創立時、初会合の印象

 【エッセイ】


作  富永 洋一   


 創立時の「文学横浜」は男性の同人が多く、しかも働き盛りの四、五十代が中心だった。今日ではとても信じがたいことである。

 創立メンバーの顔見せになった初会合は、うろ憶えだが、一九七九年の秋に開かれたのだと思う。不景気ではあったが、当時は高度成長の延長期で、中年の男どもはせっせと職場に通い仕事に精を出していて、新旧を問わず、どの同人誌の書き手も女性が占めていた。「未来群」で面識のあった矢口耕一氏に誘われて、私はその会合に出席したのだが、正直にいって、冷かし半分の気持だった。多摩川中流の岸辺の町から電車を乗り継いで、会合場所の桜木町にやって来るのに二時間近くかかる。入会したのはいいが、同人になった人たちとどれだけ長く、真剣につき合えるか。私にはそのことがいちばんのネックであった。

 ところが、七、八人のメンバーの顔ぶれを見ているうちに、考えが変わってきた。男の同人では私がいちばん年若いようだった。会の設立のいきさつを説明する矢口氏の話に、濃紺の三つ揃えを着用した紳士が深ぶかとうなずいていたり、と思うと、長年「貧乏文士」を続けていまや気息奄々といった渋面の五十男が、目を閉じたなりソファの背に凭れて聴いている。いや、不敵にも眠っているのかもしれない。初顔同様の間柄が多かったせいか、会合は咳をするのもはばかられるほど重苦しかった。そろそろおひらきかと思うとき、創刊号の「あとがき」をお願いできないかと矢口氏が声をかけると、「いいですよ」と三つ揃えの紳士は二つ返事でいい、何を聴き違えたか、うす暗い喫茶店のテーブルに原稿紙を広げ、もの慣れた手つきで書きはじめた。……

 かけ離れた資質の集合と強いられた緊張とで、その夜は目が眩む思いをしたが、反面、やってやるぞという、理由のない、敵愾心に似た気分の高揚を覚えて、即座に入会したのだった。

 その後、三つ揃えの紳士は作品を一つ発表したあと、同人一人と連れ立って退会していき、「文学横浜」は渋面の「貧乏文士」の、ばんからな気風に染まっていった。前者は大きな組織を職場とする勤め人で、エンターテイメント志向の書き手である。それに対して、後者は私もふくめてさまざまな職場の自家営業者で、共通するところは、自分にこだわるあまり読者の存在をつい蔑ろにしてしまう質の書き手である。彼らが去ったとき、これで会のカラーが一本化されたと感じ、半ば浮かれた気分で見送ったのだが、それはいかにも短絡で狭い考えだった。

 今日、エンターテイメント性や遊び(余裕といってもいい)を削ぎ落とした小説が、いかに膠着して貧弱な姿を晒すことになるか、たとえば最近の文芸誌新人賞の受賞作品や芥川賞候補といった作品を読むと、おおむね理解できることである。異質なもののぶつかり合いが、やがては豊かなものを産み落とす肥えた土壌になることまで、そのときは頭がまわらなかった。一作書き上げるのに、すぐにあっぷあっぷしてきた。彼があれだけの作品を書いたのだから自分だって……、と目先の競争意識にかき立てられて、自分の創作のことのみにとらわれていったのだ。


[「文学横浜」30号に掲載]

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