「文学横浜の会」

特集

「インターネット時代における文学あるいは小説」

  目次
はじめに
(1)書物の形態
(2)出版社/書店    <書店>    <出版社>
(3)良い作品を探す

2000/05/25


はじめに

 二百年に一度の社会変革を齎す、 とあらゆるメディアがこぞってIT(情報技術)の動向を伝えている。 所謂、IT革命である。

 今、町の商店街には昔の活気がない。私が行き来する商店街だけなのかと思うと、 どうやらそうでもないらしい。日本のあちこちの商店街がすたれているのだと言う。 理由は色々とあるだろうが、IT革命がもたらす未来を暗示しているのではないかと思う。

 確かに、インターネットに関する技術の進歩は目覚しく、 日々新しい技術やそれを利用したもの(利用技術)が生まれている。 と同時に若者を中心にその普及は目覚しい。

今や携帯電話を持たない人に出遭わない日はなく、携帯電話とITとを結びつけて、 様々な利用技術も生まれようとしている。 いや、携帯電話そのものがITを取り入れて、 従来の電話機能から大きく変身をとげようとしている。

 携帯電話がPC(パーソナル・コンピュータ)の機能を備えて、 利用分野が格段に広がっているのだ。現在取り組まれているものから、 これからこうなるだろうと言うことも含めて、まさに産業界は生き残りを賭けて戦いを繰り広げている。

 ここではその内容については触れない。

 前置きが長くなったがインターネット時代における文学あるいは小説について考えてみた。

『書く』と言う行為に関しては、既にワープロやパソコンを用いている人が最早多数派と思われる。 しかし文学あるいは小説に限って言えば、その内容にはなんら影響を及ぼさない。 つまり真に人間を扱った作品では、千年前の作品でも、産業革命以前の作品でも扱うテーマはそう変らない。 変るとすれば人間を取り巻く環境であり、表現するための道具立てに過ぎない。

それも一面から見れば、文学が変わると言う事だろうが。

とは言うものの、文学自体がこれまでと同じように存在する、とは思えない。 で、これからの時代、何がどう変るのか、と言う事である。

 思いつくままに、こうなるだろう、こうなるかも知れないと言う事を挙げてみる。 と言っても余りに漠然としているので、以下の観点からみる事にする。

 ・書物の形態

 ・出版社/書店

 ・良い作品を探す

(1)書物の形態

 「eブック」「電子図書」と言う名称で計画が進んでいる。 既に商用ベースになりつつある物もある。 いづれは今車内で携帯電話を操っている感覚で小説を読む日が来るだろう。 文庫本サイズの物になるのか、今の携帯電話のような物になるのか、色々な製品が出ると思われる。

 書物のようにページサイズで進める物、或いは読者の読むスピードに合わせて自動的に文字が進む物、 読者はそのどちらかを選択できる。と言うような事も可能だ。

 途中で中断する場合は、『栞』を挟んでおく必要はない。 電源を切れば、次に電源を入れた時にそのページが出て来る。

 解らない漢字や言葉の意味も、辞書を内臓したり、予め注釈を組み込んでおくことで、 即座に知る事も可能になるだろう。 文庫本の活字が小さいとお悩みの方も、活字を大きくして読める。

 インターネットと連動させておけば、いつでも何処にいても新しい作品をダウンロード (注、インターネットを介して持ってくる事)して、 新作を読む事が出来るようになる。

 まだまだ、想像をたくましくすれば、色々と出てくる。でも、今の書物は無くならないと思う。 むしろより上質な作品だけが製本化されるのではないか。無くなってほしくないと言う願望を込めてだが。

 出版物としての『本』が「eブック」や「電子図書」に入れる電子媒体(電子本)となれば、 読者は電子媒体を購入する事になるだろう。

 即ち、多くの出版社は編集した電子媒体を作成して販売する。電子媒体は一体どんな物になるだろうか。 現在出回っているFD、MO、磁器カード、CD−ROM等、だいたいそんな物だろうが、 恐らく、今のテレホンカードのような物ではないか。文庫本ぐらいならそれで十分だ。

 総合雑誌等のたぐいも、 電子媒体になったものを購入して、読者は読みたい記事だけを読む。 あるいはパスワードの入った読者カードを購入して、 読みたい記事だけをダウンロードしてくる。 読者にすれば全ての記事を読みたくて購入する訳ではないのだ。

 メーカーは「eブック」「電子図書」を今の携帯電話のように安価で(無料ででも)頒布するだろう。 読者は電子媒体(電子本)を購入するようになる。 もしくは特定のサーバーに繋がってネット上から電子本を持ってくる事になろう。

