「文学横浜の会」
新植林を読む
2009年10月27日
「新植林43号」
「巻頭言」
人間社会や生命における「生まれて消滅」のサイクルについて考察し、我が身の老境を見据えて「歳をとるのもわるくない」と言いきる。
短歌「村の釣池」 パスカルこと子
毎回作者の周りの風景が歌の中から見えてくるようです。10首の中から、
随筆「電話」「喉仏(のどぼとけ)」「漢字の読み方」 津川国太郎
「電話」では自らの体験を通して電波技術の進歩による環境変化に、所謂、情報化社会に翻弄された経緯だろうか。本当に変化は激しい。
随筆「方言は郷土の手形」 花見雅鳳
「鹿児島県指宿郡頴娃村」の言葉を例に、方言について考察している。作者が何処で生まれたのか不明ですが、「我が輩は猫である」の方言での言い換えでも、凡て理解できる日本人はそういないのではないでしょうか。
随筆「北米俳句史断章 北アメリカ俳句の可能性」 長島幸和
アメリカ俳句とは何か、と言うことを芝青氏の「北米俳壇の推移」から「望郷と遊戯」「アメリカ俳句の萌芽」「日本俳壇への参加」「素材の特異性」と紹介している。
短歌「雲の影」 中條喜美子
いずれも作者の周りから捉えたのでしょう。10首の中から、
エッセー「おじゃまでしょうが(野鳥その4)」 中條喜美子
今回も作者の近辺にやってくる野鳥たちを、丁寧に観察しています。ハミングバード(ハチドリ)の生態には、実際に見たことがないのに者にも想像できます。
短歌「秋の陽光」 ネルソン テリー
今回も作者の周りについては不明ですが過日を想っての歌でしょう。10首の中から、
創作「バスの運転手」 シマダ・マサコ
カリフォルニア州の中のある市役所に勤めている景子がポンペイへのバス旅行をする。その際のバス運転手にまつわる妄想だろうか。
随筆「在米半世紀の回想録(その七−A) 井川齋
今回はLACCでの学生生活四学期目頃の話です。この稿だけを読むと「学究の道」どころではないですね。一昔前のベースボールに打ち込む有色人や、大リーグの底辺等を克明に描いています。
ノンフィクション「ある国際結婚(その二)」 清水克子
高校生になって両親と離れて一人で棲むようになり、英会話の勉強を始めた作者は韓国人の高校生と文通を始める。地元の大学に入ってから、親の反対を押し切って洗礼を受ける。疎遠になっていた文通相手、彼はベトナム戦争に行っていた、と文通を再会するようになる。
私小説「インディアン サマー(五)」 杉田廣海
同棲相手のシーナは出て行って、命からがら膵臓の手術を受けたばかりの私は進退窮まっていた。そんな折り、文芸誌を発行するので小説を書いてくれないか、と電話が掛かってくる。迷った末に今の自分を救うためにと、長編「蒼き神々たちの夏」を書くことを決める。
文芸誌 in USA 新植林 <金田>
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