お盆の季節がやってまいりました。普段、遠くに離れている方も、帰省し、みんな揃ってお寺やお墓にお参りし、亡き人をご供養致します。ある家から、亡き人のご供養の為に招かれた時の事です。 そこの家の亡きおばあちゃんのお孫さんで幼稚園の男の子が「和尚さん、カンカンばあちゃんを拝みにきたの?」と聞くのです。「そうだよ、でも、どうして、カンカンばあちゃんと言うの?」と尋ねると、「だって、いつも、ナムナムしながらカンカンと鐘を叩いていたの」と言うのです。 私が御仏壇の前で、お勤めを始めようとしたとき、その子のお母さんが、「和尚さん、この子も一緒にお勤めしたい言うの、宜しいでしょうか」と聞くのです。その子は、いつもおばあちゃんと一緒にお経をあげていたのでした。 私と一緒に無心に般若心経をお唱えするその子の後ろ姿に、誰しもが、在りし日のおばあさんを重ね合わせたのでしょう。 お勤めを終え、振り返ると、その場にいた家族はもちろん、親戚の方々が、涙を拭きながら、その子に「有難う、有難う、おばあちゃん、とっても喜んでたよ」と言うのでした。 とんちで有名な一休禅師は、「死にはせぬどこへもゆかぬここに居る たずねはするなものは言わぬぞ」と言って、亡くなられたそうです。亡き人は、何処に行くのでもなく、故人の愛した人の心に、いつも一緒にいるのです。 おばあちゃんは、これからもずうっとずうっと、その子の心に生き続けていくことでありましょう。