「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2006年7月23日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<103>

暑中お見舞い申し上げます。

 今年も天候不順で、九州と山陰、長野に連日の豪雨。土石流の被害、河川の氾濫が相次いでいる。 痛ましいことだ。天災は諦めるしかないが、人災には全く腹が立つ。北朝鮮の脅迫行為はなんの益があるのだろう。 常識の通用しない世界があることを思い知らされた。DNA鑑定なんかあの国にはないのだろう。

 それにしても、あれだけ忠告を重ねていたにもかかわらず、 無視してミサイルを打ち上げた図々しさに狂人の国の恐ろしさを感ずる。 困るのはこうした外圧によって日本が変わって行くことだ。

 アメリカの傘の中に入っていて安穏としていては駄目だ、という意見がある。 自力で対抗手段を持つとしたら、軍備の拡充しかない。
 こうした考えが広がって行くのが恐ろしい。二度と戦争の悲劇を繰り返すことのないことを望んでも、 狂人が刃物を振りかざして襲ってくるのをどうやって防ぐのか。

 イージス艦を配備して、迎撃ミサイルで飛んで来る相手のミサイルを打ち落とすのだそうだが、 全部が全部命中するものなのだろうか。
 ミサイルもコンピューターで制御されているのだから、 ウィルスを侵入させて落下地点を北朝鮮にするようなことは出来ないものか。

 まあこれを機会に、日本はあの国との付き合い方を考える必要がある。 人道支援も限界があることを知ってもらうことだ。

◆ 磯子の丘に建つ『横浜プリンスホテル』が50年の幕を閉じ、6月30日に閉館となった。 私の住んでいる保土ヶ谷から鎌倉街道を弘明寺から旧道に入ると、プリンスホテルは意外と近い。 昭和35年(1960)プールが開設された。まだ公営のプールが出来る前だったので、娘たちを泳ぎの練習に連れて行った。 地下水を汲み上げたのかどうか知らないが、すごく冷たい水だった。 だから長時間プールに入っている人は少なく、快適な環境だった。

 プールサイドでのんびりしていると、向こうから小さなお嬢さんを連れたグラマーの女性がやって来た。 いいプロポーションだな。水着姿の女性を見る男の目は、顔よりもどうしても部分に視線が行く。 すると、
「あら城井さんじゃありません?」

 慌てて顔を見ると、驚いたことに、行きつけのバァで、独身がウリで稼いでいるホステスだった。
「××ちゃんと会いましたか。来ていますよ」
 そちらも子連れだった。プールサイドで夜とは違った歓談を重ねた思い出がある。

 アイアン専用のゴルフの練習場を作ったり、顧客集めに努めていたが、横浜の中心地にホテルが林立するようになると、 客足は落ちて行ったのだろう。
 下の娘もここで結婚披露宴をやった。

 跡地はマンションになるそうだが、昔の根岸の海が広がる景観は、高速道路と石油コンビナートに取って代わっている。 時代の移ろいを感じる。

◆ もう一つ、わが青春の思い出の場所が消えて行く。四ッ谷2丁目にある文化放送の社屋が老朽化のため、 港区の方に移転するのだそうだ。文化放送については何回か書いているので、改めて書かないが、 社員でもないのに始終出入りしていたから受付のシスターさんが丁寧に挨拶するのには気が引けた。 目の前の三栄町に、鎌倉アカデミアで後輩の閑崎ひで女が住んでいて、彼女が郷里の名古屋に帰っている間、 放送劇を書く仲間が合宿した。朝飯はいつも文化放送の社員食堂だった。 その話をなにかの折にしたところ、横浜郷土研究会の井深さんがびっくりした顔をなさった。 近くに会社の事務所があって、やはり文化放送の食堂を利用していたのだそうだ。 「社員以外の方の利用、ご遠慮下さい」の貼紙はあなたたちのせいだったのかと言うと、

「冗談じゃない、それはあなたたちが原因でしょう」
と笑いあった。

 ここも跡地はマンションになるとか。建設当時から知っている建物が老朽化してなんて聞くと、 わが身の老朽化も仕方のないことかと思ってしまう。

◆ イラクのサマーワから陸上自衛隊が無事撤退し、帰国のために隣国のクエートに移ったそうだ。 何時襲撃されるか分からない不安の中の撤退。隊員が全員防弾チョッキを身に付け、小銃を携帯しての行動だった。 撤退スケジュールを一切公表しないのも、不穏分子の暗躍を押さえるには良かった。

 現地の緊迫した状態を知らない平和ボケの日本の新聞記者は、イラク人の見送りのない撤退だったと書いていた。 バカも休み休み言うもんだ。安全第一ではないのか。よその国では広報活動として公表しているなどと言っているが、 もし事故でもあったら、新聞社が責任をとるのか。無事撤退よりも事件が起きるのを望んでいるのだろうか。 緊迫した空気の中での2年半、本当にご苦労さまでした。

◆ しかしながらなんで人間は争うのだろう。宗教の争いとかなんだかんだ言いながら、殺戮を繰り返している。 平和だったら死ぬこともない一般民衆が巻き添えになっている。 イスラエルの空爆がベイルートヘという記事を見ると、50年も前にベイルートへ行った時を思い出した。

