「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2003年08月10日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<73>

  暑中お見舞申し上げます。

 病弱だったせいもあって、海と山とどちらが好きかと言われると、海と答えたものだ。あんな重たい荷物を背負って、山登りなんてとんでもない、気が知れない。

 ところが世の中便利になって、高山植物を見るのに近くまでバスで行ける。排気ガスが自然破壊をしている筈なのに、忘れてのこのこついて行った。野鳥を見るには湿地とか山といっても森の中で、ほとんど平地である。だから今までそう苦にならなかったが、7月の13日、14日に行った「伊吹山」には参った。「かたくり会」という仲間の例会だったが、山頂までバスで行ける高山植物の宝庫と聞いて参加した。送られて来る旅行社の資料を見ても、そんなに歩かずに花が見られると書いてある。インターネットで「伊吹山」の地図をプリントしたりして、浮ついた気分になっていた。山を知っている人だったら、山頂までバスが上る山なんて山でないと言うに決まっている。

 行って見て分ったのだが、山頂近くのバスターミナルでバスの客は下ろされた。日曜日だったせいか、停まっている車の多いのにびっくりした。さらに山頂に登る道に連なる人の波は、まるで初詣のそれのようにずらっと並んでいる。狭い道を上から降りてくる人たちがいた。みんな胸に旅行社のバッチをつけている。なるほど旅行社のパンフレットは嘘はついていない。山頂までの短い距離を歩き、頂上の近くに咲き乱れている花を見て、「はい、お時間です」と来た道を戻ってくるだけのことだ。私たちはツアー客でないから、すぐ戻って行く旅人を多少哀れんで眺めていた。

 頂上に上っておにぎりを食べ始めようとしたら雨が落ちて来た。標高は1377b。晴天ならば琵琶湖は一望、彦根の市街から比叡山まで見えると案内書には書いてあったが、雨雲がかかってなにも見えない。目の前のお花畑すら先の方は霞んでいる。傘をさしながら急いでおにぎりを腹に入れた。昔の旅のように、「天気だから出発すべえか」じゃない。一ト月も前から汽車の切符の手配、宿の予約をしているから、決められた日の天気はその時にならないと分らない。こうなると運である。

 今回はついていない。それも仕方がない。と、山を降りることになった。バスへ戻るものとばかり思っていたら、予約を入れた宿は、3合目にある「伊吹高原ホテル」。登った道と反対側を下るとは知らなかった。このあたりが山を知らない男の情けなさである。

 雨に濡れた坂道は滑る。小岩がごろごろ私はよろよろ。しまったと思ったがもう遅い。足の指を痛めているという仲間の若い女性が、「ダメ、ダメ杖は先に立てて」と後ろから叱咤激励。その時だけ言われた通りにするが、すぐ元に戻ってしまう。杖を先に立てると身体全体が坂の傾斜に吸い込まれてしまうような気がするのだ。一度お尻をつく。持ち上げてもらう。もうこの頃から左の腿の筋肉が突っ張って思うように動かない。むき出しの岩が雨の道を作っている。私のために前を行く仲間との間隔がどんどんあいてしまう。途中で待っていてくれる。追いつくと元気な女性が、一番前を歩くことをすすめてくれた。私のペースに合わせてくれる親切に感謝はしたが、後ろからついて行く方が気分は楽だ。曲がり角で土手のようになっている道に足をのばしたら、あッという間もなく滑った。路肩のような場所。ガードレールがある訳ではないから、草に足をのばしてふん張った。転がり落ちたらそのまま崖下。変な風に足をのばしたから自力では全然起きられない。後ろの女性が起こそうとするが、自分も重たい荷物を背負っているので、思うようにならない。「幹事さーん、助けて!」

 最後尾にいた幹事が飛んで来た。左側に回ってと頼み込んで、二人がかりで起こしてもらった。幹事さんは私のリックを抱えると、何も持たずにゆっくり行きましょうと声をかけてくれた。

 暫くすると、目的のホテルが見えて来た。「もう少しだ、ほら、あすこのホテル」

 まだあんなところまで行くのか。ゆとりのある人とない私との差。それに眼の錯覚なのか、ホテルに着くまでに、もう一度坂を上るように見えた。スキー用のリフトが動いているようにも見えた。あれに乗れればすぐつくな。リフトが動いている筈はなかった。私の願望を否定しては可哀そうと思ったのか、誰もはっきり返事をしなかった。

 今回は全く私の判断の甘さで、皆さんに迷惑をかけてしまった。

 翌日、一行は中山道の醒井宿に流れる川に咲く梅花藻を見に行くという。私はわがままを言って、一人で長浜行きのバスに乗った。長浜は始めて秀吉が城を築いたところ。一度は行って見たいと思っていたから、この機を逃す手はない。足は痛むがなんとかなる。

 駅で荷物をロッカーに預け、案内所でパンフレットをもらう。車で行く距離ではない。ここ長浜の城も再生されて歴史博物館になっていた。3階まではエレベーターで行けたが、天守閣へは階段を上ることになっている。秀吉の第二の〈ふるさと〉湖北が一望と景観のよさが書いてあったが、階段を昇る気力はない。どうせ外は曇り空、なんて自分に言い聞かせながら城を後にした。

