「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2003年01月24日[掲載]


〔 風の便り66 〕

 ついこの間、新世紀新世紀と騒いでいた筈なのに、カレンダーの数字は、二〇〇三と平成十五年になっている。

 去年の暮れ、いつものように片付け事をしていたら、娘の物だろうと思うが、花模様のついた小さなノートが出て来た。(待てよ、カミさん若かりし頃のものかな?)著名な芸術家の言葉が綴られていた。その中の一つにこんなのがあった。

        寝床につくとき
         翌朝起きることを
        楽しみにしている人は
         幸福である   (ヒルティ)

 最近こんな心境になることはまずないから、若い頃は明日があって、それが楽しみであったのだろうと思う。老人の今は、朝目覚めた時、ああ、今日も生きていたと思うことがしばしばである。正月早々縁起でもないと笑われるかも知れないが、本当の話だ。

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 前回『たそがれ清兵衛』を見た時、入りが悪いのは残念だと書いたが、尻上がりに観客は増えて、松竹もこの手のものを三作作るらしいと映画通の友人が教えてくれた。「藤沢周平と山田洋次」の新しい展開が見られるのは楽しみだ。清兵衛は新選組の隊員だったのですかと質問した方がいたので、少し説明をしましょう。幕末の志士清川八郎が、徳川家茂が上洛に際して、これを警護する隊員を募ったらという建議が幕府に承認された。腕に覚えの浪人や多額の支度金、それに武士に取り立てられるという噂で、多くの郷士も中にいた。最初五十人ぐらいの予定だったが、二百人を越える応募者があった。支度金も十分の一に減らされたが、食いぱぐれがないことでみんな京都へついて行った。

 京都へ着いた途端、清川八郎は全員の前で、「諸君は、徳川将軍を護るためではなく、勤王の志士として活躍して貰う」と演説をぶち上げた。驚いたのは幕府側、とんでもないことをと、すぐ江戸へ帰す算段を指示する。「生麦事件」が起き、江戸市中が不穏であるからというのが理由だった。

 再び江戸へ戻ることになったが、戻りたくない連中がいた。それは郷里を出る時に、侍になって来ると多くの村人の期待に答えて参加した近藤勇などの郷士たちと、江戸へ帰っても仕方がないという水戸藩の脱藩浪士たちだった。これが会津藩の京都守護職の傘下に入り、新選組となる。一方江戸へ戻ったグループは、江戸市中警備の庄内藩の下で新徴組として働く。清川八郎はしばらくして暗殺されてしまう。徳川慶喜が大政奉還した時に、庄内藩は幕府に頼まれて、新徴組の隊員を庄内に連れ帰る。小太刀の使い手清兵衛がいたとしたら、この新徴組の方で新選組とは関係がない。ということです。

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 世の中には色んな人もいるものです。

「近頃けしからんことが多い。あのなんとかいうカードの切符。(イオカード、スイカのことを言っているらしい)あんなのが出てきたせいで、すっかり上がったりだ」

 横浜駅西口の出札口近くの柱に寄り掛かって呟く男がいた。

 彼は朝のラッシュアワーに出勤する。通勤の場所はその出札口の柱の陰だ。狙い目は和服姿のオバさん。ずらっと並んだ切符売り場。オバさんはせかせかとお金を入れる。急いでいるから、百円玉がころりとこぼれる。しかし拾っていることが出来ない。何列にも並んでいる足許に転がったものを、大きなお尻をかがめて取りに行くのは無理だ。うっかり行こうものなら、後ろの人が途中からお金を入れてしまうかも知れない。それで横目で恨みがましく拾わずに新たにお金を入れて切符を買い、電車に乗ってしまう。その転がったお金が彼の収入。時々彼の方に転がってくるのもあるらしい。それは靴で押さえて知らん顔。ラッシュが終わると仕事も終わり。転がって来た百円玉を拾っても、「やぁ、悪いね。有難う」と相手は手を出すからだ。

 それで次ぎなるところに行く。自動販売機。あれは缶だったら百二十円が相場だが、たまに百十円のがある。それがどこだか教えてくれなかった。私に先を越されてしまうとでも思ったのか。たかが十円と思うだろうが馬鹿にならないそうだ。

「一つだけ美味しいところがあるんだ」
「ふーん、どこ?」
「山手外人墓地の入り口の近くにある自動販売機。あすこは、道と段差がある上に、どういう訳かお釣の受け皿が奥に傾いているらしい。盛装したお嬢さんが、立ったままではどうしても取り難い。面倒臭いからお釣の額を確かめずに行ってしまう」

 千円札なんか使うと必ず百円は残っていると言う。

 ATMをぶっ壊して、何百万、何千万と盗む奴がいると思えば、こういうささやかなお金を生活のたしにして生きている人もいる。

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 糖尿病があると、なんの病気でも治り難いと聞いていたが、今度ばかりは身に染みた。大晦日、例年のように窓の外から聞こえる除夜の汽笛に耳を傾けていた。空き地という空き地に家がたったせいか、それとも船の数が少なかったのか、汽笛は微かにしか聞こえて来ない。ぞくぞくっと寒気がした。それが始まりで、立っているのが辛くなった。別に熱が高い訳でもないのに、食欲が起きない。うまいお酒があるのに、猪口でひと口飲んだだけ。年越しそばも箸が進まない。

