「文学横浜の会」

 文横だより


2008年(平成20年)




<12月号> 平成20年12月7日

文横だより(2008年12月号)

先月末、高校時代を過ごした山陰のまち、松江を訪れた。
桑田変じて滄海となる…というと大げさに過ぎるが、新しいビルが建ち並び、
そこにはもう、馴染みの喫茶店も、うどん屋も小鳥店もレコード店や映画館もなかった。
よそよそしい表情のまちなかをぼくはストレンジャーとして徘徊するしかなかった。
そんな自分に昔日を彷佛とさせてくれたのは、
たったいま日が差していたかと思ったら、すぐまた雨催いになる、
当時は嫌でいやでたまらなかった移ろいやすいこの地の天気であった。

さて、いよいよ極月。今年最後の文横だよりをお届けします。

例会出席者:浅丘・石原(恵)・落合・金田・河野・陳・新開・堀・三浦・益野・八重波・山口・藤野 ※神尾

 神尾さんは今回初参加。

テーマ  :中島敦/南島譚より「幸福」「夫婦」

 33才の若さで亡くなった作家、中島敦は、多く、中国の故事に材を取り、漢文調の格調高い文体で知られている。いずれも、珠玉の作品である。今回取りあげた南島譚の幸福、夫婦の2篇は、異色で、作者がパラオに赴任して、その島に伝わる民話を、作品として仕上げたものであろう。喘息で亡くなる直前の作品に拘わらず、健康的で、無駄のない簡潔な文体である。

 「幸福」は、島で最も哀れな男と、島一番の権力者が、偶然、互いが相手の対場に入れ替わった夢を見た、という物語である。幸福とは、意識の問題という、風刺であろう。

 「夫婦」は、島の女が、腕力で凄まじい格闘して、勝利者が男を取るという、島の風習をユーモラスに描いている。南の島らしい大らかな物語である。読後感は、いずれも、開放的で、楽しく爽やかである。
  その他、日本の足入れ婚の風習やテーマ論について、意見が交わされた。
                                              (記:浅丘)

●39号の進捗:
 年内もしくは1月に再校、刷り上がりは2月頃の見込みです。

●会費について:
 現在、年会費6千円、入会金3千円で運営しています。若干余裕はありますが、合評会での講師謝礼、表紙の刷新等を見越し、来年度もこのまま変更しないことになりました。

●次回の例会:
 1月10日(第2土曜日)、テーマは次回幹事、益野さん選定。決まり次第お知らせします。

        以上 文責:八重波



<11月号> 平成20年11月2日

文横だより(2008年11月号)

生き物の多様性の保持がグローバルなテーマとなって久しいが、絶滅の危機に瀕している動植物はなお増え続けているらしい。

イギリスBBC制作のNature番組によれば、地球上の生き物を絶滅から救う最も効果的な方法、それは人間が一日も早く絶滅することだという…嗚呼、宜なるかな!

11月の文横だよりをお届けします。

●例会出席者:
 浅丘・石原(恵)・金田・河野・藤野・益野・八重波/堀・落合
 うち一次会出席者は8名、初参加2名
 堀寛紀さんはペルシャ語専攻の学生時代から小説を書いていたという方。
 落合友見さんは主に脚本を書いていて、NHKのコンクールでも入賞実績のある方です。

●テーマ:久米正雄「手品師」
 久米正雄と聞けばすぐあの何ともやりきれない「受験生の手記」を思い出します。この「手品師」が書かれたのは大正5年。「受験生の手記」の2年前のこと。

主人公は場末の劇場の戯作者。高尚な文学に憧れながら、糊口を拭う手段として ‘客が入ってなんぼ’の世界に浸かっている我が身を託っているのですが、そのうち自分の書いたものによって泣いたり笑ったりする客のダイレクトな反応に喜びを感じるようになります。

