「にーちゃ、おべんきょうしてる?」
お気に入りの本にのめりこんでいた涼介は、その声にふと視線をあげた。
幼い可愛い弟の声は絶対聞き逃さない自信がある。 それを地獄耳というのだと、後に広報部長と呼ばれる男から言われることになるのだが、それはまあ、ここではまだ先の話。
声のした方に視線を向けるとやっぱり…というか当然啓介がそこに……。
「どうした? 入っておいで啓介」
覗き込むように頭を入れて、それでも部屋に入ろうとしない啓介の姿に、椅子を鳴らして涼介が立ち上がった。
「うん…でもね、おべんきょならいいの。 じゃましちゃイケマセンだから…」
「……」
妙な言い方をする啓介に、うん?と涼介の眉根が寄せられた。
そういえば最近、啓介が自分と遊びたがることが少なくなって、変だなぁとは思っていた。
部屋にもとんと遊びに来ないし、一人遊びでもしているのかな、お兄ちゃんちょっと寂しいな…なんて考えてたんだけど。
「そういうことか…」
まったくイラナイことをする…。 つい、ひとりごちてしまった。
大人達が啓介に対して使っていた言葉が、最近啓介が自分の前に姿見せなかった理由かと思い当たったのだ。
(自分が啓介と遊んで一体何の支障があるっていうんだ。まったく)
大体自分らのことをなんだと思ってるんだ、実の兄が弟と時間を使っちゃイケナイだって?
涼介のまわりに、見えるものならば、みるみる暗雲が立ち込めてくるのが見て取れただろう…できれば見たくないから見えなくてありがたいけれど…。
けれど、そんなこと微塵も感じさせず、見事に涼介は微笑んで見せた。
「そんなことない。啓介とならいつでも大丈夫だよ」
(こんな可愛い弟に気を使わせて、誰だまったく…)
「ほんと!」
不安そうな瞳が途端にぱぁっと輝きをまし、ドアの隙間から体全部が入ってきた。
かわいそうに、一緒に遊んでくれるという、たったそれだけのことでこんなに喜んで…。今までよっぽど我慢していたに違いない。
倍率ドン、更に倍「篠沢教授に全部」な気持ちになってくる。ごめん古い(笑)
涼介のもとに、わあい、と勢いこんで飛び込む啓介を、愛しさにまかせてきゅっと抱きよせる。
甘いミルクのような匂いと、やわらかな茶色の髪が涼介の鼻先をかすめて、一瞬前までのムカツキが一気に冷めていくのがわかる。
ほんわかとやさしい気持ちが湧き上がってくるのだから本当に不思議だ。
久しぶりだなぁこの感触…と思う。
知らず微笑みを浮かべたその顔を覗き込むように、キラキラひかる大きな猫目がにこにこと見つめてきた。
「けーちゃね、に-ちゃまとおそといきたいの、こうえん。だめ?」
そう言って小首をかしげる。
なんて可愛いんだろう…
涼介の頭の中から、先ほどまで読んでいた書物の内容が気持ちよくすっ飛んでいった。
啓介が可愛いのはわかってる、どうやったって自分は啓介には甘い。
でも、自分としても久しぶりに目の前にして、本当に本当にその可愛さが実感としてこみ上げてくるのが止らないから困った。
愛らしさについ、考えもなく啓介の鼻筋に唇を寄せていた。
ふわりとかる〜いキス。 してからあ、と思うが、ま、いいかな、と思ったりもする。
啓介効果だろうなこれは、と。
息が触れたのがくすぐったくて、身をよじらせる啓介の髪をやさしくくしけずる。
「だめなんかじゃないさ。 お兄ちゃんも一緒に行きたいな」
「いいのっ!?」
嬉しくて、うきゃぁ―と変な声をあげる啓介。
大すきなかっこいー兄ちゃまといっしょにおそとにいけるの!、ひらまや、あれれ、ひややまじゃなくてえーと、えーと…
公園の名前がいえなくて、口の中でもごもごしてしまう啓介。
