Trash 2013 winter Issue

THE NEXT DAY を繙く試み

 
How Does The Grass Grow

駅のそばに墓苑がある
墓苑の少女達は化繊のスカートと
ハンガリー製のサンダルを身につけている
少年達はRiga-1に跨り
小さな丘を駆ける

なんという悲哀と悲嘆
佇む木々は枯死している
そこが我々が密かな逢瀬を重ね、
そして銃を携えて苦悶した場所
君はいまだ私を愛してくれるか

もしも時計が逆戻りできるなら
少女達は血に満たされ
再び木々も生き返るだろう

死したる者等を忘るるなかれ
彼等はとても偉大であった
そのうちの幾人かは…

yayaya…
草は如何にして育つ? 血・血・血
兵士はどこに横たわる? 泥・泥・泥  

だが 私は盲いた生を生きていた
牢獄の中に蒼白で
だが君は無から生を創り出した
いまや私は我が黒馬を疾駆する
私はおまえを恋しく思う
かつておまえが知るよりも尚
私はお前を待っている 
赤い眼と石の心保(も)て。 

(くりかえし)

私は敗北のうちに
夜の星々を見つめている
私の 命の光は燃え尽きて
明日という日はもう来ない

そして君は眠りのなかで溜息をつく
そして意義は夜明けとともに還ってくる
※(英・陸軍の訓練歌“What makes the grass grow?”“Blood, blood, blood.”/“What are we here for?” “Kill, kill, kill.”に由来すると思われる)

 

(大意)

 

【How Does The Grass Grow】
THE NEXT DAY
ノーヒントの迷路のような此のアルバムに多少なりとも意味を付加しているのは、発表された幾つかのPVである。いや増しのカオスでもあるのだが、少なくとも、PVの中に幾つかはなんらかの道標が立っているようにも思えるのだ。
ノーヒントでありながら、アルバム全体に漂うイメージは、年古る竜の沈思の波、20世紀にプレヴェールが「回転する血溜まり」と呼んだこの私たちの世界に打ち寄せ来る思考の波濤である。

薄々でもなく、私はアルバムのオフィシャル邦訳を読んだ時に既に「重い怒りの錘り」がアルバムに吊り下げられているのを感じざるをえなかった。
Bowieは怒っている。
何にか?「暴力と、それが世界に流れ行く時間に及ぼした作用について」…。
戦争は過ぎ去った遠い昔の物語ではない。
旧大陸と呼ばれるヨーロッパは国境が地図上に数多の皺を作る混乱の地でもある。
駅のそばの墓苑には枯死した樹が立っている。
糾われる二つのイメージが此の詩にはある。若い世界の戦と死、エネルギッシュな血と戦闘の暴力性。そして老いたる21世紀の死屍の上に築かれた墓苑の如き静かな衰退。
息を吹き返し、赤い目と石の心で良人を待つのは疫神の如き戦争の神格化か…と…そこまでは私の妄想に過ぎないが…。

草生す訳は何処にや 血なり血なり血なり
倒れ臥す若者は何処にや 泥に泥に泥に

今、目の前にはカウチとTVがあり、窓の外には晴天があろうと、WEBによって、こんなにまでも小さくなったこの世界では、MacBookを開いただけで、戦争も血溜まりも、直ぐ、もう今此処に、この眼前に展開しているのだから。

 

I’d rather be high

いまやナボコフは太陽に晒されている
グリューネヴァルトの浜辺で ※
かがやかしくも剝き出しで
まさに作家らしいやり方で

クレアやレディーマナーズは飲んでいる
日が暮れるまで延々と
唇が血を流すまで醜聞話
政治やそして何やかや

むしろハイでいたい
むしろ飛んでいたい
むしろ死んでいたい
さもなければ正気を手放して

砂に埋められた男達に銃口を向けるよりは
むしろハイでいたい

テムズは黒く、塔は暗い
私はカイロまで飛ぶ、我が連隊を探すために
街は将軍達であふれている
将軍達は戯言ばかり
私はよろめいて墓場へむかう そして私は
両親の傍らに横になり、囁く
愛しいダッキー達を忘れないで
誰でも捕まえられる…