そこへアメリカ帰りという触込みの手品師が現れ、見事な手品を披露し、首尾よく興行主の意を得ます。それを見ていた主人公は手品師に「はじめから手品師になるつもりだったか?」と尋ねます。手品師は「初めは真っ当な仕事をするつもりだったが、食うに困ってこの道に入ったらもう止められなくなった」…と答えます。

ただそれだけの、ひとつの職業観を表現した短篇と言えるのですが、通俗小説作家として生きることを選択した(あるいは余儀なくされた)作者、久米正雄の開き直り(?)の弁のようにも思われます。

 それにしても昨今の文庫本の寿命の短いこと。短篇小説シリーズなどすぐ書店から姿を消してしまいます。したがって例会時の読書会のテーマは当分「青空文庫」の中から選ぶことになりそうです。

●39号初校:
 1週間後(予定)、金田さんから執筆者の元に郵送される予定です。校正の後、速やかに返送してください。
 前号にも書きましたが、執筆者は200字以内で後記(身辺雑記など)をお寄せください。

●次回テーマ:  中島敦「南島譚(1)幸福(2)夫婦」…「青空文庫」からダウンロードできます。
 二次会は忘年会となります(と言ってもいつもと変わらないか…)皆さん、ふるってご参加を!

 以上、文責 八重波                



<10月号> 平成20年10月5日

そう言えばあれほど賑やかだったツクツクボウシの鳴き声がいつの間にか熄んでいる。
熟した木の実のように、季節の移ろいをひとり静かに受容して、ポタリ、ポタリと落ちているのだろうか…
はかない命のシンボルのような蝉だが、地中での生活期間を含めると、昆虫の中では長寿の部類に入るという。

さて、10月の文横便りです。

●例会出席者:
 浅丘・石原(憲)・金田・河野・小池・藤野・三浦・八重波・/上村

 今月は読書会のテーマが間に合わず、39号の原稿や、河野さんが自費出版された「鳥ちゃんのこと」が主な話題になりました。

 39号の原稿はほぼ出揃い、現在金田さんが耕文社への入稿準備に入っています。執筆者は50音順に浅丘・石原(憲)・金田・河野・新開・原・藤野・三浦・八重波の9氏。ボリュームは350枚程度になる予定です。執筆者のみなさん、初校時までに後記としてのコメント(200字以内)を用意しておいてください。

 また39号への出稿が間に合わなかった同人のみなさん、特に今年になって入会された須網さん、石原(恵美子)さん、増野さん、小島さん…半年後の記念すべき40号にはデビュー作をぜひ!

 河野さんの「鳥ちゃん」は世田谷文学賞を獲った作品です。すでに作家を生業とする錚々たる面々からも賛辞が寄せられています。何部かいただいたので、順に回覧します。来月までお待ちください。

●次回例会は11月1日です。テーマは追ってお知らせします。

 ( 以上、文責:八重波 )





<9月号> 平成20年9月9日

真夏の炎天下でもやはり‘歩き遍路’はいた。ほとんどが20代、30代の男で、中には外国人の姿もあった。「願をかける」…もはや彼等にそんなイメージはない。
四国霊場八十八か所を踏破するアスリートたち…
そう言った方がふさわしく思われた。
それともそれは不信心なぼくの一方的な見方で、汗だくで足早に去ってゆく彼等一人ひとりが内に重く切ないものを抱えているのだろうか。
子供の頃よく遊んだ寺の境内で蓮の実を毟って食ったが、時季が少し遅かったのか、昔とは違い、固くてマズかった。

さて、夏は果て、いよいよ9月。今月の「文横だより」お届けします。

●例会出席者:
 浅丘・石原(憲)・石原(恵)・金田・小島・名取・藤野・山口・八重波
 そのうち1次会出席者は6名

●テーマ:村上春樹「蛍・納屋を焼く」

 日本人の作家の中では一番ノーベル文学賞に近いと言われている村上春樹、「蛍」はその短編で、二十数年前に書かれたものです。

 読み始めてすぐ「あれっ、読んだことがあるぞ」と思ったのも道理。この作品は後に書かれた「ノルウェーの森」の雛形でした。D.H.ロレンスで言えば、短篇「太陽」が「チャタレー夫人の恋人」の雛形である以上の。