「ひやまやすぎこーえんに行くの!」
結局まちがってるけど、そんなことお構いなし、だ。 あそこだってことはわかってる。この時期だと桜が綺麗なあそこだから。
「に―ちゃといっしょだぁ!」
つい喜びが体に収まらなくて、ぴょんぴょん部屋を飛び跳ねはじめた。
「あ、ほら、ドアに頭ぶつけるぞ啓介」
言ってるそばから、ごつんと頭をノブにぶつけて、うっ、となる。
じわぁ…と大きな目にみるみる涙がもりあがってきて……いくかな、いくかな…と、一瞬の息継ぎの後を想像する涼介だが、予想に反して、涙目の啓介は踏みとどまった。
「い…いたくないいたくない。いたいのみょーぎのおそらにとんでったぞ。なかないよ〜。 ね、けーちゃ、つおい?」
ちょっと身構えていただけに、拍子抜けしてしまった涼介だが、痛いモンには変わりないだろう啓介の、涙うるうるの猫目に苦笑してしまった。
「ん、啓介はエライな。強いぞ」
「へへっ、ね、だからおそといこ?おそと」
ぐしっと鼻を擦る。
もう頭をぶつけたことなど、どこかに飛んでいってしまったようだ。
「じゃ、お外用のお支度しておいで、ちょっとしたらお部屋にいくから」
「うん!わかったー。 じゃ、40びょーでしたくしてくるっ」
あとでねーーー☆
昨日見たばかりのアニメ映画のせりふをまねて、ばたばたっと自分の部屋に転がっていく啓介。
そんな微笑ましい光景を見送りながら、パズー啓介が待ちくたびれないよう手際よく準備をすすめないと…と思う涼介。
とりあえず、まずは自分も外に出かける準備をしなくては。
出かける前に、家政婦には一言言わないといけないしな…。
子供なのに妙にしっかりしている未来の白い彗星は、戸締りなど人任せにしない、何でも自分でしきっていくしっかりものだった。
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ひややましぎ…じゃなくて、ひらまやじゃなくて、ひら…あれ?
いや、まじに段々わからなくなってくるんで、どうぞお試しを…じゃ・なくてー(苦笑)
そう、ヒマラヤ杉公園。
すっかり満開全開になったこの公園の桜の木の元、大好きなお砂場やら滑り台やらシーソーやらをキレイに無視して啓介が走りよっていった先は、この公園でも一番の樹齢だろう桜の巨木の下だった。
「これ、これ、みて! きれーだねぇ」
にかっ、と笑って兄に指差して見せる。
すでにひらひらと花びらが舞い始めている桜たち、今年ももう桜の季節は終わりだなあと、少し物悲しい気持ちにもなってくる。綺麗だけど。
いや桜以上に、それ以上に…。
「どうしたの?」
「ん、なんでもないよ啓介」
舞い散る桜の花のもと、両手を広げてふんわりと笑ってくる弟に見とれていたなんて、言えないよなぁ。
まるで天使みたいだなんて。まさか。
「あのね、しをりちゃんにおしえてもらったの。 さくらのはなびらをつかまえて、おねがいするとね、おねがいかなうんだって。でもしをりちゃん、ぜんぜんつかまんなかったんだよ」
無邪気にくすくす笑う啓介。
ちなみにしをりちゃんとはご近所に済む啓介の同級生で、ナイショだけど啓介にぞっこんラブな女の子である。
「ここね、いちばんおっきなさくらのきだから、いっぱいつかまえられそうでしょ? けーちゃ、おねがいあるんだもん。にーちゃまといっしょにきたかったの」
そういって微笑んだ啓介の、白いパーカーを舞い上げるようにして、ざざあ、と風が吹き上がる。
一瞬枝をしならせて白を霞ませた桜が、次の瞬間雪のようにその花びらを降らせはじめた。
「わあ…」
「……」
