回す。フレーズに合わせて2回転。
いつしかエマのその仕草を吉井もなぞるようになり、二人して同じアクションを、全く同じタイミングと角度で揃えていた。
特に申し合わせたわけでもないのに、いつも綺麗に揃ってた。

その仕草が、視界に入ってきたんだ。

腕を回しているのは吉井一人。
俺は思わず背後を振り返り、継続メンバーたちと顔を見合わせた。
誰もが納得ずくの顔で、客席には判らないように小さく頷いていた。

そのとき、俺はやっと腑に落ちたんだ。
違和感を齎しているのは、音的なことだけじゃないって。
そしてエマの不在っていう顕在の事実だけでもないって。
それに気づくと、今回ツアーのMCで、いやにイエローモンキーのメンバーの話題が多いことも納得がいくし、逆に打ち上げやなんかの席で、吉井がわざとらしくエマの話題を避けることにも頷ける。
だけど流石に面と向かって指摘するのは憚られ、ツアー終盤まで、俺はこっそり溜息をついていた。

 

 

ファイナル近い武道館の公演をエマが見に来てた。
ステージ前に楽屋挨拶に来て俺達と普通に談笑していた姿に、敢えていう寂寥感なんかは見つけられなかった。
以前にも既にこういうシーンはあって、お互いに自己紹介も済んでいたジュリアンともにこやかに接してる。
吉井一人が珍しく妙に緊張して、不自然にエマに背中を向けていた。

だけど、俺は再び二人の仲を疑ったりはしない。
開演近くなり、エマが関係者席に移動しようとしたときの吉井の行動を目の当たりにしてしまったから。

みんなと同じ楽屋で過ごしがちな吉井は、寸前になると精神統一のために一人の部屋に入る。
そのタイミングでエマも楽屋を出た。
俺はなんとなく…いや、正直に言うと興味本位で、誰も見ていないその二人のあとをこっそりつけた。

「じゃ、見てるから」

ドアの前でエマが吉井を見上げる。

「うん…」

あからさまに置いて行かれる子供の顔になって、吉井がそれを見下ろす。
にこっと笑って手を伸ばし、軽く吉井の頬を撫でて、エマが背を向けた。

「エマ!」

それを追って、吉井は勢いよく抱きついた。
背中を抱かれたまま首を捩られ、肩越しに熱烈なキスが交わされる。
キスの角度を変えながら徐々にエマの身体の向きも変えられ、やがて正面に向き直り、強く強く抱きしめられていた。
吉井の胸に吸い取られそうな小さなくぐもった囁きが僅かに俺の耳にも聞こえる。

「大丈夫だよ。お前はお前の信じるようにやればいい」

抱きしめられていたエマの腕が、吉井の背中に回って優しく撫でた。

「心配すんな。俺はいつだってお前の隣にいるから」
「俺だって…」
「ふふ。いつか言ってたじゃん。イエローモンキーのライブを客席から見たいねって」
「うん」
「イエローモンキーじゃないけど、お前のソロステージ、客席から見たいって言ったのは俺でしょ?今更何も誤解しないよ」
「エマ」
「…大丈夫。それが誤解じゃなくても、それで終る俺達じゃない。もう一回言うけど、吉井。このために解散したんだよ。判るね?」
「解ってる。……ここからが勝負なんだよね、俺達」
「そ。明るい未来のためにね」

先に吉井の腕を解いたのはエマ。
名残惜しげにその手を彷徨わせたのは吉井のほうだった。

「いってらっしゃい」

にっこり笑うと、エマは吉井の手首のドラゴンの刺青に軽くキスして背中を向けた。

 

ライトを浴びつつ、吉井の音を支える。
さっきのセンチメンタリズムを表情は微塵も出さない吉井にこっそり舌を巻いた。

いつしか、俺自身が吉井とエマの関係に捉われ過ぎてたのかもしれない。
この二人は既に表面上の繋がりや、元バンドメンバーであるしがらみ、恋人関係という枠、更に周囲の邪推にファンの熱望なんていう全てのものを向こうに回してさえ、先を追求してるんだ。
目先の利益や安定を捨て、もう少し深い欲に忠実に。
お互いにお互いを不可欠と重々承知していながら、今「違う」と思ったら手を離す。
表現者としては当たり前の姿勢とは言いつつ、人間である以上、建前やプライドを含む計算が邪魔をする筈のそれを、拗れることなく受け入れあえるのに絶対に必要な条件とは?

どこまでも深く同じ穴に落ちた、全幅の信頼以外に何があるというのだ。

そして二人が充分納得したら、吉井はまたエマの隣に還るのだろう。
だって二人の間に横たわる絆は、既にお互いの身体に染み付いてる。

吉井は今日もエマのお気に入りのアクションをなぞる。
おそらく無意識の行動なんだろうな。
だけどこれがやっぱり俺にとっては完全体には見えない。
どうしても「片方」だと思ってしまうんだ。

ああ、早く完全体にならないかな。

ここからは遠くて見えない客席のエマが、こっそり小さく笑ったのが、見えたような気がした。

 

end

GENIUS INDIAN TOUR 2007の、エマさん不在ストーリー。どうして毎度毎度こうやって勝手に話を作って納得しようとするのか、私は(笑)
これには続きがあるんだけど、今どのタイトルでやったらいいか悩んでるので、また後日。

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