 「蛍」というタイトルを意識して言うと、都会の夜の蛍のように、不確実な世界を明滅する危うい生、人と人とのあえかな、それゆえの切ない関係性…ストーリーから、というより独特の文体の、行間からそのようなことが感じられました。

「感じる」…そう、少なくともこれらの短篇に関して言えば、分析的に読み解くのではなく、その文体の奏でる音楽に身をゆだねる、それが ‘正しい’ 読み方なのかも知れないと思いました。特に「納屋を焼く」についてはそういう読み方をしなければさっぱりわからない。

(感受性の問題?)女性の同人からはただただ彼の文章に浸ることの心地よさが強調されました。

 しかし日本語の文章としての味わいに凭れた作品であればこのように海外で評価されるはずはないし…、彼の感性は日本人というより、むしろ欧米人のそれに近いのかもしれない。そのようにも思えてきます。

 とにかく今回は女性に押されっ放しの読書会でした。

●次回の例会:
10月4日(土) テーマは追ってお知らせします。

●39号について:
 原稿締め切りは今月末です。
 執筆者は9月6日現在:浅丘・金田・新開・原・三浦・八重波
 予定としては、こいけ、藤野(短い何か)



                  文責:八重波




<7月号> 平成20年7月7日

7月になった。
この夏もまた各地の海では、様々な物語が、或るは始まり、或るは終焉するだろう。
しかし海は、そのために凪ぐこともなく、荒れることもない。
満ちてまた引く、単調な海の永劫を繰り返すだけだろう。

(7月の文横だより、お届けします。)

★例会出席者:
 浅丘・石原(恵)・金田・小池・河野・新開・原・藤野・益野・三浦・山口・八重波・※小島・若山

※今月も新しく2名の方の出席を得て、総勢14名と盛況でした。

 お二人はベートーベンのピアノソナタをこよなく愛しているという小島裕子さんと、文横同人の平均年齢40代という「いにしへ」の情報に ‘惑わされて’ やって来た若山聡さん(42歳)です。

●テーマ:
 小林多喜二「蟹工船」について、その読後感を話し合いました。

 本棚のどこかにあるはずだと思いながら探したけど、どうしても見つからない。面倒になり結局、新潮文庫を求めました。そして奥付けを見てびっくり。今年の6月25日で、101刷となっていました。

 日本文学史におけるプロレタリア文学の記念碑的な作品として、細々と読み継がれてきた理由はわかるけれど、ここまで版を重ねていたとは…やはり若者が競って買ったということでしょう。

 マスコミではこれを一つの社会現象として捉え、「ワーキング・プア」や「ニート」と呼ばれている現代の若者たちの置かれている状況と、蟹工船で働く者たちの抑圧された状況とを重ね合わせ、この作品に対する若者たちのシンパシーはそこから生まれたのだ…と説明しています。

 しかしあらためて読んでみて思いました。「蟹工船」を読んでほんとうにインスパイアされた若者が果たしてどれだけいるだろうか?この本がここまで売れているのは、一つの「ファッション」ではないか…と。

 昭和4年に書かれたこの小説は、資本家(その手先)と労働者、搾取する側とされる側というシンボリックな構図から成っており、資本の論理の必然の趨勢である非人間性に立ち向かうには、労働者が団結しなければならない…というわかりやすいメッセージを発しています。この ‘浪漫的共産主義’ とも言えるメッセージを若者はどう受け取ったのか…残念ながら文横にはこの世代の同人がいないのでわかりません。

