「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2006年6月24日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<102>

 このところぼんやり過ごすことが多くなった。
 それで一日が走り去ってしまうのだから、困る。
 こういうのを無為徒食というのだろう。
 会社をやっている時は、なんだか訳も分からずに飛び回っていたが、今になってみると、 空しい日々だったような気がする。よくあの頃に病気で倒れなかったものだ。
 それだけ気が張り詰めていたのだろう。

 立ち上げた事業は物の見事に失敗した。日本でも初めてというくらいの包装肉の専門工場だった。 東名高速道路の厚木インターチェンジ近くに工場を建てようと土地の買収に走り回った日々が目に浮かぶ。 厚木の地主たちは皆金持ちで、代替えの土地を寄越すなら売ってもいいと言われた。 資本金の5000万はそれですっ飛んだ。

 まだスーパーマーケットの創草期で、包装肉か対面販売かと論議が交わされていた時代であった。 多店舗展開をしていけば、職人まかせの対面販売には限界がある。
 いずれ包装肉の時代が来る。それまでの我慢だ、辛抱だと自分に言い聞かせてスタートしてみたものの、 それ程甘いものではなかった。

 新規事業を進めるには、経営者としての能力の欠如をいやっというほど知らされた。 包装機はアメリカからの輸入。フィルムもそうだった。 包装機も国産のものが出たばかりでまだ不安定で使えなかった。 暫くすると、納品した金額と売上げ金額が毎日微妙に違う。 スーパー側に問題があると抗議したら、スーパーではレジに問題ないと突っ撥ねられた。 いろいろと調べるうちに飛んでもないことが分かった。

 頭のよい消費者がいるもので、安い豚肉のシールを高級牛のステーキと張り替えていたのであった。 レジでは金額を打ち込むので背一杯。商品知識がないから、インチキに気が付かない。 それでシールのメーカーに一度張ったら、二度と剥がせないシールを作ってくれと頼んだりした。 バーコードをかざすだけで品目金額が提示される現在では、想像も出来ない話だ。

 ホンダ自動車がアメリカにオートバイの輸出しているが、 帰りの船が空で勿体ないからなんとかしたいがと相談を受けた。すでにホンダは相模原の方で、 ビーフジャキーを作る会社を立ち上げていた。話の様子では、大々的に売り出したいために、 アメリカから牛肉を輸入したいとのことだった。まだその頃は輸入牛肉は禁止されていた。 いくらホンダでもそれは許されない。それで牛肉でなく、生体で入れるから、厚木の屠場で処理してくれるかと言う。 品種改良の目的であったのか、生きたままの牛の輸入は許可されていた。

 屠場の場長に話をつけて、運び込まれる日を待っていると、やがて五頭の体格のよい牛が届いた。 まず屠場の隣のうちの工場へ車は入って来た。隣にじかにいれればいいのに、でもいいか引っ張っていけば……。 車から一頭下ろして、びっくり、鼻輪が付いていない。これじゃ仕事が出来ないと、屠夫は引き揚げそうになった。 日本で飼育されている牛は繋留の目的もあってすべて鼻輪がつけられている。 ところが積んできた牛は放牧されたままを船積みにして来たらしい。野生のような牛である。

「これからはこういう牛が来るんじゃ、扱いの方法を考えないとな」
 屠夫たちは呑気にそんなことを話している。
 牛は牛で、殺される気配を察したのか、突然暴れだした。工場の敷地を駆け回る。
「門、門を閉めろ!」

 その声も間に合わず川沿いの道を逃げてゆく。幸いなことに周辺には人家はない。 大騒ぎになったが、なんとか捕獲して事なきを得た。危うく新聞種になるところだった。
 翌日、試食のテーブルに上がった牛肉は青臭く、とても美味しいと言える代物ではなかった。

 牧草だけで育った牛は、そういうものだと知った。 今、日本に輸入される牛は出荷される何ケ月前に配合飼料で飼育される。草臭い匂いはなくなっている。
 ぼやっとしているせいで、こんな裏話が思い浮かんだ。これも年のせいだろう。

◆ 社会保険庁で本人の了解も得ないで、保険金未納者の免除をしたそうだ。 免除してしまえば、リストから外れるから、滞納率の改善ということになる。 頭がよいというか、姑息な手段といおうか、お役人の考えそうなことだ。 だが、このことは一ケ所ではなく、全国にまたがって発生したというから、多くのお役人が賛意を示したのだろう。

 だが、免除された人は督促状が来なくてほっとするだろうが、年金受給資格が生じた時はどうなるんだろう。 その時になって窓口に行ったら、けんもほろろに、
「あなたの資格は、何年何月から未納になっていますから、喪失になっています」
「だって免除してくれるというから、その通りしたんじゃないか! 責任者をだせ!」
「当時の責任者は、とうの昔、定年でやめております」

