「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2003年04月13日[掲載]


〔 風の便り69 〕

 今回はどうも気が進まない。毎日毎日イラクの戦争のニュースがテレビの画面を占める。 見ていて気がめいる。戦争のニュースを見る度に、艦載機に銃撃され逃げ回ったことや、 焼夷弾が降りそそぐ真っ赤な炎の空を思い浮かべる。 戦争を体験している世代は、民間人が3人、5人死んだとでかでかと報道されると、 戦争しているのだったら当たり前のことじゃないかと思ってしまう。 戦争では民間も軍隊もない。 様々な兵器が開発されて、軍事施設に集中して爆撃が可能らしいが、それだって完璧なものではない。 近くに学校があれば、そこに爆弾がそれることもある。泣き叫ぶ少女。死体にとりすがる母親。 誰の目にも悲惨に写る。それが家庭の画面に写し出されれば、誰だって戦争反対! と叫びたくなる。 戦争は人間と人間が殺し合うことで、人道的な配慮をした戦争なんてある筈はない。 残酷なことが当り前になるのが戦争なのだ。

 「戦場のピアニスト」という映画を見た方はご存じと思うが、 ドイツ兵がいかに残虐な行為をしたか。人間を狂気に走らせるのが戦争だ。 アメリカがいいとか悪いとか一概に言えない。イラクはどうだ。 10年前、湾岸戦争の時、イラクは隣国になにをしたか。

 私の知識は新聞、TVから得たものだから、本当のところは分らない。 ハイテクの戦争でもあるが、情報戦でもある。 今マスコミに従事している人たちは、戦争を知らない世代だ。 だから、「これは絨毯爆撃です」なんてアナウンスをする。 市街地がすべて瓦礫に化したのかと思うと、立派な建物が残っている。 激しい爆弾投下なんだろうが、絨毯爆撃はそんな生易しいものではなかった。

 現在の時点で、アメリカはやっきとなって、大量破壊兵器の存在を探している。 国連の査察団がようやく発見したのが、60個。一般的に公開されていたミサイルの数は100 余個。 あれから10年たった今でもその数は多くなってはいても、少ないとは考えられない。 中国のミサイル。ミグ戦闘機はソ連邦のものだ。 フランスはイラクの油田が自国の石油資源の基礎になっている。ロシアは世界第2の産油国でもある。 石油供給のバランスが崩れれば誰が利するのだろうか。 それぞれが自国の経済を考えながら外交を展開している。

 イラク戦争は、キリスト教とイスラム教の宗教戦争だからそう簡単には終らないと言う人がいた。 サダム・フセインはイスラム教の危機を訴え、中東諸国の協力を促している。

 すべては無謀なテロから始まっている。 それを忘れては困る。 戦争で費消される膨大な戦費を貧しい恵まれない国、人々に使ったらどんなにいいだろう。

 一刻も早く戦争が終結することを願ってやまない。

◆    ◆

 暗いニュースが続くせいか、スポーツ新聞でもないのに、 毎日のように大リーグ入りした松井秀樹選手の一挙手一投足が賑々しく報じられている。 天下のNHKも松井のことずうっと追い続けている。 ニュース価値を認めてのことだろうが、 世の中野球ファンばかりでないのだから少しは自重できないものか。 それより静かに見守ってやった方が、松井のためではないのか。 一人のスポーツ選手が、マスコミの寵児となっている姿が痛々しい。 頂点はいつまでも続くものではない。 でも、お陰様で大リーグが余計に見られるようになったのは、大リーグファンとしては有難いが……。

◆    ◆

 先月の末に大貫照男さんご夫妻と鎌倉に行った。 これは気が向いた時に、それぞれの都合をやりくりして歩く小さな旅である。 鎌倉33ケ所の古寺を巡るのだが、お寺の多い鎌倉には、 この33ケ所に入らないお寺がいっぱいある。 去年の秋に行った時のことは前に書いたが、春と秋だから同じところを歩いても、 花の景色で違って見える。