 昭和4年と現在とは社会状況が全く違う。若者がこの本を読んだとしても自分とダブらせることはないのではないか…そもそも今の若者がそこまでこの本を読み込んだりするだろうか?…そんな声が大勢を占めました。

 視点を変えて、純粋に文学作品としてはどうか…糞壷と言われている船倉での閉塞状況の描写にリアリティはあるけれど、一人ひとりの人間像が希薄なためか、メッセージが透けて見え、文学作品としての完成度は高いとは言い難い…というのが大方の感想であったように思います。

 ある同人が冗談混じりに言いました。「もし今の若者が健さんの「網走番外地」や「唐獅子牡丹」を知ったら、一挙にそちらの方に走るんじゃないの」…うん、あり得る。なんだか、そんな気がしないでもありません。

 ★会場がかなり騒々しかったですね。無料だから贅沢は言えないけれど…

●次回の例会:
 9月6日(土)。8月は休会です。テーマは後日お知らせします。

●39号原稿締め切り:
 9月末

●会計係:
 現在、名取さんにお願いしている会計担当ですが、後任として山口さんが引き受けてくれることになりました(任期2年間)。
 引継時期は、後日、名取さんと相談します。





                  文責:八重波


<6月号> 平成20年6月8日

★例会出席者:
浅丘・石原(恵)・金田・河野・陳・藤野・八重波・益野※

※ニューフェイスの益野さんは山口県出身の建築士。芸大を含む二つの大学を中退し、各地を放浪(?)、十数年前、横浜に流れ着いた(本人の弁)という方です。

★テーマ  :
ネットで公開されている元・小説新潮の編集長、校條 剛氏の「小説作法」2〜5をテーマとしました。
この講座はこれからエンタテーメント小説を書こうとしている人(書きたいのに書けない人)をターゲットとした、実践的、具体的ノウハウについて書かれたものです。それだけにもう何作、いや何十作もものした同人たちからは、「今さら…」の声が聞かれました。
確かに言葉こそ違え、言われている内容は誰しも重々承知していることが多かったように思います。
ではあるけれど、それをなかなか実行できない自分自身への戒めのようなものとして、氏の講座の中から印象に残った文章をいくつか書き留めておきます。

●小説を書くという作業は単純労働の一種である
●作家は天から与えられた才能よりも執着力と集中力と継続力から成り立っている
●スポーツ選手のように日課のトレーニングとしてとにかく原稿用紙を文字で埋めていく作業を続ける
●ヘミングウェーの忠告…その日の仕事(書くという)を中断するときは、文章の真ん中のところで中断するようにせよ。そうすれば翌日、少なくとも取りかかる仕事だけはあることになる

「小説作法」についての話し合いがいつしか「純文学とは何か」というテーマに移り、各人各様の定義が飛び交いました。
その中で誰も否定できなかったのが「純文学とは面白くないもの」という、乱暴にして単純明快な定義…面白いとはどういうことか、という論議はさておき、途中で止められなくなってとうとう朝まで…という本にはこのところとんとお目にかかっていないのは事実。

★次回のテーマ:
小林多喜二「蟹工船」
プロレタリアート、ブルジョアジー、左翼…このような言葉が死語になった感さえある昨今、なぜかこの「蟹工船」が若者たちにうけているようです。
だから、というわけでもないけれど、文学史には必ず出てくるこの作品を先入観抜きにもう一度読んでみようということになりました。

★講座のお知らせ:
新鋭の評論家、石川忠司氏を囲んだ横浜文学学校主催の自主講座【じゃあ 私たちは何を書けばいいのさ
…近代小説と現代小説の挟間で遠心分離される私たち】が以下の通り開かれます。
参加希望者は藤野さんまでご連絡を。

●日時:6月15日(日)午後2時半開場 3時〜5時半
●会場:ザイム http://za-im.jp/php/ TEL:045-222-7030
●交通:みなとみらい線「日本大通り駅」徒歩2分、JR根岸線・市営地下鉄「関内駅」徒歩5分/日本大通り角、中区区役所の隣り