 今の書物の氾濫を見ていると、製本化する必要もないような作品が多い。 本屋に行っても漫画やタレント本、それに夥しい雑誌、それらに占領し尽くされている。 それらはいずれ消えて無くなる物だ。

 真に価値有る作品だけが『本』として残ってほしい。

(2)出版社/書店

 今のような「本」の出版数が減ると言う前提に立てば、多くの出版社は成り立たなくなる。 と同時に書店のあり方も大いに変るだろう。

 <書店>

 既に電子商取引は行われている。 Web上に展開されたサイバー書店から、読者は読みたい本を注文する。 本は自宅に届けられるか(支払方法は代金引換か口座からの引落とし)、 或いは近くのコンビにまで行って代金を支払って受け取る。

 「eブック」「電子図書」が普及すれば、今の本と比べると比較にならないほど電子媒体(電子本)は小さい。 今の本に代わって電子媒体を売るとなれば、販売スペースはそんなにいらなくなる。

 インターネットと連動させれば、何も媒体を購入しなくても中身だけを購入する事も可能で、 読者はインターネットを通じて作品だけを購入する。 町の本屋さんからますます書物や人が離れて、商店街から本屋さんが消えてしまう。 雑誌ぐらいは残るだろうか。 無論、専門店としての本屋は残る。

 でもこれはちょっと極論か。現在の本には根強い愛着があり、やはり電子本よりいい、と言う人も多いだろう。

 値段的には電子本の方が遥かに安価で、インターネットで配送となれば流通経費も掛からない。 資源も浪費しないとなれば結構な事である。となればかなりの普及が見込める。

 ますます上質な作品だけが製本されるという訳だ。

 <出版社>

 今の雑誌のような物を作るとなれば別だが、単行本のよな物を作るとすれば、誰にでも出来るようになるだろう。 著作者自ら作品を売る、と言う事も可能だ。 勿論、「eブック」「電子図書」のインターフェイス(内部仕様)さえ明確になれば、 と言う前提の上でだが…。

 著作者毎に出版社、と言うイメージになる事も可能だ。

 実際は販売元を一元化して、そこから買うようにすれば読者には便利だ。 今の出版社のように、作者と作品を抱え込むようになるだろう。 「eブック」「電子図書」を出したメーカーが発売(出版)するかも知れない。 著作者をも抱え込むようになるか?  となると「XX電気会社」出版の電子本、と言うのも出て来るだろう。

 著作権の切れた古典などには、作品にどういう付加価値を組み込むかで、売れ行きも違ってこよう。 ここの製品は語句の解説が適切だ、ここの製品はわかり易い、ここのは挿絵が綺麗だ、と付加価値の競争となる。

 本の出版(電子本の事だが)はますます増える。

(3)良い作品を探す

 ここでは「良い作品」或いは「読んで損をしない作品」を探すための視点で書く。

書店に出ている本の数は多いから、その中から択ぶのは大変だ。 出版社の仕事は本を出す事で、だから兎に角本をだす。 出版社の数は昔と比べると多い。 インターネットの時代になると容易に「本」が出せるようになる。 残念な事に、いい本(自分が読みたい本)はそんなにはない。

 一方、作家として認められたい、或いは作家になって作品で収入を得たい、 となれば「xxx賞」に応募するのが手っ取り早い。 それとも仲間同士で「同人誌」を発行して、雑誌社に送り、誰かの目に留まる幸運を待つ。

 書く事が好きな者の中には、誰かに読んでもらい、ただそれだけで満足して、 書いた記念に投稿する者もいるだろう。 どんな人でも、それぞれの人生があり、一つぐらい著作物にするような話題を持っている。

 作家になりたいと思わなくとも、世の中には考えられないような体験をした方は数多くいる。 その方達の体験談を綴った本は読んでみたい。 どんなに巧みな文章力で書かれた作品より、貴重な体験の方が遥かに勝る。

 今でも書物が氾濫し「xxx賞」への応募作はかなりの数だ、と聞いている。 その中から撰ばれるのだから、よほどの作品だとは思う。 しかし例えば500作の応募があったとしたら、その中から撰ばれたと思うだろうか。

実態は最終選考に残った5・6作の中から選者に選ばれる。 最終選考に残った、と言う事は選ばれたと言うことではあるが、500作を読んで選んだのとは訳が違う。 (物理的に一人が500作もの作品を読む事など不可能)

 電子本が増えると先に書いた。 原稿用紙に向かって、ひたすら書く、と言う作業からキーボードを叩くだけで簡単に作品が生まれるようになり、 容易に作品を生み出せる状況になった。 それはいい事には違いない。

