●法話「煩悩を溶かす生き方を」

平成16年12月28日 岩手日報「紙上法話」に掲載

 大晦日、除夜の鐘の音と共に今年一年間の心に積もった塵を払い、清浄な心で新年を迎えたいものです。 とは言え、 [掃けば散り 払えばまたも塵つもる 人の心も庭の落葉もという歌にあるように、「心の塵」=「煩悩」は生きている限り完全に無くすることは出来ません。
 
 しかし、それに振り回されないようにコントロールすることはできます。「仏と衆生とは水と氷との如し」という言葉があります。  衆生とは煩悩にとらわれて心が氷のようにカチカチになってしまった私たちのことで、煩悩のないサラリとした水のような心をもっているのが仏ということです。  水も氷も成分は同じH2O、 氷った心を溶かして水の状態にすればするほど、仏の心に近づけるのです。

 人は一人では生きて行けません。社会や自然、多くの人たちの支えによって生かされております。誰しもが持っている欲を、  自分一人が満足を得るためにだけ使えば、「我欲」となりますが、支えられている事への感謝と自らも他を支えようという事に使うならば、「欲」は「布施」の心に転じます。  自らの心を暖かい思いやりの心で溶かすような生き方、これこそが煩悩をコントロールする生き方に通じるのです。

イラスト:高澤公省 老師

 ある実話に若い母親が止むに止まれず、幼い子供を連れて嫁ぎ先の家を飛び出し、実家に帰ろうと汽車に乗ったのでした。  終着駅の上野駅に着いたのですが、切符を買うお金も持っていなかったので、出るに出られず思案に暮れてしまいました。  いっそ、幼い子供を道連れに・・・とホームを見つめていた時でした。一人の中年紳士が、「どうかしましたか?」と声を掛けてくれました。  訳を話すと「待っていなさい」と言葉を残し、やがて切符を買って戻って来たのでした。  「お名前を」と言った時には、もう、紳士は人混みの中に紛れ、見えなくなってしまったのでした。
 
 それから五十年、今はひ孫にも囲まれ幸せな暮らしをしているその婦人は、紳士にお会いしなかったなら、  今の幸せはない。紳士にお会いした師走の三十日には花を生け、[お名前もお顔もわからない、紳士様] と、毎年毎年手を合わせ、年を越しているのだそうです。
 
 道元禅師は「人は善い事をする時は、人に知られたいと思うし、悪い事をする時は人に知られたくないと思う。」と言われております。  この紳士の行いは、それらの計らいから離れ、布施というのは目立たなく、サラリと行うものだということを教えてくれております。
 
 私たちも自分の為にだけではなく、誰かの為にさりげなく手を差し伸べる。  そんな生き方を心掛ければ、それが自ずと煩悩をコントロールする生き方に通じるのではないでしょうか。


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