<5月号> 平成20年5月13日

5月の中旬とは思えない冷たい雨。台風2号の影響だったら生温い南風になってもよさそうなものなのに…

【例会出席者】:
 浅丘・石原・小池・金田・原・藤野・三浦・八重波/石原・河野・須網 

*石原(恵美子)さん・河野(かわの)さん・須網さんは当日新しく見えた方で、河野さん、須網さんはジャーナリスト、石原さんも豊かな文学体験をお持ちの方で、「文学横浜」活性化のためにもぜひ入会を期待したい、と思います。

【テーマ】:
 三浦えみ氏の「マルタの園」を取り上げ、文章のディテールにまで踏み込んでその表現を検証しました。

 小説を書くという行為は言うまでもなく密室での孤独な作業です。独りでシコシコ書くしかない。ではなぜ同人雑誌という場を持つのか? すでにその役割は終わった、とさえ言われ(事実、文学界の同人雑誌評はなくなるそうです)、流行遅れの感すらある同人雑誌に属することの意義はどこにあるのか?

 …手っ取り早い発表の場だから…文学的刺激の中に身を置いていたいから…多分それが昨今の多くの同人のホンネ(文横に限らず)であろうし、それはそれで尤もなことだと思います(おそらくそれ以上は期待できないだろうから)。

 ただ、もしそれに加えるメリットがあるとすれば、ごく少数ではあるけれども同人という名の熱心な読み手がおり、自分の作品について、思い思いの批評をしてくれるということでしょう。

 それは時に正鵠を得た痛い評のこともあれば、的外れの評のこともあるのですが、少なくとも自分の書いたものが他人にどう読まれたかはわかる…そして自分の気づかなかった誤字や表現の誤りを指摘してもらえる、というごく実用的なメリットもある…これは案外‘めっけもん’かもしれない……と、ぼくが言うのは何だか妙なものだけど。

【魚せいにて】:
 それは素直な疑問だと受け取れました。ある人はこう言いました。
「ぼくは恋人に読んでもらいたくて書いているけれども、同人の皆さんが小説を書くモチベーションは何ですか?」
 何だろう、ほんとうに。
 なぜ書くのか?
 なぜ書きたいと思っているのか?
 読んでもらいたい恋人もいないのに…どうですか、皆さんは。


(八重波)



<4月号> 平成20年4月8日

 さ く ら の さ は さ よ な ら の さ
 さ く ら の く は く ら や み の く
 さ く ら の ら は ら ぎ ょ う の ら

 月並みな感情だなあ、と思いつつ、降りしきるさくらの花びらが夕風に溺れる様を見ていると、柄にもなく春愁めいたものを感じます。人が花の下で騒々しく酒を酌み交わすのは案外そのせいかもしれない。

例会出席者:
 浅丘・八重波・金田・陳・藤野・三浦・山口

 今月の例会では「文学横浜」への掲載基準等、いくつかの懸案事項について話し合い、以下のように決まりました。

●掲載基準:
 掲載するジャンルは原則として小説・エッセイ(随筆)・文芸評論(小説)・紀行文に限る。

 新規加入者の作品について、掲載にあたっては編集員(複数)が判断することとします。

●チェック:
 誤字、脱字、文法上のミス、主語のねじれ…など基本的なミスをなくすため、編集員は可能な限り事前チェックを行う。

●発行:
 年2回発行を目標とし、原稿が300枚集まった時点で、締め切りとする。原則として締め切り以降の駆け込みは認めない。

 39号の締め切りは2008年9月とする。(300枚以上の場合は先着順として、残りは次回分となります)

●合評会:
 生原稿段階での合評は行わなわず、これまで通りとする

 懸案事項についての話し合いの後、38号の作品の中から今月は「ガン」を取り上げ、文章のディテールについていろいろ検討しました。また視点のずれという合評会での問題点に関して、複数の同人から「外国文学の場合は視点のずれはよくあるし、三人称で書く場合にはそれほど気にしなくていいのではないか…」という話が出ました。

