「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2006年4月22日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<100>

 今年の桜は花もちがよかった。開花時に寒さが舞い戻ったせいなのだろうか。桜は散り際も風情がある。 ちょっとした風で花びらが散る様はなんとも言えない。

 四月の始め、国立演芸場に行ったついでに、千鳥ガ淵公園を覗いてみた。タクシーの運転手が人を見に行くようなもんですよ。 と言っていたが全くその通りで、人、人の波だった。

 車も走れない。地方ナンバーの車が駐車禁止も意に介さず停めているからにっちもさっちもいかない。 NHKがニュースのたびに千鳥ガ淵の桜情報を流すせいか。
「昔、千鳥ガ淵の前にフェアモントホテルというのがあったが」と運ちゃんに話かけると、彼はさぁと首をかしげ、
「マンションのあるところかな」と呟いた。

「あすこのシャリアピンステーキがうまかった。テーブルまできて料理する演出がよかったのか、なあ」
と、カミさんに同意を求めたら、カミさんはにべもなく、
「あたしは一度も来たことはありませんが……」
「えっ、……ムムムムム」
 しまった。誰と来たのだろうか。余計なことを言わなければ良かった。変な弁解をしても始まらない。話題をかえることだ。
「運転手さん、屋台が出ていないのはいいけど、なんで焼き芋屋だけが出ているんだろう」
 運ちゃんは、そんなことまで知る筈はない。「さあ」と言っただけだった。
 ちょっとした広場に焼き芋屋が出店している。食い物屋はそれだけだ。
 外国人の家族連れがうまそうに食っていた。子供にせがまれたのだろうか。

◆ 桜の時期になると、桜餅を代表に、花に似せた和菓子などが登場する。五月も近くなると柏餅。 日本人の季節感が出ていて嬉しい。 先だって、銀座を歩いて佃煮屋の『玉木屋』を覗いたら「桜しらす」と名付けた製品が店頭を飾っていた。 なんのことはない、桜の葉の塩漬けを細かく刻んで、しらすにまぶした物だ。桜の名につられて買ってしまった。

 昭和の始めに茨城県に造り酒屋があった。庭には何十本もの桜の樹が毎年見事な花を咲かせていた。 醸造所の当主が考えた。あの桜の樹で樽を作ったら、桜のほのかな香りが染み込んでいい酒が出来るかも知れない。 そう思うと、矢も盾もたまらなくなり桜の樹を切って酒樽を作った。 桜の風味のいい酒が出来る筈が、情けないことに腐敗していた。これは樹が生で乾燥していなかったせいだろうと思った。 そこで残った樹を切ると、一年間乾燥させた。杜氏の反対を押し切って作ったが、またもや腐敗した。 こうして醸造家は倒産してしまった。家族は路頭に迷い、桜の樹の祟りだと近隣では噂された。

 これは現実にあったことで、その家族の一人が語ってくれた話です。

◆ 食品安全委員会の委員12名のうち、6人が退任と新聞の見出しに出ていた。 それでああ、BSE問題で政府の圧力に抵抗してのことかと思った。

 これは早とちりで、食品安全委員会の委員は7名で、 退任問題の委員は16の専門調査部会の中のプリオン部会の委員が12名だった。 それにしても半数の委員がやめたのは穏やかでない。任期満了の人もいたらしいが、 大半の委員はアメリカ産牛肉への輸入再開には慎重論を唱えていたらしい。新聞報道も歯切れが悪いのは何故なのだろう。

◆ 最近新聞を読まない青年層がどんどん増えているのだそうだ。 我々の年代だと、朝起きてお茶を飲みながら新聞を読まないと落ち着かない。それが長い間の習慣になっていた。 休刊日だとなにかが欠けたような気がしていらいらする。考えてみれば、そういう人たちはだんだんと少数派になりつつある。

 若い人はインターネットで主たる報道は見ることが出来る。それにテレビがある。 メディアの多様性の時代になって、新聞も影が薄くなってしまった。

 通信手段も変わった。昔はせっせと手紙を書いて意思を伝えたものだが、それが電話になり、 今ではメールのやりとりが普通になっている。

 うちのカミさんなんかも、ケイタイでアメリカにいる孫にメールを送っている。 なんでもないかのように送信しているのだから驚きである。

 以前にテレビ電話が出来るというニュースで、そんなことが可能かと不思議に思っていたら、もうそれが実現されている。 IT産業の目まぐるしい進化には、老人はおろおろしているだけだ。ホリエモンが生まれ、あっという間に消え去った。

