「文学横浜の会」
新植林を読む
2011年10月16日
「新植林47号」
六十半ばに近づいた筆者は、自分の人生を「悔恨と自省」しつつ、もしやり直しの人生が可能だとしたら、やり直した人生がバラ色か、
と言えばそれは違うと言う。
順風漫帆に世間を渡り、たとえ大金持ちや大学者になったとしても、そう言う方達が必ずしも魅力ある人とは限らないと。
津川国太郎氏の病状について触れている。先にはパスカル琴子さんの名前を見なくなって久しい。
人は誰しも何時かお別れをしなければいけない時を迎えるが、何時までもお元気で、と願わずにはいられない。
随筆「日系社会の情報源」 津川国太郎
紙として出版される情報源としての新聞や雑誌が、インターネットのウェブサイトに置き換わって、
廃刊、閉刊されていると言う。日本語に限らず、出版物そのものがそうした時代の流れに晒されている訳だが、
インターネットに馴染めない高齢者には淋しいだろうな、と思う。
創作「ガラスの家」 シマダ・マサコ
夫アランの母親が住んでいた、小さな丘の上にある家に、夕子は行く。
ロシア生まれのアランの母は、第二次世界大戦の始まる頃に、故郷を逃れ、苦労して中国・上海に辿り着き、
姉と共に衣類を扱う店を開いたが、経緯は不明だが、アメリカに渡ったようだ。
随想「終戦と私」 花見雅鳳
東郷茂徳の獄中歌「いざ子らよ、戦うなかれ 戦わば 勝つべきものぞ 夢な忘れそ」を引合いに出し、
同じ薩摩人として筆者は自らの人生を振り返り、
「凡て運命が脚色した自然の事実は、人間の構想で作り上げた小説より無法則である」(夏目漱石「坑夫」より)
と言う言葉を噛みしめている。
随筆「枯れるということ」 野本一平
西欧思想には「自然を征服する、改造する」というのがある。しかし日本には「山川草木悉有仏性」と言う思想があり、
自然と共生する感性と美学があると言う。
自然と共生すると言う事から、自然界における「生まれ、枯れ、死」の繰り返し(輪廻)を受け、
死とは次に生まれる為のもの、との思想が生まれる。
東北大震災にみるように、日本に住んでいれば地震、台風、火山噴火と、自然災害はいつ起こるか判らないし、
それらは決して征服できるものではなく、古来、日本の先人達はそうした中で生きてきた。
そうした中から、自然とは征服するものではなく、同化し、慈しみ、共に生きるという思想が生まれたのではないだろうか。
短歌「ついに失せたり」 中條喜美子
今回は肉親の兄を悼んだ歌10首の中から、
「泣くために 帰るものかや ふるさとは 雲間に見ゆる 瀬戸の海岸」
エッセイ「おじゃまでしょうが(道)」 中條喜美子
「幼い頃の通学路」が作者には一番記憶に残っている道だと言う。
生まれ育った地を離れ、何年も何十年も経てば尚更だ。心の中の印象は相対的に大きく膨らむ。
そして何十年も経って実際に行ってみると、…と言う事はよくある。
随筆「雷」他、六編 柳田煕彦
「雷」「健康」「木炭(樹齢百二十年の木)」「くいつき亀」「片目の蛇 森の石松」「貧乏」の六編。
筆者は「幸せを感じる事が健康だ」と言い、「貧しいとは、どこからも金が入ってこず、収入もあてにならない人の事を言う」とある。
随筆「在米半世紀の回想録(その十) 井川齋
LASCへ進学し、62年の夏から6年夏までの歩み。
英語力の未熟さを痛感しながら学業を続けている最中、妹の美年が享年十七才で亡くなった事を知り、
アメリカの地で「ベストを尽くして自分の目指すものを追求し続ける」る事を筆者は亡き妹に誓う。
ノンフィクション「ある国際結婚(六)」 清水克子
ソウルで結婚式を挙げて、「私」は日本に戻る。夫を日本に呼びたいのだが、1970年頃の日本は、韓国人の入国は難しく、
つてを頼って、どうにか技術研修名目で入国ビザが下りて、夫との生活が始まり、アメリカへ出国するまで。
そんな前の事ではないと思うのだが、対韓国いや外国との交流は、今、当時とは比べようもなく盛んになった。
私小説「インディアン サマー(九)」 杉田廣海
せっかく料理人の仕事についたのに好美さんの夜遊びから、夕食を作ることもなく私は怠惰に過ごしている。
文芸仲間の小池智子がサウス・セントラルに見つけてくれた住処には、ロンと言う白系の男がいて、その弟・ペリーが家主だ。
ペリーから聞かされるアメリカの事情を知り、私は裁判相手のシェリフがストリート・ギャングより質が悪いと聞かされる。
文芸誌 in USA 新植林 <金田>
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