 翻訳小説を読んでいて視点のずれに気付いた経験はないのでなんとも言えないけれど、もしかしたらそれは訳者の問題かもしれないし、あるいは、ずれをずれと感じさせない文脈上の必然がそこにあるのかもしれません(たとえば一葉の「たけくらべ」のように)。しかし何らかの表現上の効果を狙って意識的にそうするのでない限り、小説を書く上での原則として「視点がずれない」よう心しておくべきだと思いますが、いかがでしょうか。

★5月例会:
 連休中なので、来月に限り、第2土曜日(10日)に行うことになりました。



<3月号> 平成20年3月5日

 ものみな息吹く3月。何があるわけじゃないけれど、陽を恋う一匹の動物として妙に心弾む季節…。

 同人雑誌はいまや‘老人雑誌’になっていると聞くと苦笑しながら頷くしかないのですが、いつ果てるともない この「大いなる助走」を倦むことなく続ける行為自体が、己の不確かな生への抗い、今を留める果敢な所業だと 考えればそれはそれで意義あることのように思えてきます。

さて、今月の文横だよりは先日の38号合評を通じて浮かび上がった共通の問題点や、次号へ向けての検討課題 を取り上げてみたいと思います。

 合評会出席者:浅丘・天馬・石原・井上・上村・陳・金田・新開・小池・山口・名取・原・三浦・藤野

<合評会より>

●視点のずれについて
 三人称で書いている場合に往々にしてありがちなことだが、語り手がいつの間にか登場人物の中に入ってしま い、視点が大きくずれる…あるいは登場人物ごとに視点が揺れ動く…その結果として読者にはわかりにくいも のになってしまう。

●専門知識が生むリアリティについて
 作者の専門分野の知識、あるいは資料の研究を通して習得した知識が表現にうまく反映されていれば、自ずと そのシーンはリアリティのある魅力的なものになる。しかしここで心しておかねばならないのは、作品全体と して見た場合の、そのシーンの必然性や比重はどうなのか…そこだけが際立ち、作品全体の印象をかえってぼ やけたものにしてしまってはいないか…という検証。

●タイトルについて
 プロの編集者がタイトルにどこまでもこだわるのは、それが本の売れ行きにダイレクトに響くから。同人雑誌 の個々の作品のタイトルにそこまでこだわらなくても…と言われればその通りだが、思わず読んでみたくなる ような‘色気’のある、言い換えればポエジーのあるタイトルへの工夫がもっとあってもいいのではないか…  勝又先生にも38号のタイトルは概して面白くないと言われてしまった。「名は体を表す」わけだが、欲を言 えば「名」と「体」が実線で繋がっているのではなく、両者の関係が放電現象を起こす電極と磁場であるような…

●人間への迫り方について
 実はこれがいちばん重要な問題なのかもしれない。そこで勝又先生の批評の中から、この点に触れた印象に残っ た言葉をランダムにあげてみると…「主人公そのものが見えて来ない」「もうちょっと膨らみがほしかった」 「主人公の思い込みだけで物語が進んでいる」「小説とすれば痩せている」「名前だけでキャラクターが出て来 ない」「人間がどう動くか、に不満がある」「心の不思議に届いている」「人間の心を追いかけるいい作品だ」 などなど…。もちろん作者はくっきりとした人物像を描いているつもりなのだが、これがほんとうに難しい。 でも小説とは人間を描く作業だから、それが不十分であると言われれば我々はひたすら努力するしかない。

<次号への検討課題>

●ボリュームを半分にしても年2回の発行とする…現実問題として可能かどうか
●年2回発行を試行してみるならば、次号の締め切りをいつにするか
●掲載基準を設けるか否か、たとえば表現形式やレベルなどについて
●生原稿の段階での合評、もしくはチェックを行うとすれば、その具体的実施方法
●掲載順等を含めた編集方法について

