喫煙ゴルファーを人目にさらすな

渡部 直己(文芸評論家)のスポーツ批判宣言

・・・・・・朝日新聞(夕刊) 1998年 5月 25日より・・・・・・

 私はスポーツと名のつくほぼすべてのものを好み、それを見ることに大きな楽しみを覚える者であるが、日本のプロゴルフだけは、いつまでも積極的に好きになれない。三度に一度は、煙草(たばこ)を吹かしながらプレーする者の姿を目のあたりにするからだ。先日も尾崎将司がティーグラウンドで煙草を吸う光景に接し、すぐさまチャンネルを変えたのだが、あんな自堕落な一瞬は、スポーツの場に本来あってはならぬものである。

 敬遠されたとたん、ユニホームのポケットから煙草を取り出し、一服しながらゆっくりと一塁に向かう野球選手がいるだろうか。くわえ煙草で前走者の来着を待つ駅伝ランナーという者を見たことがあるか。尾崎らが演じているのは、まさにその種の仕草(しぐさ)なのだ。彼らはしかも、観客に見られるために存在する「プロ」なのだ。このとき、観客たちの視線を魅了すべき「プロ」にとって、その「外見」もまた立派な実力であることを忘れてはならない。

 たとえば、ロッテの小宮山が一段上の投手になったことと、あの不気味な眼鏡着用は無縁でなく、草野進の名言ではないが、野村克也の致命傷の一つは、彼が十二球団中もっともユニホームの似合わぬ監督である点に求められよう。この国の特に男子ゴルファーたちも、ダラダラとコースをたどるその表情や体つきや衣服に、「プロ」として人目を心地よく挑発する魅力や迫力を一体に欠いているのだが、その上なお、あのくわえ煙草なのだ。さらに、そうしたゴルファーらのショットやパットを、くわえ煙草で楽しむことは、ギャラリーには禁じられていると聞く。逆だろうが!

 過日のフジサンケイ・クラシックで、ワッツが川奈の海に故意のティーショットを二発もぶち込んで物議をかもしたが、あれはあれで、見ものであった。一挙はいわば、ゴルフプレーとして演じられた華麗な自殺といった光景だったが、あれをフェアウエーへの侮辱と非難するなら、尾崎らの醜いふるまいは、プロスポーツ自体への犯罪だと断ずべきだろう。いずれにせよ、この尾崎のごとき存在に長く名をなさしめて恥じぬような本邦ゴルフ界である。国内ツアーを次々と外国の本物の「プロ」たちに制せられて当然の話なのだった。

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