◆ 毎日のように時刻表を眺めている。長旅が出来ないので、一泊だったらどこまで行けるのか。 平日だったら翌日の午後1時までに病院へ帰らなければいけない。まあ今の調子では2時間が限度だ。 地図の上を分度器を回すと、房総から信州、伊豆の山々が入る。結構行けるものだ。でも疲れに行くのではなんにもならない。 乗換えを考えると、いいとこ一時間半か。ペーパートラベルをやめて実行に移すことにした。 土、日は休みなので、土曜日一泊にした。疲れても翌日寝ていればいい。

 そこで、新幹線の「こだま」で掛川まで行き、そこから天竜浜名湖鉄道で、三ヶ日までのんびり走ると、 ホテルのチェックインの三時すぎに着く。

 天気予報は低気圧が西から流れているということだったが、心配した雨にも降られなかった。 掛川では大河ドラマの「功名が辻」にちなんでいろいろと催しが行われていた。小じんまりした城郭と天守閣。 山内一豊は10年ぐらいここを居城としてらしいが、城は平成6年に新築したという。町起こしのなせるワザなんだろう。

 隣の袋井には、宮城まり子さんの「ねむの木学園」がある。そこに吉行淳之介文学館があるが、 車で来ていないので、失礼する。掛川に学園の作品展示場があったが、外から覗けるだけで、戸がしまっていた。

 帰りに浜松へ出て、「かたくり会」で行ったことのある駅前の『八百徳』で昼食。 ホテルの夕食がうなぎ懐石だったが、浜松へ来たらうなぎ漬けになるのも仕方がない。「お櫃うなぎ茶漬け」をとる。 昼食には丁度の量である。食べ終わる頃になると、客がぞくぞくと詰め掛けて来た。12時前だったのが正解。

 早々に引き上げると、名古屋に向かった。最終目的の『徳川美術館』。お殿様の展示品を見て、さすが殿様よと感心した。

 美術館の前からタクシーに乗る。運ちゃんが、どちらから来たのかと言うから、横浜だと言うと、
「横浜の中田市長は立派らしいですね」
「そうでもないさ。福祉は削るし、我々老人にはきつい市長さんだ」
「でも、長野の田中知事よりはいい。あたしは長野で土木関係の仕事してましてね。
公共事業が駄目なんで見切りをつけて名古屋に来ました。愛知県は活気がありますね」

 話好きな運転手は、田中知事の悪口で鬱憤を晴らしていたが、突然、
「お客さん、すみません。メーターを倒すの忘れていました」
 メーターは来た時の半分に満たない。表示の通りで結構ですと言うのを、なんとなく悪い気がして、色を付けて支払った。

 名古屋から「のぞみ」に乗ったら、新横浜までは1時間20分ほど。  土、日の一泊なら、伊勢湾の賢島ぐらいは行けるなぁ。  しかし、翌日は疲れが出て終日じっとしていた。慣れればなんとかなりそうだ。

◆ お恥ずかしい話だが、近ごろミスが多くなった。前号でも吉野先生のお名前を間違っている。 読み返しているのだが、気が付かない。印刷し、発送して、やれやれと思って広げて発見する始末。

 同人雑誌の校正をやっていてもそうだ。読んじゃいけないのに、ぼやっと目を通している。失格である。 集中力がなくなっているのは明らかだ。

 100 号に達したら、この便りをやめようと思っていた。 その時が来てみると、自分の頭の体操でもあるし、ボケ防止に役立っているようなので、もう暫く続けようと思っています。 読まされる方は有難迷惑かも知れないが……。もし迷惑ならば、遠慮なく送るなとハガキを下さい。

◆透析あれこれ◆

 透析を始めて1年がたった。早いものだ。3か月か半年の命と言われていたのに、透析のおかげで生き延びている。 限られた短い命だからと、最初の頃は真剣に書き掛けの作品の完成を心掛けたがものだが、日がたつにつれて、 ぼんやりしている日が多くなった。

 先日ほかの病気の定期検査で、CTを撮ることになった。ご承知の通り、寝転がっていると機械がひとりでに動いてくれる。 「両手を頭の上において」と言われたが左手が上がらない。透析をやっている腕の方だ。
「どうしました?」
「はい、はい」

 痛さを堪えてようやく上げた。
 考えてみると、左手で重たい物は持つな。腕先を締め付けるようなシャツは着るな。と言われて、大事にし過ぎていた。 そのせいに違いない。そこそこの運動をしないといけないことが分かった。人間の身体は使わないと駄目になる。

 1年も同じ場所にいると、次々と新しい患者が入ってくる。顔色のいい人もいれば、どす黒い顔の人もいる。 自分でも鏡を覗くと、日に焼けた訳でもないのに黒ずんでいる。病気のせいなのか。 肝臓の悪い人はそうだと聞かされていたが、透析を始めてから肝臓の数値は通常人と変わらなくなったのに……。

06/4.22

 城井友治


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