 今回は丁度花の時期、歩く方向も八幡様近辺の予定だから、段葛を通った。 両側の桜並木は五分咲き。月末でも月曜のせいか人通りも少なかった。 つるされた提灯は白一色に統一されていた。夜になって灯がともされればさぞ綺麗だろう。

 八幡様の本殿は改修工事で階段を上がれなかった。情けないかな、有難かった。 昔はなんともなかったが、今はきつい。 お寺はどこでも拝殿までに石段を上がるのが普通。 これが駄目になったらお寺巡りは出来ない。 そのうち小さな壺に入って、自分の足でなく、誰かの手で運び込まれるに違いないが……。

 八幡様の横をぬけて「ぼたん園」をのぞく。 藁づとではなくぼたんの上には唐傘がさしてあった。 ぼたんの赤、傘の白、まだ花芽のかたい桜、澱んだ池とそれなりの風情があった。 来迎寺に向かう。来迎寺は二つあるんだと大貫さんは言う。 大貫さん夫妻は坂東33ケ所巡りも終えて、私たちのために案内役をかってくれている。 先輩にそんなことを押しつけているのは申し訳ないと思いつつ後をついて行く。

 来迎寺というと思い出すのは、伊勢の松坂にある来迎寺だ。 ここを拝観していた時、朱印を貰うのに社務所を覗くと、 びっくりするほどの美人のご婦人がいらした。
「遠くからいらしたのですか?」
「横浜から」
「あら、それはそれは、どうかお上がりになってお茶でも……」
 寒い時期だったので、掘炬燵がしつらえてあった。
「あのう、連れがいますので……」
「よろしいじゃございません? ここに参りますわ」
 にこっとした笑顔がなんともいえない。観音さまかぁ。

 あがり込んでお茶の接待に預かり、お寺の故事来歴をうかがっていた。 いっこうに現れないカミさんが心配になった。 立ち上がって窓から外を見ると、コートの襟をたてたカミさんが庭をうろうろしていた。

「オーイ! ここ、ここ」
 寒さで頬を赤くしたカミさんは、
「どこへ行ったのか心配しちゃった」
と、熱いお茶をすすりながらご婦人の手前静かだったが、外へ出たら、怒り心頭に発したのか、 膨れっ面をして口もきかなかった。

 まだ若い頃のことだ。今だったら先に帰ってしまったかも知れない。

 宝戒寺から寿福寺、海蔵寺と雪の下から扇谷を歩いた。 最後に浄光明寺をお参りして、小町へ戻った。日が長くなって5時近くになったがまだ明るい。 今朝五分咲きだった桜が帰りには七、八分咲きと満開に近い。 花は春を告げるために待っていたのだろうか。

◆   ◆

 4月2日は朝の9時から病院の眼科で眼底の検査。 先月半年ぶり行った時に、眼底の検査もしましょうと言われたが、 車を運転して来たので先に伸ばして貰った。診察室の前で待って、 なんの気なしにボードを見たら、人事異動で先生の交代が貼ってあった。 それも今日の異動である。毎回違う先生に診られることになった。 先生も緊張しているようでやたらと時間がかかっている。 一通り診て、緑内障の恐れがあるから次回視野検査をすると言う。 予約をいれるコンピューターを操作していたら、そばにいた看護士さんから、 それは違いますと訂正されていた。誠に頼りない。 大病院では一つの科に、あまり異動しない中心の医師とそのアシスタントのような医師がいる。 毎回医師が変わるのでは患者も不安である。 どの先生でも良いと思ったのが間違いだった。

 瞳孔を開く薬をつけると、視界がぼうっと霞んでしまう。 だから車の運転はさけるのだが、この日は午後から「シドモア桜の会」があって、 それに参加することになっていた。「シドモア桜の会」といっても知らない人が多いと思う。 それで横浜ペンクラブ副会長で、 この日も講演をなさった生出恵哉さんの名著「横浜山手外人墓地」から引用させて頂くと、

