「文学横浜の会」

 新植林を読む


2015年 6月13日


「新植林54号」



「巻頭言」
経営している店舗へ検査にきたヘルスデパートメント職員との軋轢の顛末について、次号と2回にわけての報告との事。 余程、腹に据えかねたのだろう。

随筆「いのちの周辺(下)」   野本一平

 前回の「死にかた学」に続いて今回は「高見順」「亀井勝一郎」「吉村正一郎」「宮沢賢治」らの闘病記等をひもといて、 死に直面した時のそれぞれの心境に思いを馳せ、それぞれが「死とはどう言う事」と考えたかを考察している。 

そして作者は、37年の短い生涯をとじた宮沢賢治が表した死の世界、に心惹かれると言う。読みごたえのある作だ。

エッセイ「おじゃまでしょうが(差別)」      中條喜美子

 人種差別反対デモのテレビニュースを観て、差別について述べている。

ここに書かれているように昔は日本でも色々ありました。でも私が小さい頃と比べると、今は理不尽な差別や偏見は無くなった、 とそう思い思いたい。でも肌の色、宗教や文化の違い、或は個人の属性等に対する差別や偏見は中々無くならないのが現実なんですよね。 人種の坩堝と言われるアメリカでは尚更でしょう。

小説「ふるさと(一)」         シマダ・マサコ

 1950年代、サンフランシスコの小さな町が舞台で物語は始まった。 主人公(?)裕子は戦中戦後の忌まわしい日本を“脱出”してアメリカに渡った。 大学生の彼との間に、生まれる筈のない子供を身ごもり、彼の転校先のバークレーに行く事になり、子供を産んだ。 彼と裕子、それに生まれた子供と生活している住いに、彼の母親が訪れる。
今回は、「しあわせとは何だろう」と裕子が色々考える処で終わる。

随筆「在米半世紀の回想録(その十七稿)」   井川齋
  オレゴン大学・大学院在籍時代(一)

 前回の「三つの岐路」から筆者は「オレゴン大学・政治科学学部、略称(ポリ・サイ)」博士課程へ進むことになる。 しかも「学部フェローシップ」付きだった。でも「学部フェローシップ」の権利を利用できなかったのは悔しい思い出でしょうね。 誰でもが得られるものではないですから。

ベトナム戦争中、筆者27歳の頃で、稿は博士課程への入学許可の結果を知るところから博士課程の始まりまでを、 <はじめに><オレゴンへ><カルチャーショック><フェローシップの行方><仮の棲家><カレン・メイ> <HSとの交友(?)関係><博士課程の始まり>とサブタイトルを付けて書かれている。 そして「社会学部分野大学院生の為のコンピュータ入門」と「総選挙年分析入門」の二つのコースを選択したことで終わっている。

いやぁ、筆者が若かったから色々な障害を乗り越えられたのでしょうね。 日本でそれだけの事をしたら…、と思うのですが、そうした努力を認めてくれるのもアメリカなのかなと思いました。 アメリカは国内に色々問題はあるにしても、能力を公平に評価するのもアメリカの力なんですね。

小説「でけそこない(その十五〜その十七)」    入江健二
副題「それでも夢があった」

 (その十五)「もう少し勇気があったら」
 二郎は父さんとの関係も良くなく、何も楽しい事もなく、何のために生きているのかと悩み、 家の中でも学校でも、自分の居場所が見つけられないでいました。ついにはリストカットを妄想するような高校2年生でした。

 (その十六)「君は必要ない」
 日本は高度経済成長期で、理科系の人材が求められていたのですが二郎はむしろ文系科目が好きで、 益々「自分は必要とされていない」と感じていた。 そんなある日、末期がんで亡くなった父方のおばあさんを思い出し医者になる夢を持つ。

 (その十七)「ローニン(浪人)生活はこうして始まった」
 1959年3月21日PM7時頃、掲示された「東都大学教養学部・理科二類」合格者の中に二郎の受験番号はなく、 二郎は浪人生となる。予備校に通う事になるがそれにも試験があって能力毎に校舎別けされることを知る。 その年は皇太子の御成婚のあった年で、二郎のローニン生活がスタートする。

ノンフィクション「トーマス」  柳田煕彦

 今回も「ノンフィクション」とあります。が、作者と作中の「私」の立ち位置にとまどう。
まぁそれはおいて、今回もトーマスと言うメキシコ人と私との絡みが面白く書かれていました。 よく「何々人は怠け者だ」等と言いますが、あくまでも個人のやる気・能力ですよね。今回も面白かった。

随筆「砂漠のブランコ(三)」      ケリー・晴代

 「4年生のクラス」、「<PE>体育」のサブタイトルでJJとミミの英語力の乏しい小学生の、 学校での奮闘をお母さんの眼で描いている。小学生だから慣れるのは早いとは言え、本人達には大変なことだし、 日本とは違う学校の慣習・ルール等で親の方もさぞ気苦労も多いでしょうね。

随筆「野良猫と私」      太田清登

 近所にいるferal catについて書いている。でもこの猫、本当のferalなのか、と思わせる、ちゃっかりした猫のようにみえます。

ノンフィクション「ある国際結婚(最終回)」 清水克子

 突然離婚の書類にサインしてくれとの書類がきて、結局離婚に至るのだが、ほんとうに家族ってなんだろうと、私は考える。 国際結婚だとお互いに考えなければいけない問題(通じ合えない事)が増えますが、 結婚とはなんだろう、と言う事なんでしょうか。
でも、作者はこれを書いてきっと一区切りつけたのではないか。そんな風に感じました。

小説「インディアン サマー(十六)」 杉田廣海

 小池智子にやる車を磨いているとベリーが来て、カズの息子が来たと言う。 カズとはレストランで倒れて死んだ初老の日本人だ。 カズの死を、何十年も会っていないと言うカズの息子に知らせたのだが、まさかその息子が来るとは思っていなかった。

サクラメントからの知らせで私の疑いがとれていて、銃砲店に預けてあるベレッタを取りにベリーと行った。

文芸誌 in USA 新植林
第54号・2015年 春期
e-mail:shinshokurin@aol.com
homepage: http://www.shinshokurin.com
定価:7ドル+TAX


<金田>


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