1.5倍
マネージャー田中は、もう随分と前から困っていた。
社長に奇妙な叱責を受けていたのだ。
「なんだ田中、この雑費の『かゆみ止め』って」
「いや、文字通りかゆみ止めです」
「・・・って、単なるかゆみ止めがこんな金額に膨らむか?ひと夏で100本も200本も買ったのか?10万単位のかゆみ止めの領収書なんて、初めて見たぞ、俺は。どれだけ虫にさされてんだ、現場」
「虫というか・・・・」
田中は言いにくそうに口をつぐんだ。

言えない。
現場でかゆみ止めが流行っている、なんて。
常識で考えて、そんなものが流行る世界があると、普通思いつくだろうか?

だが、その態度で社長ははっとしたように領収書を凝視した。

「・・・吉井か」
「・・・はい、っていうか、エマさんも」
「かゆいのか」
「はい」

2人はそこで揃って溜息を吐くと、デスクの脇の黒くて分厚い1冊の本を眺めた。

「黒魔術って・・・効くのかな」
「効きます。・・・でも、無駄でした」
「やってみたのか?何をやったんだよ、田中」
「吉井さんがエマさんを嫌いになるという呪いを。けっこう酷いヤツ。ちょっとくらいじゃ揺るがないと思って」
「どうなった?」
「喧嘩をしました」
「えっ?凄いじゃないか!どんなふうに?」
「嫌いになる夢を見たそうです。それがきっかけ。でも、無駄だったんですってば」

そして田中は疲れたように椅子に掛け、昨日の出来事を報告しはじめた。





恐らくあと一息でトドメをさせるはずだったのだろうというところで、エマが吉井を起こしてしまった。
起きるなりエマに甘え始めた吉井を見て、田中は「やっぱりダメだったか」と、一度は溜息をつく程度で諦めたのだった。
だが、エマが吉井に夢の内容を聞き出したことにより、事態は思いもかけず悪化したのだ。
吉井の悪夢報告に「それで?」と逐一相槌を打っていたエマが「俺もエマのことが大っ嫌いで」というくだりから無言になり、話が終わる頃にはものすごい不機嫌に陥ってしまっていた。

「っていう訳でね、もう、本当になんであんな夢見たのか・・・」

逆に、「悪夢は話せば正夢にならない」と言われてすっきりした吉井は満面の笑みを浮かべたのだが、エマはむすっとして指で机を弾いていた。

「エマさん?」

あからさまな不機嫌に、吉井がうろたえた。

「・・・って、思ってるの?」
「エマ?」
周囲が固唾を呑んで見守る中、やがて呟いたエマの声は、本気で怒りに震えていた。

「夢に見るってことは、どっかでそんなこと思ってんじゃないの?本当は俺のこと嫌いで、ギターも弾いてほしくなくて」
「ちょ、だから、エマ」
「全然思ってなかったら、そんな夢見るわけないじゃん!」

エマがこんなふうに人前で怒鳴ることは珍しい。しかも、言いながら吉井に向かってボールペンやタオルなどの手近なものを投げつけている。
昔、イエローモンキー時代はそれでも怒ってたこともあったが、基本的に怒るポイントが人とずれているので、そう頻繁でもなかった。まして吉井と痴話喧嘩をしても、人目につく頃には既に吉井が謝罪体勢に入っているので、修羅場というのにはお目にかからない。田中がエマが本気で吉井に怒るのを見たのは、解散の時だけだった。
だが、あのときと今では事情が違う。
人生の転機ともいえるあの決断に於いては、我を忘れて怒るというのも判る。
だが、今は単なる夢の話だ。
しかも吉井は目覚めるなり動揺し、すぐさまエマに甘えたのだ。その上正直に話してるんだから、根も葉もない夢だということくらいは判りそうなものではないか。

「エマってば、怒ったらすぐ投げつけるのやめてってば」
「吉井が悪いんじゃないか!そんな夢見るから!」

言いがかりである。
だが、吉井は驚かない。
つまり、こういう喧嘩は、普段は2人きりのときにやってるってことなんだろうか。

「時計はダメ!ちょっと、この前も言ったじゃんっ!硬いものはやめて!」
「煩い、バカっ!」
「・・・って、そうやってすぐ投げるから、前もバカラのグラス割ってあとで拗ねたでしょうが」
「あれだって吉井が人の携帯を隠したからじゃん」
「だってエマが構ってくれなくてメールばっかしてたからじゃないか」
「別にずっとしてたわけじゃないのに!・・・待て、そもそもお前の所為じゃん!人が喋ってるのに生返事ばっかりしてたからメールで暇つぶししてたのに」
「そ・れ・は、あんたのシャツにアイロンかけるのが忙しかったから!」
「そんなこと言ったら、そもそもシャツを大量に汚したのは吉井!衣替えの最中に押し倒したヤツが悪い」
「衣替えしながら可愛いこととかエロいことばっか言って俺を挑発したのは誰?」

大声で怒鳴りあう二人を、ただ呆然と眺めている群集の、最初に誰が動いたのだっただろうか。
田中のいる机に置いてあったかゆみ止めが取り上げられ、順番に回され始めた。

「この際だから言わせて貰うけど、俺、吉井には前から不満があったんだよね」
「何だよ。言ってみなよ」
「なんでいつもいつも、俺の電話に割り込んでくるかな。相手がびっくりするんだよね」