◆ 村上ファンドがとやかく言われて、総帥が逮捕された。よく金が集まるものだと感心していたら、 配当のよい投資先を鵜の目鷹の目で探している年金基金が飛びついている。  抜け目のない金融機関も多額の融資をしている。農林中央金庫も出しているんだから、 政府が後押ししているようなものだ。そうこうするうちに、日銀総裁まで投資している事実が露呈して、 野党は得たりや応と政治問題にしている。野党の中にも、選挙資金稼ぎに投資している人はいないのかね。

◆ 「クマソウ会」都立二中(立川高校)44期A組の例会が6月4日に新宿のセンタービル53階であった。 19名の出席。新しい提案があった。

 香典の廃止。年々生存者が欠けていくのに会として対応出来なくなったためだ。
 個人個人でそれぞれがすることにした。そして3年後の12月末に解散しようかという話が出ている。 ほとんどの人が80才を迎えるからだ。

 淋しいが仕方がない。
 その座談の中で8月15日の終戦の日どうしていたかという話が出た。私は熊川倉庫の現場で、 整列して聞いた覚えがあるが、そうでない人が何人もいた。よく聞きとれない玉音放送で、 今日は仕事をしなくて帰ってよろしいと言われ、そのまま家路についた。

 敗戦のことは、同級生の故神谷悠一郎君が、
「これは内緒だけど、明日、天皇陛下の放送がある。戦争は負けたんだ」

 どうしてそんなことを知っているのか、不思議だったが、彼から聞く情報はもっともなことばかりだった。 広島に原爆が投下された時も、新聞は歯切れが悪く、巨大な爆弾とか、特殊な爆弾と報道していたが、いち早く、
「あれは原子爆弾で、日本でも仁科博士が完成寸前だった。アメリカに先を越されたんだ。 これからはキングス・クラウン(英語の教科書)をやり直すんだな」
 その友も今は泉下に眠っている。

◆23階からの眺め◆

「透析あれこれ」を今回から改題した。今通っている透析専門の診療所は、 横浜駅西口の25階建ての天理ビルの23階にある。市民病院で透析が始まって、 退院後は専門の施設で透析を受けるように指示されて、何ケ所か紹介された。その中の一つだった。

 もし大地震が来たら、どうする。と問われるが、その時はその時、透析中に地震で停電でもしたら、 と非常時の訓練があるが、聞いていてもよく飲み込めない。

「ここのスイッチを閉めて、そう、そういう風に。ちょっと堅いですけど……」
 手が不自由なのにそんなこと出来るものかと、地震が来たらビルと運命をともにするとあきらめている。
 入り組んだ血管の管が露出して打動している。
「緊急の場合、あすこの避難階段を使って降りて下さい。止血をしてからですよ」
 うんうんと聞きながら、意地悪な質問をする。
「あんた方は、真っ先に階段を降りてしまうんじゃないの」
「いえ、そんなことはありません。患者さんの様子を把握して、一緒にか、最後に避難します」

 優等生の回答があった。嫌らしい爺々と思われたに違いない。まあ、その時になって見ないと分からない。
 丁度診療所は西側に面していて、待合室からは眼下に中小のビルの林立が望める。 下の道を歩く人たちは米粒にしか見えない。

 ベッドのある方には、同じような高さのホテルが視界を遮っているが、そのはずれから、港の一部が見える。 寝転がってしまうから、診療中は船の行き交うのが見えないのは残念だ。 このビルでは11階までのエレベーターが6基、25階行きの高速が6基ある。 どこの会社製か表示がないから分からないが、実にスムーズに動いている。高層ビルではエレベーターは道である。 死亡事故の起きたマンションのエレベーターが使用禁止の張り札があったが、住んでいる人はどうしているんだろう。 ひどいものだ。

 毎週月曜日に血液検査がある。その結果が水曜日にプリントされて渡される。 ヘマトクリットの数値が異常に下がった。元々貧血の症状があったので、造血剤を処方され飲んでいる。 それなのに、ということで検便をさせられ、その結果、 胃か腸で出血している恐れがあると病院の消化器科へ紹介状を書いてくれた。

 そんな訳で、6月6日に胃カメラを飲まされた。肝臓に障害があるとみられる静脈瘤があるが、出血はない。 いよいよ腸内出血か。覚悟をきめて翌週の13日に内視鏡センターに赴く。 だいぶ昔検査をしたことがあるが、その時はバリュウムを飲んでだったが、 今度は洗腸剤とかいう2リットルの水を飲まされての検査だった。

 ポリープが大小取り混ぜて5つほど、その中の1つがちょっと触っても出血する。 どうするかは検体を調べて上のこと。その結果が29日に宣告される。

 まあ性懲りもなく次から次へと病気がお出ましになるものだ。

06/6.20

 城井友治


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