「文学横浜の会」
文横だより
<11月号>2014年11月 5日 更新
11月にしては暖かい月初だったが、
全世界で、このままの勢いでエネルギーを消費すると
とすれば自然災害の猛威は増すに違いない。
未来の人間は自然の猛威を避けて、
★
文横だより2014年11月号を送ります。
◆出席者(敬称略)
◆読書会
担当(篠田)
谷崎潤一郎 『卍』
不思議と今まで読書会で扱われたことがなかった大文豪、谷崎を敢えて選んでみた。
誰が選んでも5本の指には入りそうな『痴人の愛』、『春琴抄』、『細雪』は既読者が多いと思って避け、
ベスト10以内くらいに入る作品の中でと選んだのが『卍』である。
選んだのにはもう一つ理由がある。古典から現代まで同性愛をモチーフにした作品は数多いが、
一度それを取り上げてみたかったからである。
何故このモチーフに関心が生じたかというと、同性愛には、
テレビで次から次と登場する見た目も分かり易い人気者たちだけでなく、
全く分からなかったのにある日カミングアウトして実は…というケースの人も少なくないことに驚きをもってきたからである。
例えば、昨今実際にあったように、
若い頃から多くのファンをもった世界的名女優が実はそうだったりして世間を驚愕させたようなケースである。
同性愛者は20人に1人いるという説もあるくらい少なくないし、そうした方々が自己の内面的な葛藤に加え、
時として様々な形で周囲からの偏見や差別に苦しめられてきた現実がある以上、
この文学上のモチーフはいつまでも生き続けることであろう。
『卍』を批評する上で、谷崎の仕掛けによる、
とても一筋縄ではいかない奔放なストーリー展開を細かくあれこれ云々することは必要ではあろうが十分であるとは思えない。
突き詰めるところ、世相ではやっと最初の普通選挙が行われ、昭和天皇の即位の礼の挙行があり、
モボモガがようやく登場したような時代に、豪胆さ、先見性によって、マイノリティである同性愛者にスポットを当てるという、
それだけで『卍』は存分過ぎるほどの価値があると思えてならない。
しかも大谷崎の大谷崎たる所以は、単なる同性愛者を描くことに留まっていないところである。
(以下ネタバレ注意)主要登場人物の徳光光子は、憎めない奔放な魔性のキャラを持っており、
柿内園子だけでなく終盤ではその夫の孝太郎までを魅惑で惹き付けてしまう。
ラストの、柿内夫妻をまるで隷属させ翻弄していく様子は滑稽でさえある。
つまり光子は、ちょうど名作『痴人の愛』(1925年)のナオミと同様、ファム・ファタールの側面も有しているのだ。
ファム・ファタールは、古今東西、多くの文豪が扱い、名作を生み出してきたモチーフである。
そう言えば、ファム・ファタールを描いた最初の文学と言われているアベ・プレヴォー作『マノン・レスコー』(1731年)の
マノンも光子と同様、ラストは死んでしまう。
元々『卍』は雑誌『改造』の連載小説であったこともあり、谷崎特有の耽美主義、エロティシズム、
マゾヒズム等を遺憾なく発揮させている一方、読者を飽きさせないようにするあまりなのか、
筋立てに粗さを感じさせるところがあるのも否めない。
また発表当時、表層的部分だけが捉えられて相当なスキャンダルを生んだであろうことも想像に難くない。
だが『卍』には、主要登場人物の誰一人、綺麗事で終始する人は存在せず、騙し、騙され、
結局は性愛に溺れていく人間の業が描かれている。
しかも流れ的に、マイノリティである同性愛が偏見渦巻く世の中に晒されてしまったがゆえに死を選ばざるを得ない
という結末を迎えている。
また、よく指摘されてきたことだが、全編に谷崎流けったいな大阪弁が彩られることによって古典的情緒の回帰や妖艶さ、
さらには滑稽ささえも醸し出すことに成功している。それらのこと全てが絡まり合って、
重厚な味わいを与えることに繋がっているように思える。
今回、必ずしも読み易かったり面白かったりする作品ではなく、まして共感などしにくい作品であるので、
読書会参加者にはご負担をお掛けした気もするが、前記してきたように、マイノリティへの視線を持つことの意義や、
人間の業の深さが描かれている点においてだけでも、『卍』の文学的価値は高いものと確信している。
以上、篠田記
◆次回の予定;
◆その他
(金田)
|
[「文学横浜の会」]
禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2007 文学横浜