次の例会(4月5日)では、38号の掲載作品についてより細かい検討を行うことになっています。作者にとって みれば「もういいよ」という心境かもしれませんが、自分が気付いていない改善点も案外多いもので、第三者によ るディテールへの指摘はけっこう役立つのではないと思います。

したがって、みなさん、次回はぜひ1次会からご参加ください。もちろん38号をお忘れなく!なお、上記の検討 課題については2次会の席で話し合ったらどうでしょうか。

それはそうと勝又先生はディテールまでしっかり読み込んでくれていましたね。次号もぜひお願いしたいところで すが、発行が年2回となると、予算的に相当キビシイのでは。



<2月号> 平成20年2月4日

●2月例会の出席者:
 浅丘・石原・井上・陳・金田・小池・山口・三浦・藤野 ※ 原

 ★原さんはこの日初めて見えた方です。これまで児童文学のジャルンルで活動されていたそうですが、それに飽き足らなくなり、新境地を拓くべくチャレンジ中だとか。すでに児童文学では5冊を出版、江戸川乱歩賞に700枚を書いて応募されたこともあるそうです。700枚と聞いただけでぼくなどはそのエネルギーに畏敬の念を抱きます。もし原さんが文横に入られるとしたら、次号が楽しみです。

 ★久々に小池さんが出席されました。なんでもここ4年、江戸の歴史、特に宝永年間を猛勉強中だとか。何のために? もちろん時代小説を書くために。藤沢周平は架空の「海坂藩」。小池さんはやはり「会津藩」が舞台かな?あるいは江戸の市井に生きる庶民の日常の機微を?勝手な想像がどんどん膨らんでいきます。たしかに食べ物一つをとっても考証が必要だし、1枚書くのにも大変な労力を要すると思います。もし、次号に間に合うなら、ぜひその成果を発表してください。
 なお、時代小説と言えば、今号に浅丘邦雄さん(浅田さん)の労作『長助と、はる」が載っています。

●合評会について:
 日時や会場は上記1月号の通りです。当日、勝又先生が見えるのは午後3時頃だそうで、それまでに同人だけの合評を済ませておこうということになりました。作品の数が多いので時間が“押せ押せ”になることも考えられます。予定通り10時にはスタートできるようご協力ください…と、遅刻の常習犯が言うとる。なお、時間と経費の節約のため、午後のティータイムは無し。但しお弁当は出ます。

●一葉文学散歩:
 2月の例会を欠席された方で、参加を希望する方はこの企画の世話役である藤野さんに連絡してください。「たけくらべ」の舞台が主になるそうなので、一読しておくとより興味深いかもしれません。スケジュールの詳細は決まり次第お知らせします。

●提案:
 藤野さんからユニークな提案がありました。「文学横浜」各号ごとに掲載されている作品の中で、いちばん存在感があり、いちばん印象深い登場人物を投票で選び、その作者を表彰してはどうか、という提案です。賛同する方が多かったので、一度やってみようということになりました。いつ、どういう方法でやるかについては代表の金田さんと提案者の藤野さんにお任せしたいと思います。

●魚せいにて:
 10人が揃い、久し振りに賑やかな座となりました。サラリーマンを卒業したばかりの金田さんは自重してビールを少々。4年前に卒業したぼくは藤野さんに‘無理強いされて’慣れない酒を熱燗で少々。だからみんな何を話していたのかはっきりしないけど、そうだ、文横への掲載基準のような話が出ましたね。出た原稿は基本的にすべて掲載するのか、短歌や俳句は載せないとして、詩は今後どうするのか…結論は出ませんでしたが、なにもかもテンコ盛りの「総合文芸誌」にするのは避けよう、ということが総意であったような気がします。