口をぽかんとあけたまま見上げる二人に、静かに降りつもる白い花びら。
雪より気まぐれに、軽やかに…。
思わずさしのべた涼介の手の中に偶然一枚、大人しく収まった。
「啓介、これ、あげようか?」
啓介の目線に自分の手のひらにおさまったばかりのそれを差し出す。
「だめなの、それ、にーちゃのおねがいごとのだもん。
けーちゃのはじぶんでつかまえないと、なの」
ぷるぷると頭を振ると、さっそく花吹雪の真中に仁王立ちになって、
よーし、と両足を踏ん張ってみせる。
ふわふわと舞い降りてくる一枚一枚を追って、ぴょいっ、と飛び跳ね始める啓介。
遠くから見たらまるで踊ってるみたいにみえるだろう。
涼介は手のひらの花びらをじっと見つめると、きゅっとにぎりしめてみた。
見事な桜吹雪の中、はなびらを追い始め、あっちこっちにばたばた始める啓介。
そんな啓介のパーカーのフードの中に、花びらが落ちて溜まっていく。
教えてやろうかと思ったけれど、あんまり仕草が可愛くて、つい黙ってみてしまった。
「つかまえたー!! にーちゃみてみて!」
握り締めたグーの上から更に逃げないように左手をかぶせて、兄の前に自慢気につきだしてくる。
「えへへへ、にーちゃまといっしょにおねがいできるね」
そういって、にぎりしめたぐーを胸の前にもってきて目をつぶる。
「たかはしけーすけのおねがいです。 にーちゃまと、ずーっとずーっといっしょにいたいです。おねがいかなえてください。 えいっ」
そうやって、手のひらのはなびらを、ぱーっと空に放り投げる。
たちまち舞い散る花びらの中にまぎれて、どれがどれだか判別がつかなくなった。
それを満足そうに見送って…
「にーちゃまは?」
そう言って、にこにこと自分に向かって笑いかける啓介。
弟の姿に見とれて…、その願い事を耳にして嬉しくて…つい、手のひらの中の存在を忘れていた。
改めて手のひらにあるモノに視線を落としてみる。
労せずして手のひらに収まったこの花びら、ナニも願わなければただの花びら…。
呪術めいたことは好きじゃない…んだけど…でも。
そうっと口元に握ったままの拳を寄せると、ぼそぼそと呟いて誓いのようにキスをする。
そして、ふわっと空にむかって手を広げた。
偶然か、天へと昇る風が涼介の手元から花びらを舞い上げて、他のものと一緒に青空高く吹き上げていった。
まるで何かの力が、願い事を引き受けたぞ、と言わんばかりに、大きな手のひらですくいあげたような感じがして…ちょっと不思議な気持ちのまま見送ってしまう。
「すごいねー、もうあんなたかいトコいっちゃった」
「…うん」
「きっとね、おねがいかなうよきっと☆ けーちゃのとにーちゃまのいっしょになっておそらにとんでったもん」
「うん、そうだね」
「ねえ、にーちゃまは、なにおねがいしたの?」
「さて、なんでしょう?」
「ずるいよ、けーちゃのおねがいしってるくせに〜」
「啓介は自分で口に出しちゃったんだろ? 別に聞くつもりなくても聞こえたんだから、これはいいの」
「う〜」
きっときっと、この願い事はかなう。絶対に…まちがいなく。
だから…。
「さ、もうおうちに帰ろう?」
「〜〜〜」
まだ唇を尖らせてる啓介の頭にポンポンと手をのせる。
大好きだよ啓介。
いつまでも離れないさ、でもまだナイショ。
もっと大きくなったらきっと…。
きっとね。
おちまい
さくらの花びらをつかまえるの
ひらひらしてきたのをつかまえて
おねがい事をするとね
ぜったいかなうんだって
大切な人といっしょにはなびらをつかまえて
いっしょのおねがい事をするとね
かなわないことがないんだってさ