 そんな調子で元旦、二日、三日と過ごしてしまった。二日から鶴見駅ビルの店は開いている。毎年欠かしたことのない年頭の挨拶にも行けなかった。店の方は次世代がやってくれているので、年頭の挨拶も私に代ってやってくれているに違いない。どこのデパートやスーパーも二日からあけている。つられて駅ビルも休むのは元旦だけになってしまった。せめて三が日はゆっくり休んで英気を養い、四日から新年! なら分かるが、いつもあすこがやるから、うちでもやる。もういい加減に、よそはよそと割り切っていけないものかと思うがどうにもならない。

 生鮮食料品や洋菓子を扱っていると、二日から商売が始まるために、現場では元旦から出勤する。誰だって正月ぐらい休みたいから、人集めに苦労する。片方では大型連休とマスコミが騒いでいるのに、禄に休みも取れない事業体に有為な人材が集まる筈がない。

 そんなことをぼやきながら、五日まで寝たり起きたり。寝間着でいると病人臭いので、朝一応着替える。医者から貰った薬は飲んでしまったから、市販のもので我慢する。風邪薬は休息をとるために眠くなるように作られている。食後、横たわっているといつの間にか眠っていた。毎日こんなことを繰り返していたが、全然良くならない。食べないと気力が出てこないと、無理に食べるようにした。シャツがまくれている訳でもないのに、背中がスースーする。ホカロンを腰に貼る。一枚重ね着をしたようで快適だった。だったと言うのは起きていた時で、貼ったままベッドに転がったら腰に火がついたようだ。熱くて仰向けに寝ていられない。仕方なく横向きになる。右を下に出来ない。それは何十年も前に気胸をやった後遺症で、右下にして横になると今でも呼吸が苦しくなる。だから左下でうたたねになる。ところがそれが不自然なのだろう。いつの間にか仰向けになる。途端にアッチチと目が覚める。まるでカチカチ山のタヌキだ。

 またそんないい加減なことを書きやがってと思う人は、ホカロンを貼って寝てごらんなさい、分かるから。

 ◆

 テレビ放送が始まって五十年だそうだ。もう五十年たったのかと懐かしい。昭和二十八年(一九五三)出来上がったばかりの麹町の日本テレビの社屋の中をいそいそと歩いていた。入口を入ると、すぐガラス張りの廊下があって、中庭が見えた。保護材のついたままの大きな松の木、そこには植え付けたばかりの芝生が、矩形に並んでいた。見とれていると、奥の方から足許もおぼつかなげに歩いてくる長身の男の人がいた。正力松太郎さんだった。私が挨拶をすると、気安く「やぁ」と言い、私が庭を見ていたのを知っていたのか、ご自分でも庭に目をやり、微笑を浮かべた。

 その頃、私たちのラジオを書いていた仲間は、テレビ時代が来ることを予測して、それぞれが勉強を始めていたが、走査線がどうのこうのという技術的な文献が多くて、肝心のテレビドラマの書き方などは、目に付かなかった。日比谷にあったCIEの図書館を覗いても、英語が読めないに等しいから一向に能率があがらない。それでも他の人よりは知っているというので、日本テレビに集められた。試験放送をするための番組の編成。アメリカから取り寄せたのだろう分厚いマニュアル本。そんなものが今記憶によみがえってくる。

 正式な社員になった訳ではなかったが、新入社員を連れて方々歩き回った。「日本の伝統を見る」とか言って、鍼灸を取り上げたらと、飯田橋か市ヶ谷のお灸の治療所に行った。若い女の人のお腹をテレビ画面に写すというスケベエ気分の企画だったが、案に相違して爺さん婆さんばかりなのにがっくりした。その癖、顔は皺くちゃなのに、お腹はすべすべしていたのに驚いた。顔だけ女の子にすげ替えるかなんてことを考えたが、それをやっていたら、偽装表示の元祖になっていたナ。結局取材に行った先々で、取材に応じたらテレビを一台くれるのか、などと言われる始末。当時のテレビは一台何十万もして、とても一般家庭で買えるようなものではなかった。

 もうあれから五十年たったのか。開局を手伝っただけで、社員にもならずに作家の道を選んで挫折する。もしテレビ局の仕事をずうっと続けてやっていたら、「テレビ五十年史」でも書けただろうが、思い出すのは、正力松太郎さんと庭の松の木ぐらいしかない。

 ◆

 神奈川県警察本部運転免許本部免許課から「高齢者講習のお知らせ」が届いた。

 去年、東京都で受験したという友人の坂本圭次郎君から講習結果のFAXが来ている。それを見ると、実地試験まがいのこともやるようだ。勿論シミュレーションなのだろうが、あんまり嬉しいことではない。

 七十を過ぎると、運転免許の書き換えには、この講習を受けることが義務づけられた。統計によると老齢者の事故が急速に増えているという結果が出ている。

 実際自分で運転していても、運動神経がにぶくなっているのを感じる。ことにバックが下手になった。スーパーの駐車場でも一遍ですっと入れなくて、二度三度とハンドルを切る自分がはがゆい。

 昔、後楽園遊園地へ子供たちを連れて行って、駐車場の空いていた狭いところにすっと入れて、係のおじさんに感心された。

「お客さん、うまいもんですな。……でも、どうやって出ますか?」
 両側ともぎりぎりで、ドアを開けても人間が出られる空間はなかった。
 夢のような話だ。

 坂本君の総合評価は「4」で、やや優れているジャンルに入る。これは三十代から五十代の運動神経ということらしい。この年代は一番の働き盛りで気力体力が充実していた時だ。彼はそのことを知らしめたかったのだろう。まぁまぁ、彼の車に乗せて貰っても安心ということだろうか。

 自動車学校に予約してくれということなので、申し込んだら早くてこの二十七日だと言う。その結果は次回報告することにしよう。

 03/01.11  

  城井友治


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