 でも考えてみれば、それだけ作品数が多くなると言う事であり、うんざりもする。 今でもWebページは数多くあり、これからも増えるだろう。 多くは駄作であり、読んでも仕方がない作品も数多い。ほとんどそうだと言ってもいいくらいだ。

 でも書いた本人には、初めての作品であり、思い入れのある内容であり、大事にしている内容なのだ。 そんな中から同じ価値観を持った作者を捜すのは難しい。良い作品を探すのは至難の業だ。

 それらが一斉に「xxx賞」に応募したらどうなるか。 下読みの人は読むんだろうが、仕事だったら大変だ。考えただけでもうんざりする。

 問題は、今でもそうだが、数多くの中から如何に良い作品を見つけるかだ。 良い作品は、100人が100人とも良い作品だと言わないまでも、 半分程度は「どちらかと言えば良い」と言うだろう。 50%が熱烈に支持すれば、つまりお金を出しても読みたいとすれば、大成功だ。 10%でも大成功かも知れない。 熱烈な支持でないにしても、半数が「どちらかと言えば良い」と言えば、その作品は良いと言える。

 作品の価値とはそんな事だと思う。 そして時間が経てば経つほど、より良い作品だけが残る、という事ではないか。

 しかし1%あるいはたった一人だけの熱烈な支持もある。 だから自分だけ気に入った作品を探すのが趣味な人もいるかも知れない。 でも、いくら趣味と言っても、全てを読むのは所詮無理だ。

 時間は限られている。その貴重な時間を割いたのに、読んだら駄作だった、ではなんともやりきれない。 同人誌など、送られてきても義理や縁がある以外は読む気にもならない。 これから爆発的に多くなると思われる「インターネット上の本」もそうだろう。 「私のホームページを読んでね」と言われても、 義理でちらりとみる程度だろう。 自分で購入した以外はなかなか読む気持になれない。それが本音だ。

 「xxx賞」を受賞した作品を何故読むかと言うと、絶対に駄作ではないと思うからだ。 自分にとって良いかどうかは読んでみなければ判らないが、 ある程度のフィルターを通ってきた作品だから、絶対に駄作ではないと信じて読む。 でもたいした作品ではなかった、と思うような受賞作もある。 無論、自分の価値観でだ。仕方がないと思う。

 より良い作品にめぐり合いたい、読みたいと思うのに、これからは困難な時代だと言えよう。 運のいい作品だけが広く読まれる、と言う事にもなる。(今でも若干その傾向はあるが) それでいいのだ、と言う事なのかも知れない。

 作品数の少なかった昔(明治・大正時代)なら、活字にしただけで大いに価値があった。 書く人は限られていたから、今のような困難はなかっただろう。 いや、困難と言うより、これが時代なのかも知れない。

<より良い作品を選ぶために> 

 だからと言って手を拱いてばかりも行くまい。 状況が変れば、それに応じた方法を講ずればいいのだ。 より良い作品を選定するためには、知恵を出し合わなければ…。

 まず、下読みの人数を増やす事であり、一つの作品を複数の下読みに読ます。

 と言うと、そんなに下読みの人数をそろえる予算もないし人もいない、と言うかも知れない。 確かに従来の方法ではそうだ。

 でも下読みは応募者の義務だと考えたらどうだろう。

 応募規定に、以下の項目を加えるのだ。

1)応募者の義務として、必ず他の応募者の作品(10)を読む事。(後日、送付する)

2)よんだ作品の感想を送る事(2・3行でも構わない)

3)読んだ作品の中から、良いと思った作品を必ず1・2作推薦する事。

 インターネットの時代だから、ハードコピーなどと言わずに、電子メールの添付資料として送れば たちどころに送れる。 無論、応募も電子メールでだ。

 応募者が10作品読めば、一つの作品を10人が読む事になる。10人はランダムに択べばいい。 10作品のうち最も点数の多い作品(推薦した人が多い作品)を第一次通過作とする。

 読み手の質の問題がある、と言う心配をする方もいるだろう。でもそれは心配ご無用。 読者は千差万別、いずれ商品として売るつもりなら、どんな人にでも読んで貰えるような作品がいい。 どんな方法でも最善とはいかないが、一人の下読みが読んだ結果だけで判断するよりいいと思うが、 如何だろう。

   ***

 「応募」という例で書いたが、何もそれだけではない。 これからますます多くなる、Web上の作品についても同じだ。 良い作品かどうか、読む価値があるかどうか、投票するような仕組みがあればいい。 (この場合は投票した人のメールアドレス一つが一票、重複は認めない)

 時間を有効に、なるべく良い作品を読みたいものだ。

(金田)


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