(以下繰り返し)

私は17歳 みてくれ通り
これ(みてくれ)を失うことになるのを恐れてる
煙草を吸って 別れた恋人に電話した方がいいかな
希(こいねが)うのは、素敵な(未熟な)十代のセックスを イエー

(以下繰り返し)

※ 表現主義の画家Isaac Grünewald 1889 -1946の「疫病・ビーチ」という絵がある。

 

(大意)

【I’d rather be high】
カンバスに羅列されたイメージの色彩のように、ハイでいたい。飛んでいたい。むしろ死んでいたい。という繰り返しに区切られながら、この歌は進む。
明るい日差しの中の迷路であり、漆黒の隘路でもある。一寸先は輝く闇だ。

ロシアの生んだ偉大な知識人であり亡命作家であるウラジーミル・ナボコフは、「ロリータ」の著者であり、思春期に至り掛かる少女の妖しい性的な魅力の陰りを難解な比喩で著し尽くし、今日我々が知る「ロリータ」という言葉にその意味を付与した作家である。ウィキペディアによればチェス・プロブレム(審美性を追求するチェスパズル)作者でもあった。
そのナボコフは太陽の下に剝き出しで、無防備だ。
GRÜNEWALDについてはよく分からない。キリスト磔刑図で有名な画家の名か、海の無いドイツの町の名なのか、それとも…表現主義の画家Isaac Grünewaldの浜辺を描いた「疫病」と題された絵のことなのか?混沌はいや増す。
そして…淑女達は牛が小屋に帰る日暮れまで、喧しく唇が血でぬれるまで醜聞を語り尽くす。
「私」はむしろ…高みにありたい/むしろ…飛んでいたい/むしろ死にたい。
砂に埋められた男達に銃口を向けるよりはむしろ…
(ニューズウィークの報道によれば2001年、アフガニスタンのマザリシャリフでは1500人以上の(一説によれば3000人に及ぶ)アメリカも関与されたと言われるタリバン兵捕虜の虐殺が行われ、死骸は砂に埋められたとされている。dbがその報道に関心を持ったかどうか私は知らない…私が、砂に埋められ殺されるといわれて想起するのは「戦場のメリークリスマス」のセリアズ なのだ。)
暗黒のテムズとロンドン塔から灼熱のカイロへ彼が探す連隊はかつてこの血を支配したイギリスの?それともムバラクを追った現政権の?動乱は世紀を超える。

そして、ここにも墓地が現れる。
父母の眠りのかたわらに横たわり、ダッキー達を忘れない。(あの黄色い風呂に浮かべるひよこのことか?)あのすぐ手に捕れる者達を。

ここで縒りあわされた歌はその糾える根源へ到達する。
17才の若い美貌。失うことを恐れている。煙草と別れた恋人と電話…
奔放な性…そう、ナボコフが描いたような、未成熟で素晴らしい(?)
詩はそれこそ「ロリータ」のように、詩的韜晦(本心を隠し、真意をくらますこと)の限りを尽くす。

ヴィトンの贅を尽くした美しい(そして豪華なスリルの)CM映像とはうらはらの、前世紀のソルジャー達が軍靴で舞踏するPVも意味深長に…ここにもBOWIEの油断無き怒りが熾火となって、静かに燃え広がっている。

 

極私的考察

難解ながら、イメージは氾濫する大河のように、私たちに押し寄せてくる。

今回も2編を友人の手を借りて抄訳してみた。

インターネットでは、日本の代表的ファンサイトElmoさんの「TVC15」とともすけさんのブログ「Silenceのほとりで散歩 by ともすけ」で歌詞の考察がされているので、熱心なBOWIEファン諸氏はそちらを当たられたい。

David Bowieが2年を費やし、10年ぶりに発表したアルバム。

ロンドンで行われている(8月11日が奇しくも最終日だ)大回顧展「DAVID BOWIE IS」は、世界を巡回している。

TVC15のElmoさん、ラストイベントにも参加したjojoさんからのお土産話でその展の意義の深さを垣間見た。

願わくば日本巡回が待たれるところである。

2014 1月1日 TRASH