  “アメリカの首都ワシントンの名所といえば、大方の日本人の
  脳裏をかすめるのがポトマック河畔の桜である。この桜はその
  昔、当時東京市長であった尾崎行雄が日米友好の印に贈った苗
  木が成長したものであることは誰でも知っている。しかしワシ
  ントンに日本の桜を植えて東京の隅田川向島の桜のような名所
  にしようと提案したのは尾崎行雄でもなく、ほかの日本人でも
  なく、ジャーナリスト、エリザ・R・シドモアなのである”

 この「シドモア桜の会」の事務的なお手伝いをレストラン山手十番館の鶴井将幸さんがなさっている。 その案内文からまたまた引用させて頂くと、

  “日本の桜をこよなく愛したエリザ・R・シドモアさんは、母
  キャサリーン、兄ジョージ(元横浜総領事)と共に横浜外国人
  墓地に眠っています。兄妹そろって一生を独身で通したことか
  ら、シドモア家は途絶え、親日家であった一族の墓は、無縁の
  墓石となっています。平和を愛し、真の親日家であった心優し
  いシドモア女史の偉業を一人でも多くの皆様に知って頂く為に、
  シドモア桜の会を今年も開催いたします”

 満開のシドモア桜の下で墓前に一人一人が献花をし、「さくら」の歌を合唱した。 そして前述の生出さんの「ポトマックとひばり」と題する講演を聞いた。 美空ひばりがリサイタルでも一度しか歌わなかったという「ポトマックの桜」 という珍しい歌の披露もあった。生憎の雨模様、 十番館の庭園で山手の桜を見ながらの予定も変更になり、 パーティ会場は十番館の別館になった。 カーテンをあけると、庭園にある桜も、道を隔てた外国人墓地の傾斜にひろがる桜も満開だった。 花を開いたばかりのせいか、雨に濡れても花びらは落ちてこなかった。

◆   ◆

 去年の10月末に申し込んだ「脳ドック」に入る日、4月4日がようやっとやって来た。 前々日に「横浜市脳神経医療センター」から確認の電話があった。 半年もたってのことなので忘れていてもいけないと思ったのだろう。 当日は食事をしないで8時半までに来るようにとのことだった。 さて、根岸駅からタクシーを拾ってもどのくらいかかるか見当がつかない。 早めに行けばいいと家を7時すぎに出た。 通勤時間のせいか、電車の本数も多く、連絡もよかったので一時間もかからず着いた。 病院の正面ドアはしまっていて、横の休日入り口から病院関係者と一緒に中に入った。 ホールは非常灯しかついていなくて薄暗い。  何故この「脳ドック」を受ける気になったのか。去年3回ほど、めまいに襲われた。

 一度は温泉場で、二度目は古書店で本を見ながら起きた。 そして三度目は家で……。ふうっと意識が遠のいて、立っていられない。 なにかに掴まりながら数分たつと、正常に戻る。 こういう経験は始めてなので、なにが原因なのか、脳に障害でも起きつつあるのか、 そのことを友人に話すと、 磯子区にある「横浜市脳血管医療センター」のパンフレットを送ってくれた。 週に二度、それも検査をするのは二人に限られているから、どうしても半年先になってしまうらしい。

 採血・血圧測定・採尿から始まって、心電図・頸部超音波検査・眼底カメラ。 胸部レントゲンを撮ったあと、MRIの画像診断。頭を輪切りにする機械で初体験。 耳栓をされたが、それでも物凄い音の響き。 頭は動かないよう固定されているが、動かしたい衝動にかられる。 動かせば画像がぶれて脳に障害があると思われたら困る。 そんな余計なことを考えたら駄目、駄目と言いきかせながら我慢し続けた。 機械的な診察はこれで終り、最後の心理検査の部屋に案内された。 ペーパーテストである。 これが問題。自信喪失の極み。残念ながら長くなるので、次回に報告することに致します。

03/4.10

 城井友治


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