 ローマに入る前に、ベイルートの空港に降り立ったのは、真夜中だった。 それでも黒塗りベンツがずらりと並んで客を待っていた。3台の車に分乗しての11名のグループ。 真っ暗な中をどう走ったのか。車を降りてホテルの入り口に向かうと、道の脇に咲く花の強烈な匂いが鼻を射た。 ベッドは堅く狭かった。横になるとそのまま着替えもしないで寝込んでしまった。 朝の光にカーテンをあけると、目の前に廃屋のような建物があり、半身裸姿の男が朝餉の煙をたてていた。 その向こうにも葦簀を下げた廃屋に似た建物があった。

 その日は一日自由行動になった。ゆっくり寝ている人、ホテルのプールで泳ぐという人。 私は一人で街の中に行き、人の流れについて市場に出かけた。 写真を撮っていると、どこの国でもお目にかかる子供たちが寄ってきて、煙草をねだった。

 その足で海岸に向かった。波除けのテトラポットに2人の青年がいた。地中海で釣りでもしているのか。 と思ったが、釣竿はなかった。することがなく、ただぼんやりしているのだった。 対岸に色とりどりの高層の建物が見えた。今まで目にした庶民の家とは違い過ぎる。
「あれは、なんだ?」
「オイルマネー、ブルジョア」

 そうか、石油成金のマンションなのか。しかし遠目に見たところ、まるでツームストーンのようにも見えた。 2人の写真を撮ろうとして、カメラを構えた時、レンズキャップを落としてしまった。 青年たちは急いで取ろうとしてくれたが、テトラポットの隙間に落ちていった。 今でも地中海の海底で藻にからまれて、そのままあるかも知れない。

 空爆であの街はどうなっただろう。青年たちも無事でいるだろうか。

◆ 角野栄子さんから、『鎌倉文学館』の催しのご案内を頂いた。
「魔女からの手紙 魔女への手紙  角野栄子の世界」
         7月22日(土)から9月24日(日)までのほぼ2ケ月間。月曜日休館。
 開館は、午前9時から午後5時。入館は午後4時半まで。

◆23階からの眺め◆

 眼下にビブレが見え、その先にダイエーとハンズのビルが見える。 見上げると大きなビルなのに、小さな建物としか見えない。 その向こうに球形のガスタンクが3基、鮮やかマリンブルーで際立って見える。ここには明治の半ばに屠場があった。 目の前を東海道線がのんびり走っている。 当時の汽車では客席は窓をあけていたから、ここを通過する時、異臭が否応もなく飛び込んでくる。 政府の高官から文句が入った。そんな訳で屠場は移転を余儀なくされて、東京ガスのタンクが誕生したのである。

 どんな臭いだったのか、想像するしかないが、東海道線の『吉原』を通過する時に大昭和製紙の工場からの臭いが入ってくる。 あれよりも酷かったのか。新幹線が出来てからは吉原を通らないから今でも臭っているのか分からないが……。

 さて、6月29日に結果が分かると書いたせいで、7月に入ったら何人かの方から、 結果はどうだったのかのお便りを頂いた。カミさんも結果を書くのは仕方ないけど、 予告めいたことは書くことはないでしょう、と言う。確かにその通りで、反省をしている。

 その結果だが、29日に消化器科に赴くと、胃カメラの所見は、静脈瘤が見られるが出血は見られない。 これは肝臓の傷害によって、時には出来るが特別問題ない。腸の方には、ポリープが5個ほどあり、 その中の一つが触ると出血しやすい状態だから、今のうちに内視鏡で切った方が良い。これも一般論だけど……。

「先生、放置したらどうなります?」
「そうねぇ個人差があるからなんとも言えないが、切るのなら早い方がいい」
 そう言いながら、膀胱癌のドクターから回ってきた、CTの画像を診ているうちに、
「ポリープなんかの問題じゃないね。こっちの方が問題だ」
と言いながら、造影剤を入れてのCTの検査を翌日の30日にすることになった。 午後からは透析が入っているので、朝の9時から予約を取ってくれた。

 その結果が7月13日に判明した。
 それによると、肝臓に癌が多発しているので、入院して治療する必要かあるという診断だった。 方法はカテーテルを足部から肝臓に通し、パイプを埋め込んで抗癌剤を定期的に投入する。 透析をやっている身にとって、これはきつい。それでなくても、足腰が弱っているから、一週間も病院につかまったら、 それこそ寝たきりになる。

 それに思い浮かぶのは、結腸癌で亡くなったおふくろのことだ。医者にこのまま放置したら、半年の命。 手術をすれば3年以上持つね。と言われて選んだのが手術だった。ところが1年半寝たきりになって亡くなってしまった。 痛い、つらい思いをさせただけと今でも悔やんでいる。

 以前とは違って手術も長足の進歩を遂げているのは分かっているが、 静観しながらこのまま癌の進行とともに生きてみようと覚悟している。 それが半年なのか1年先になるのか神のみぞ知るである。

 そんな訳で、この『風の便り』も定期的に出すのは難しくなった。お許し下さい。

06/7.23

 城井友治


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