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2013

SUMMER

THE NEXT DAY についてのごく私的な考察

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Valentine's Day

ヴァレンタインは私に告げた…誰が行くかを

彼が何よりも最も大切にしてきた感覚を

教師達そしてフットボールスター

それは彼の小さな顔のうちにある

それは彼の痩せた手のなかにある

ヴァレンタインは彼にそう告げた

彼は何か言い分があるのだ

今日はヴァレンタインの日

群衆のリズム

テディとジュディが横たわり

ヴァレンタインはすべて見ている

彼には言うべきことがある

今日はヴァレンタインの日だ

ヴァレンタインは、彼がどんなふうに感じてきたかを私に教えてくれた

もしも世界が彼に服従していたら

あるいは、ショッピングモールをふらついていたなら

それは彼の小さな顔のうちにある

それは彼の痩せた手のなかにある

ヴァレンタインは「それ」をすべて知っている

彼には言うべきことがある

今日はヴァレンタインの日だ

それは彼の痩せた手のなかにある

それは彼の冷たい心のなかにある

今日は何かが起こるのだ

ヴァレンタイン、ヴァレンタイン

(大意)

 

不思議な詩だ。

およそこの新盤中最も難解なのではないかと思わせる。

私がこの歌詞を聴く度に想起してしまうある種の血生ぐささは、ヴァレンタインデイと言う言葉が、日本におけるスイートなお祭り騒ぎとは裏腹に、アメリカの銃撃事件を連想させるからだ。

「血の… 悲劇の…」と修飾される此の日に起きたアメリカでのギャングの抗争事件を連想させるからか、或は「教師とフットボールスター」という文節が「ジョグ=スポーツスターなどの学校内のセレブ的存在」への憎悪を犯行動機としたコロンバインの乱射事件を連想させるからだと思う。

だが、「聖・ヴァレンティヌスが兵士の婚姻を禁じた法令を破り婚姻させた罪で殉教した日」であり、「愛と婚姻を司る祭日」であるValentine's Dayという歌の表題との違和も拭えぬ所でPVが出た。その中でシンプルな出で立ちでただ歌うBOWIEがわずかにマイムする箇所が「もしも世界が彼に服従していたら/あるいは、ショッピングモールをよろめき歩いていたならば/それは彼の小さな顔のなかにある」の後の「それは彼の痩せた手のなかにある」の部分である。ここで彼は確実に長銃で狙いを定めているか引き金を引いている。

BOWIE自身の中にある根底的な「暴力に依拠する制圧」への怖れが滲む歌詞なのか?

ヴァレンタインという言葉は巧妙で絶妙な隠れ蓑なのか?

それともシンプルな「愛への讃歌」なのか?

そう取ると、この歌は俄然「愛による絶望的な世界征服への願望の歌」になる。

どちらかというとそちらの方が私好みのロマンテックではあるのだが…。

THE NEXT DAY

我が眼を見よ 彼は彼女に言う

「さようならだ」彼は言う

「泣かないで」彼女は彼に請う さよならだ

日がな彼女は、彼の愛を想う

彼等は大通りから路地裏まで彼を追い立てる

愚かで吠え立てる群衆がすぐそこに

彼等は この世の終わりの歌に餓え飢えている

けっして充ちたりはしない

聴け

娼婦たちの言葉を傾聴せよ 彼は彼女に言う

彼は 彼女等の 紙細工を作る

そして彼は、彼女等を手押し車に乗せて川辺の土手に引いてゆく

彼女等、濡れた紙の死体たちは、暗闇の中 岸辺の波に晒される

憎しみで固く強張った司祭は

司祭の愉しみのために女たちに男の扮装をさせ

まさに、いまお楽しみの始まりを要求する処

 

私はここだ

完全に死んではいない

私の体は樹洞(うろ)の中で腐り行く定め

木の枝々が私のための絞首台に影を落としている

 

そして その次の日

そして次の

新しい日

 

彼等に特有の疾患の苦痛を見ぬ振りをして

彼らは、路地から路地へ彼を追いかけ 追い落とす

彼等は泥の中を彼を引っ立て、彼の死のための聖歌を歌う

彼を紫色の頭をした司祭の足下まで引きずっていく

 

先に彼等は 汝等に汝等の求める全てを与え賜う

それから彼等は、汝等が持つ全てのものを奪い去る

彼等は 足で立って永らえ そして跪いて死ぬ

彼らは 聖衣を装い 悪魔とともに業をなせる

彼らは 神が悪魔が証すがためにおわすことを知っている

彼らは 私の名を井戸底に向かって大声で呼ばわる

(chorus)

(大意)

PVでは、腐敗した聖職者の後ろ暗い店の中で暗喩とグロテスクが交錯するラストまでのバッドテイストの一貫性に走馬灯のような既視感すら感じる。

この歌詞の中では本当に回転木馬のような走馬灯現象が起きる。

男は地球に落ちたトミーか?BOWIE自身か?それとも女はマグダラのマリアなのか?追い立て追い込まれているのは誰なのか?

