ああ、歓喜の歌よ。
意地悪な棘が君を傷つけ、軽い苦痛に表情を歪ませるのを眺める、背徳の悦楽。
何度でも味わいたい麻薬を、定期的に注入して、中毒にしてあげる。
苦痛と愉悦は紙一重だという定義を、
今一度思い起こさせる背徳の摂理。



深い森に、自分から迷い込んでいった俺に湧く真夏の泉は、欲望に温むばかり。


「うん、…そう。ありがとね」

電話の向こうに返す声は、我ながら優しい。
さっきからエマは、雑誌を見ながら静かにしてる。
1ページもめくってないのはお見通しだよ。
「はは、助かる。そうしてもらえるかな?信じてるよ、勿論。全幅の信頼を置いてますって」
幾分高くなる俺の声。
「いやいや。本当に。美人だもん。よく言われるでしょ?惚れちゃっていいですか?」
言いながら、気づかれないように視線を向ける。

「あ、そうだ、川口さんさぁ、さっきのデモのデータってもらえます?」
途端にさらりと口を突いたエマの声が、いつもより若干大きかった。

・・・・しめしめ。
今度はわざと囁く。
「マジっすよ。今カレシとかっていんの?・・・・うん」

「いいよ。どうしようか。最後のテイクだけでいい?」
「んー…」
「それともテイク8まで全部渡そうか?」
「・・・・・・・」

エマが言葉を発しない。
俺はますます調子に乗った。
「別れたばっか?マジで?俺、チャンス?」

「エマぁ?」
「あっ・・・ごめん、考えてた。えっと、順番に。全部」
「OK。ちょっと時間かかるけどいいかな?」
「いい、いい。全然大丈夫」

どうやら、心ここにあらずですな。
自分から話振っといて、こっちに聞き耳たてて上の空なのまるわかり。
大体、今日のテイクは問題なんて殆どなかったんだから、全データ持ち帰りたいなんて、不自然ですよ、エマちゃん。
「じゃあ、約束ですよ。絶対だからね!俺、そういう浮気には厳しいから」
敢えて大声で楽しげに会話を終わらせ、電話を切った。
たぶんエマは、何も聞かない。
でもそれじゃ面白くないから、俺のほうから振ってやる。

「いやいや、超ラッキー。すごい美人とデートできることになった」
「へぇ・・・」

興味なさそうに相槌を打ちながら、エマは絶対こっちを見ようとしない。
だけど、ほら。
平気な顔をしてても、瞳が洞穴のように暗くなってるよ。

森は、たった今深い霧に閉ざされて、不意に吹き始めた嵐の予兆にざわめいてる。
強がりな神様は葉枝を撒き散らした醜い様を見られたくないから、深い洞窟に身を隠し、じっと風がやむのを待とうと準備を始めたらしい。

だけど俺は、意地悪だから。
本当は意地悪を自他共に認めてるあなたなんか、足もとにも及ばないほど意地悪だから、その洞窟にわざわざ水を流し込む。

「絶対無理だと思ってたんだけど、口説いてみるもんだよね。やっぱ俺ってすげぇ」
「・・・・若いね」
「あら。エマさんってば、エマさんのくせにそんなこと言う?自分のこと棚に上げて」
「いや、俺もう最近そういうの思わないから」
「え?枯れちゃったの?」
いらないことを言うから、ガシっと足が出てきて、思いきりよく蹴られた。
「失礼な!そんなんじゃないよ。ただ、もう今更わざわざ口説いてデートしたいとかそういう衝動は」

エマは笑ってる。
笑ってるけど、目が怒ってる。
どうやら嵐は本格的に暴れ始めたようだ。
木々が必要以上にうねり、ちいさな動物たちが逃げ始めた。
すなわち、般若の形相だ。

「えー?残念。そういう衝動、ずっと持ってなきゃダメじゃない。俺、寂しいよ」
「別に吉井は好きにしたらいいじゃない。デートするんでしょ?美人と」

あらら。もうすぐ自発的に雨が降りそうだ。
だけどこの森の特性からして、それは今ではない。
おそらく誰にも見せない一人の洞穴の、岩戸を完全に閉めてから、乱れに乱れて挙句に森を壊そうとするに違いない。