<1月号> 平成20年1月15日

 今日の最高気温は6℃だなんて…こんな日はストーブの前で一日中本を読んでいたくなります。さて、今月から例会の報告などを交えた「文横だより」をお届けすることになりました。と、言っても無定見な筆者のこと、せいぜい無聊にまかせて好き勝手なことを書き連ねるだけの戯れ文になることは目に見えていますが、お許しください。

●1月例会の出席者:
 浅丘・天馬・井上・陳・金田・山口・三浦・藤野

●38号の進捗状況:
 もうそろそろ出来上がってもいい頃ですが、まだ耕文舎からは届いていません。これまでは入稿後これほど時間がかかることはなかったので、ちょっと気になるところ。金田さんに連絡をとってもらうことになっています。もう少しお待ちください。

●38号の合評会:
 3月2日(日)10時〜17時 大佛次郎記念館にて
 招聘予定講師=勝又浩氏(文学界・同人雑誌評執筆)
 なお、この合評会以降、毎月の例会のテーマとして一作一作を取り上げ、もう一度ていねいに合評することになっています。

●一葉文学散歩:
 3月20日(春分の日)、集合場所・時間等、詳細は後日。
 「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」など残して24歳で夭折した(いや、夭折じゃないな。あれだけのものを書き切ったんだもの)一葉の足跡を東京・本郷、上野に訪ねる会を、横浜文学学校、湘南朝日カルチャーセンターに合流するかたちで催します。多数ご参加ください。一葉の作品は朗読に向いているように思います。文語だから難しいけど、その調べは実に心地いい。

●魚せいにて:
 どこからそうなったのか、宗教談義になりました。その時に出た「不条理なるが故に我信ず」というフレーズはマルクスアウレリウスか誰かと思っていたらぼくの記憶違いで、三位一体を論じたカルタゴの神学者、テルトゥリアヌスのものでした。無からの創造や、神の子の死や、復活…その不合理性を哲学的理性で解釈しようとすることの非を説き、”Credo quia absurdim”(不条理なるが故に我信ず)と言ったそうです。

●雑記:
 たまたま目にした書評です。読んだ方もいると思います。長い引用になるけど書き写してみます。

 「…ある晩、読み始めてしばらくすると胸が怪しく騒ぎ出して、居ても立ってもいられない気持ちになった。山が動くように、私の中の大きなものが『寓話』の文章と一緒に動き出す感じだった。いや激しい話では全然ない。文章は重厚で、一文一文が時間の厚みのようなものを引き連れているから、ぬかるみを歩くように読書は疲れる。しかし疲れつつも私は、疲労を糧としてぐんぐん進んでゆく。原稿用紙にして1100枚のこの本を、遅読の私が異例にも2日かからずに読んだ。しかし読み終わると何が書いてあったかまったく憶えていない!長大な交響曲にどっぷり浸かっても、音が去ったあとにその再現ができないのと同じなのだ。小説とはまさに「読む時間」の中にしかない」 (朝日新聞 1月6日)

 「…小説は論文じゃない。朝起きたり道を歩いたりすることをわざわざ書く。そのことが何かでなければおかしい。私は確信が持てないままカフカを読み続けた。自分のこの感じがようやく確かなものになったのは、前回の小島信夫の小説を通じてだ。小説とは読後に意味をうんぬんするようなものでなく、一行一行を読むという時間の中にしかない。音楽を聴くことやスポーツを観ることと同じだ。いま読んでいるその行で何が起こっているかを見逃してしまったら、小説の興奮はない。そこにあるのは言葉としての意味になる以前の、驚きや戸惑いや唐突な笑いだ。」(朝日新聞 1月13日)

 上記はいずれも保坂和志の書評「たいせつな本」の抜粋です。前者は小島信夫の『寓話』、後者はカフカの『城』について書いたものです。ぼくはとても面白かったのですが、この小説論をどう思われますか。  

<井上>


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