「文学横浜の会」
文横だより
<12月号>平成23年12月6日
インターネットの恩恵を感じつつも、インターネット文化の行きつく先は一体どんな世界になるのだろうか。
絶対に持つまいと思っていた携帯電話を何年か前に使用するようになって、電話番号を忘れるようになった。
覚える必要が無くなったから忘れるのだが、年齢を重ねた故の記憶力の減退と併せて、
記憶機能をインターネット機器に委ねることにより、記憶機能の劣化は進んだように思う。
ワープロの普及によって手書きする機会が少なくなり、読める事はできても漢字を書けなくなったとの声は多く聞く。
社内ではペーパーでの回覧は無くなって電子メールでの連絡に変わり、グループ間での打合の連絡も電子メールに置き換わった。
隣りにいる仲間にさえ、電子メールによる連絡なのだ。
家族間の連絡も携帯を介して、と言う方もいて、これは便利な点も多々あるが、
同じ屋根の下に居て、携帯で連絡し合う家族がいたとしたら…、なんだか寒々しく味気ない。
日本語は他の言語と比べて、表現は多彩だと言われている。
雪の降り方でも、粉雪、吹雪、ささめ雪、ぼたん雪等、語彙は多彩だ。
そうした多彩な語彙を駆使しても、自分の心の裡を正確に表現できる人は一体何人いるだろうか。
短時間に、私は自分の感情をそのまま、或いは考えている事をそのまま100%表現できる自信はない。
発信してから、あの表現ではまずかったかな、と思う事も多々ある。
インターネットが普及する以前、人は話す時の表情を見たり、語調や、言葉のニュアンスを感じながら、関係を維持してきたのではないか。
言葉は所詮、人と人を繋ぐ道具に過ぎないし、インターネットとはその道具のほんの一部に過ぎない。
どんな時代になっても人と人とは、会って話すことが一番大事なのだ。
★
文横だより2011年12月号を送ります。
◆出席者
◆読書会テーマ
担当、篠田
1.作品の影響について
「マノン・レスコー」(1731)は、ファム・ファタール(男性たちを破滅に導く女性)を描いた最初の文学作品と言われている。
作者プレヴォーが修道士の立場でありながら波乱に満ちた人生を送った、その実話に基づいて生み出されたとされている。
デュマ・フィスが、クルチザンヌ(高級娼婦)を主人公に据え、
多くの要素で「マノン・レスコー」と類似したストーリーの「椿姫」(1848)を作ってヒットさせたり、
モーパッサンが「マノン・レスコー」序文(1885)で激賞したりと、「マノン・レスコー」は古今多くの作家に影響を与え続けている。
実際、マスネ、プッチーニのオペラやバレエ、ジヨルジュ・クルーゾー監督他の数種の映画作品など、
「マノン・レスコー」を原作とした作品が数多く制作されてきた。
2.参加者の感想
では、なぜマノンが多くの読者を魅了してきたのか。
また、なぜ「マノン・レスコー」が約300年経て今日まで生き残ることのできた不朽の名作足りえているのかである。
そのことが読書会の主たる論議の的になればと考えた。
実際には、そのこと以前に、好悪様々な感想が寄せられた。
「マノンの描写が足りない」、「マノンが不埒過ぎる」、「出だしから取っ付きにくい」などと感じられた理由から、
読んでいない、あるいは読みきれなかった人もいた。
因みに、マノンの肉体的特徴が描写されていないのは、読者の感情移入を誘う仕掛けというのが定説のようであり、筆者も同感である。
一方、「罪のない美少女が貧しさゆえ娼婦と化していく時代背景を感じさせ、
また男性の恋にのめり込んでいく様子が作者の体験に基づいていることが伝わってくる」、
「魔性の女が自分のものにならない歯痒さに普遍性がある」などの理由で面白かったとの高評価もあった。
また、若い頃から数回読んでいるつわものの、「確かに名作であることは間違いないのだが、
読む度毎にマノンの不実やお金への執着などが強く感じられてきて評価が下がってきている」などの感想もあった。
なるほど、人によっては全く関心のないジャンルである場合もあるし、また、年を経て読み直すと、
特に読者の感情移入に任されたマノンの魅力度の観点において、印象が異なってくるというのは首肯できる話で、
改めて読書会の構成メンバーの多様性の大事さを再認識させられた。
3.作品テーマについて
筆者は、若い頃、初めて読んだ時には、マノンに恋焦がれて追いかける青年デ・グリューに感情移入し、物語に没入することによって、
デ・グリューが奔放なマノンに翻弄されて身を滅ぼしていくストーリー展開そのものに主として感銘を覚えた。
同時に、あまりに正反対の性質を兼ね備え、矛盾に満ちた行動をとるマノンに対して謎を感じ、
理解不能のもやもやした読後感があったことを思い起こす。
今回再読し、18世紀前半、ロココの優美さと退廃や風紀の乱れた時代背景を確認し、
前記モーパッサンの「序文」の訳の全文を読むなどの考察を試みた。
その結果、死ぬまで大きな振り幅で「不実と改悛」を繰り返したマノンと、
それに翻弄されて、同じく大きな振り幅で「聖から俗」へ身を滅ぼしていったデ・グリューの、
両者それぞれが有した人間の心に内在する両義性あるいは多面性が、矛盾のまま剥き出しに描かれている、
正にそのことにこそ普遍的価値があり、長く作品が生き残ってきた命脈があるものと実感した次第である。
以上、篠田記
◆次回
◆その他
以上(金田)
|
[「文学横浜の会」]
禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2007 文学横浜