だが、「群衆」と言われたら、聴衆である私は自分をその中に混在させねばなるまい。「お前たちは、世の終わりの歌を渇望し、決して満ち足りることがない」と言われたら、是と返さねばならないだろう。

(それ故に、昨年幾度かネットに遡上した引退?報道((あれも巧妙なフェイクだったのかもしれない))を苦々しく、胸苦しく読んだのだから。)

どうにも理解するのに苦労するのは紙製のスカルプチュアだ。特定のモデルがあるのかもしれないが、日本人である私は日本神道の「人形(ひとがた)流し」しか思い浮かばない。おびただしい白い紙の人形(ひとがた)が清流に浮かび流れる様には畏れを感じる。

そして完全に死んではいない 空洞のある古木の中で腐る定めのボディである「私」その枝の陰が落ちる絞首台…。

そしてPVではこのコーラスに添って「彼女」の掌にスティグマが顕現する。

絞首台はまた十字架にも似た存在だ。

そして、ここにヨブ記の一章にあるヨブ自身の言葉「神は与え(give)、そして奪い(take)たもう」が捩られている。

ヨブは信仰に厚い義の人として聖書に語られる人物。サタンと神との問答の上で「信仰」を試すため大いなる苦しみと腐敗する病に罹患したのち、神への忠誠故に癒される…。

さらに、逆しまの暗喩が続く。

They live upon their feet and they die upon their kneesは、メキシコ独立運動の志士エミリオ・ザパタのひざまずいて生きるより、立って死ぬほうがいい (It's better to die on your feet than to live on your knees)の逆さまである。

悪魔が語ることにより神の存在が証される。というのも聖書にある逆説的表現。

呼ばわる井戸底には誰がいるのか?井戸の中から大きな声で呼ばわったのは洗礼者ヨハネなのだが。

(洗礼者ヨハネは聖書上の人物。イエス・キリストの時代にヘロデ王によって井戸に幽閉されていた。旧約聖書において、「見よ、私はあなたより先に人を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒野で呼ばわる者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と予言された人物がヨハネである。)

歌詞にもPVにも氾濫する暗喩は些か羅列的だ。

だがその中に深く長い地下水路を流れる「怒り」に似たものを覚える。

次の日とは何だろう。

過去から今日を経てその次に来る、来るべき、次の日。

過去から10年の時を経て、未だ完結しない未来へ。

世界は今夕暮れ時なのかもしれない。

だが、沈んだ太陽は再び東の空から復活する。

まだ見ぬ明日。

それが、私にとってのthe next day なのだろうと想う。

極私的考察

The next day 全編を聴くと、私の中にはある一つの言葉が浮かぶ。

「尊厳」古語に等しくなりかけているこの言葉が、今、人に問いかける意味は深い。神に照らして? 国家に照らして?

それともTwitterのタイムラインに照らしての尊厳か?

否、自らに照らしての尊厳。無力な、存える一個の命としての尊厳である。

現代において、命の危険に晒されることなく、自由を束縛されることなく、或いは人の喜びや幸福を侵すことなく生きてゆくことの困難を想う。

BOWIEの歌のそこかしこに、人がこの時代の下に尊厳なく存えなくてはならない現実を抱えていることが綴られているように想えてならない。

とりわけアルバムタイトル曲はその傾向を感じる。人の不名誉を歌っているように想えてならないのだ。

人が静かに、独り独りの心の中で取り返すべき名誉が尊厳があるのではないかと…問われているように感じるのは私の独り合点かもしれないが。もしそうであっても、BOWIEの歌が私にとって常に鑑であったことからすれば、この新盤もまた、その通りのことなのだなと想うのだ。

PVにもなっている2編を友人の手を借りて抄訳してみた。

インターネットでは、日本の代表的ファンサイトElmoさんの「TVC15」とともすけさんのブログ「Silenceのほとりで散歩 by ともすけ」で歌詞の考察がされているので、熱心なBOWIEファン諸氏はそちらを当たられたい。

David Bowieが2年を費やし、10年ぶりに発表したアルバム。

ロンドンで行われている(8月11日が奇しくも最終日だ)大回顧展「DAVID BOWIE IS」もあいまって、本人の露出がPV以外に無いに等しいにも関わらず、BOWIEファンの周辺は狂騒を呈すほどのブームになりかけている。

乾いた砂に染むようにその歌と声は現れ、市場を席巻し、ファンを魅了し、立て続けにリリースされるPVがこの10年ぶりのアルバムの成功をいや増しにしている。

自分と言えば、Bowieが再び歌う。それだけで十分満足であり、アルバムが出て熱狂的な喜びの後にどちらかというと、この新盤と一対一で対峙したい欲求の方が、勝ってきた。

TRASHサイトも、その後のBOWIEラッシュを追いかねている。

独りで静かにBOWIEの音に還る。それが何にも勝る。

年齢的なものかもしれないが、この時代、現在の「タイムライン」から遠ざかることも実は大事なことなのだと改めて考えさせられたのだ。

2013 8月11日 TRASH