そういえばそうだ、と、周囲の人たちが顔を見合わせた。田中にも思い当たるフシがある。

「だったら俺も言わせてもらうよ?エマさぁ、なんでいつも使ったあと、歯磨きチューブの蓋を閉めないよね」
「うわ、細か!それ言ったら、吉井、冷蔵庫の麦茶だけど、ほんのちょっとだけ残すのやめてくんない?グラス1杯ぶんもないのに入ってて苛々するんだけど」
「ちょっと待って!エマもさぁ、ケチャップとかマヨネーズとか、最後まで使い切らないで新しいの開けるのやめてよ。もったいないじゃん」
「あっ!お前のそのセコさが勘に触る!シャンプーのボトルに水入れて使わないでよ」
「だってまだ使えるじゃん」
「っていうか、100歩譲ってそんとき使うのはいいけど、そのまま残しとかないでよ。出してびっくりするのは俺なんだよ?」
「2回はいけるんだよ」

ロックスターの喧嘩ではない。誰もがそう思った。
その上、内容が恐ろしく家庭的すぎて妙に生々しく、聞いてて赤面してしまう。
かゆみ止めは新品をあけたばかりにも関わらず、10分ほどの間に1本を消費してしまった。

「吉井は大体、俺のこと考えてない」

大いなる誤解だ。

「どこが?いつも俺はエマ中心に考えてるでしょ」

その通り。

「だって、この前だって俺は映画が見たかったのに、吉井は勝手にナイター見た!」

・・・はぁ。

「だってもう5回も見たヤツだったじゃない」

うーん、6回目はキツいかなぁ。

「だから俺、寝室のテレビで見てくるって言ったのに、行かないでっつったから見られなかったんじゃないか」

・・・・・・・・・・。

「だって折角一緒にいられる日に、なんで別の部屋にいなきゃなんないの」
「だからって普通、手足を縛るか?」

―――――・・・はぁ!?
どういうプレイしてんだ、こいつら・・・。

目の前で、新しいかゆみ止めが2本同時に空けられた。

「考えてないっていえば、エマのほうだね」
「どこがだよ」

おい、まだ聞かされるのか?と、誰もが思った。

「途中までしといて、いざって時に『やっぱダメ』とか言い出したじゃん、この前」

うわ、そっちの話かい!

「だって、引き出し開けたらゴムが切れてたんじゃないか」
「だから買いに行くって言ったのに、エマがもういいって言うから俺、どれだけ辛かったと思ってんだよ」
「そういう仕切りなおしみたいのがやなんだって。さぁ、って感じでかっこ悪いじゃん」
「しかも反省しないで、その次のときだって途中で寝たし」
「お前、あれ既に3回目だったじゃん・・・。仕方ないでしょ?この年で耐久は辛いんだよ」
「でも『もう一回』って言ったのはエマのほうだよ?」
「違う!3回目は吉井!俺は2回目のとき!」

かゆみ止めが凄い勢いで消費されていく。
我に返って田中がゴミ箱を覗いたら、あっという間に5本の残骸が捨てられていた。
スタッフたちはニヤニヤする者や赤面しているもの、明らかに喜んでいる者から聞こえないフリをする者まで、表情はさまざまだったが、一様にかゆみ止めをあちこちに塗りつけていた。

ノロケも大概だが、痴話喧嘩は聞いていてもっと恥ずかしいのだ。
鬱陶しい痴話喧嘩は世間に多々あれど、どうもこの2人のは誰もが照れてしまう。多分、そこらのカップルとは一線を画したカリスマカップルだからだろう、と、何人かは考えていた。







「・・・という訳で、かゆみ止めの消費量は1.5倍に膨れ上がりました」

田中からの報告を受け、恐らく疲れ果てるのだろうと予想されていた社長だが、意外なことに心配そうな色をその表情に刷いた。
「で、どうなったんだ?仲直りはしたのか?」
田中はいささか拍子抜けしながらも、事実をありのまま述べる。
「ええ、暫くは言い争ってましたが、最終的にエマさんが『ねえ、そんなに怒ってるってことは、本当に俺のこと嫌いなの?』とか言い出して、いや、まあ誰もそんなこと思いもしないと思うんですけど、本当に不安になったらしくて・・・。で、そんなこと言われた吉井がどうするかって、もう言わなくても判りますよね」
「・・・なんとなく」
「はい。トロトロに溶けて『当たり前じゃん!世界一愛してるよ』と・・・大声で叫んで、幕、です」

それを聞いた社長は、「仕方のない奴らだな」と、一応言いはしたが、明らかにほっとしていた。

「まぁ、エマもそこまで吉井が好きなんなら・・・いや、二人が周りに迷惑をかけすぎないならいいんだ」

結局この人も親バカなんだな、と思うと、疲れている自分がバカらしくなってくる田中である。
吉井のことは仕方の無い息子、エマのことは嫁に出した娘くらいに思ってるに違いない。

そんな親バカに対して、ちょっと水を差したい気分になるのは、きっと現場の苦労を最も蒙っている僻目もあるせいなのだろう。

「社長」
「なんだ?」
「とろこで、吉井さんが夢を見た原因についてですけど」
「ん?」
「エマさんが更に問いただしまして、吉井さん、なんて答えたと思います?」
「・・・・なんて?」

そのときの恐ろしさを思い出しながら、田中は黒い本を凝視した。

「『あまりにも有り得ない夢だったんだから、多分誰かが俺のことを呪ってるんだよ』・・・って」
「!」

慌てて机から黒い本を取り上げた社長は、引き出しに大急ぎで『ネコでもできる黒魔術入門』の本を仕舞いながら、『セキュリティーシステムも1.5倍に値上げすること』と、付箋にメモをしていた。




end
おそまつさまです・・・すんません・・・。

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