ふふ。このへんにしておいてあげようか。

「うん。でも俺一人でデートしたって仕方ないし。でもエマがいらないっていうんなら・・・どうしようかなぁ」
「なんでだよ!中学生じゃあるまいし、デートくらい一人で行けばいいじゃん。俺は別にいらな・・・・え?」

にやにや笑う俺。

「・・・いらない・・・って?」


嵐はただの予兆。神様が岩戸を閉めてしまう前に、木々から光を差し込む。

「だからね、たぶん無理だろうって諦めてたヴィンテージ、売りに出たんだって。今んとこカレシいないらしいよ?その美人ギター」

「・・・・え?」

ぱぁっと光が差して、深い森の霧が一瞬で晴れる。
「吉井・・・いったい、誰と電話してたの?」
「ん?」

俺はわざわざ立ち上がってエマの鼻をちょん、と摘まんで、俺達が馴染みにしてる楽器屋のオーナーの名前を告げた。
エマはその、とっくに還暦を超えたおっさんの名前を聞くなり、一瞬、こてん、と俺の肩に額を預ける。
言葉にはしないけれど、途端に強張りがとれて、ほんの少し前まで、エマが全身で緊張してたのが肌に伝わってきた。

「心配しちゃった?」

明らかに弾んだ俺の囁きに、だけどエマは答えない。

「ねぇ、そのギターってアレ?前にネットで見てたやつ!色わかる?いじっても大丈夫って?」

心弾みを言葉巧みにギターの話にすり替えて、嬉しそうに笑う。
でも、それだけじゃないことは、まだ俺の肩をきゅっとつかんだままの、その仕草で判るよ。

「さぁ、そのへんはデートしたときに聞いてみないとね」

もうそれ以上は意地悪しないで、光に満ち溢れたその頬に、軽いキスを贈った。

 

あなたは森の神様。
平穏だけではすぐに飽きてしまうから、時々こうして嵐を起こす。
気高い神様は本当に傷つくと再起不能になってしまうから、刺激はチクチク、軽い痛みを絶え間なく。
それも慣れちゃったらつまらないでしょ?
だから普段の俺は、あなたにひれ伏し、支配されてるように見せかけるけど、小さい傷と、すこし大きい傷を少しずつ少しずつ与え続けて、あなたの心を離さないように。

ああ、歓喜の歌よ。
意地悪な棘が君を傷つけ、軽い苦痛に表情を歪ませるのを眺める、背徳の悦楽。
何度でも味わいたい麻薬を、定期的に注入して、中毒にしてあげる。
苦痛と愉悦は紙一重だという定義を、
今一度思い起こさせる背徳の摂理。

安堵なんか許さないよ。
束の間の幸せなんかで満足しないでね。
エマさん、あんたは誇り高い森の神様。
陽光と雷雨を自在に操る、無敵の存在。

だけどね。

俺はね。

あんたが住まう、その森そのものなんだから。

嵐のうねりで、夜の闇の深さで、あんたをとことん困らせる。
だけど次の瞬間には暖かな陽光で包み、甘い木の実を熟そう。
あんたの好きな動物たちも寄ってくる。
ずっとずっと俺のことを考えていればいいよ。
そうすれば、育てるも枯らすもあんた次第。
どのみち森の神様は森からは逃げられない。

神様がずっと森のことを考えてくれるように、森は時にこうして暴れるんだ。

 

「で、川口さん、エマさんにあげるデータ作ったんですか?」
「作るわけないじゃん。痴話げんかの弾みで言っただけなんだから」
「・・・なるほど」
そんな会話が、近くのデスクからこっそり聞こえてきたけれど、

俺の神様は、もうそんなことなんて全く気にもしていなかった。

 

ふふ。お天気屋さん。

 

end

意地悪吉井。
エマちゃんって意地悪さんって感じだけど、根っから振り回されやすそうな気がちょっとする。

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