「文学横浜の会」

 エッセー


2000年3月


「2000年、Y2K」に思う

 2000年ミレニアムの騒々しい年明けから、はや二月経った。2000年も1999年も、同じ年月なのにと 思っている者には、年末から年始に掛けての騒がしさは異様に思われたであろう。これも何事につけ語呂合わせを 楽しみ、何かとケジメを付けたがる遊び心のうちなのだろう。

 しかし、2000年が1900年或いは1000年のそれとはっきりちがったのは、コンピュータの存在だ。 所謂、Y2K 問題、コンピュータの誤作動を懸念する議論が喧しく、そして深刻な問題を引き起こすとして議論され た事は、記憶の中にまだ残っている。「誤作動で原子爆弾が発射される」から、「家庭内の制御システムが狂って 思わぬ事態が発生する」等、ソフトウェアという眼に見えないものだけに色々な事態が想定され、喧伝された。 買いだめを勧める動きもあり、政府でも不測の事態に備えるよう PR までしていた。

 Y2K 問題はまだ終っていないと言う人もいるが、二月経って Y2K 問題もほぼ決着がついたように思われる。 結果的には総て杞憂に終り、めでたしめでたし、万全の対策を執った結果であり、Y2K 問題も不況対策にはなった。 と、総括する向きもあるが、待てよ、と思う。遣りすぎだったのではないか。Y2K 問題が叫ばれている頃から 「ちょっと遣りすぎでは?」と漠然と感じていた者も含めて、一連の事態について冷静に見つめ直す必要がある。

 問題は「はっきりしない事へ」の行き過ぎる対応についてだ。何も起こらなかったからいいではないか、と言う 者もいるだろうが、冷静に「はっきりしない事象への対応」についての対処について検討しておく必要があるよう に思う。こんな事を言うと、はっきりしないからこそ万全の対策が必要なのであり、”対処”などある筈がないと 言う向きもあるだろう。逆に言えば、そうだからこそ必要なのだ。

 はっきりしない事、それは情報不足・情報の曖昧さによるのだが、行き過ぎた対応は往々にしてパニックを誘発し、 まかり間違えば多大の犠牲を生じさせる危険性を含んでいる。国内においては関東大震災後の不安心理から生じた 「朝鮮人虐殺」があり、「一億玉砕」を標榜し「天皇陛下万歳!」を叫んで多くの犠牲を強いられた第二次世界大 戦も国全体がパニックに陥った、と見る向きもある。似たような事は世界的にも歴史的にも多くの実例がある。

 ではどうすればよかったのかと問えば、明快な解答が得られないのも事実である。そして言える事は、絶えず行 き過ぎではないかと問い掛けながら対処する事が、大きなパニックを引き起こさない為の方策のように思う。

 Y2K 問題対策には、ただ杞憂だったでは済まされない多くの問題を含んでいる。

(金田)


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