 長浜の城下町は、秀吉が流通経済の町並み「楽市楽座」を作ったことで知られている。今その面影をとどめているのは、真宗大谷派『大通寺』の門前市だろう。北国街道をはさんで碁盤の目のように整然とした小路に、さまざまな店が軒を連ねている。まず『大通寺』の重要文化財の襖絵を見学と思って、廊下を歩いて拝観料を納める受付を覗くと誰もいなかった。廊下のはしで話し込んでいる老婆が二人いた。その一人が私を見て、あわてて受付の仕切りの中に入って行った。

 拝観料300円を払って見て回る。案内書のあざやかな印刷と違って、このままでは絵も消えてしまうのではないかと思われるような状態だった。私の他にはやはり旅人なのか男が一人見ているだけだった。出口へ差し掛かると、さっきの老婆がやはり同じように相手と座り込んでいて、「ありがとうございました」と言った。

 表参道を歩いて来たので、一本裏道に入る。さっきから気になる飯やの張り紙である。土地の人はなんでもないのだろうが、「焼き鯖そーめん」。「冷やそーめん」や「流しそーめん」なら何処にでもあるが、ちょっと見当がつかない。ここは名にしおう鯖街道の流れ道。鯖の棒寿司にも気がひかれたが、くたびれているせいか食欲もあまりない。一軒の店の暖簾をくぐった。

「お二階かカウンターになりますが」

 階段を上るのは勘弁してもらって、カウンターに腰掛ける。小料理屋風で地酒がずらりと並んでいた。

「あのう、その『焼き鯖そーめん』というのを……」
「定食にしますか?」
「そうですね」

と、メニューを見たら定食でも750円だった。それと「木の芽田楽」をとった。

 味付けした鯖がそーめんの上に乗っていた。そのタレでそーめんを和えてある。まるでタラコスパゲティの風味。そーめんというから、氷水に浮いている先入観があった。

 満足してまたぶらぶら歩いて駅へ戻った。長浜から米原。新幹線に乗ったら疲れがどっと出てきた。

◆ ◆ ◆

 いつだったか、眼医者でもらう点眼薬が気休めだと言う先生がいたと書いた。そしたら眼医者の学会で、やはり科学的根拠はないと正式に発表と新聞が報じていた。老人性白内障と言われてからずうっとカタリンという薬を一日4回まじめにつけてきた。良くなるのではなく、これ以上進行させない薬と言われていたから、そのつもりでいた。

 うちのカミさんも白内障と言われて薬をもらっていたが、眼医者が遠くなので近くの医者に行ったら、白内障ではないと言われた。ずいぶんいい加減ねと憤慨していたが、それを聞いて、どうなっているのかと不信感を抱いた。その癖聞くところによると、日本の眼科ほど進んでいる国はないそうである。となると、やはり今まで点けていた目薬は気休めだったのか。

 しかし、ちょっと待ってくれ。気休めも診療の一つではないのか。なんでもかんでも科学的根拠で処理するのでなく、本人も納得して目薬をつけているのならそれでいいのではないのか。白内障に限らず、癌の告知にしてもそうだ。最近は治療に専念出来るからと告知が増えてきた。今までは人によって告知の配慮がされて来たが、告知が多くなると、それが当り前になる。そしてその配慮が希薄になってくるような気がする。気休めも人によっては必要だと思うが……。

 白内障は手術でよくなると、私の周囲でも手術をした人が何人もいる。みんなこんなにも色があざやかだったのかと感動して語る。結構なことである。

◆ ◆ ◆

 落書きが問題になっている。醜悪で見苦しい。どうして掴まらないのだろうか。公共施設の落書きを消す費用は、税金を使っているのだろう。書いた奴にその費用を負担させているのだろうか。ただ軽犯罪で罰しているだけだったら、いつになっても消えることはない。

◆ ◆ ◆

 父母の回忌で、7月20日と21日酒田に行っていた。これが自分で出来る最後の母の17回忌、父の27回忌と思っている。回忌のたびに泊まるところが温海だったり、湯野浜だったりしていたが、今回は湯田川温泉の九兵ヱ旅館にした。丁度改装が終ったあとだった。バリアフリーになっていて、旅館でありながらホテルのような扱いになっていた。冷蔵庫はあるが、中にはなにも入っていない。自動販売機で好きなものを求め、使うのはまるでビジネスホテルなみだが、この方が私なんかには気楽でいい。仲居さんも来ない。温泉は良かったし、また料理が素晴らしかった。

 ところが、ちょっとした行き違いがあって慌てた。汽車の切符の手配をする前に、7月の連休でもあるので、早めに旅館に概算人数で予約のFAXをいれておいた。人数が確定し次第また連絡します。一週間ぐらい前になって、人数は何人で何時頃到着とFAXをいれたら、すぐ電話がかかって来て、予約は入っていないと言う。

 またあらためて連絡するとおっしゃったきり、なんとも連絡がないので、キャンセルなさったと思った。冗談じゃない。人数が決まったらもう一度連絡すると言った筈。こうなると水掛け論になってしまう。なにしろ今更よそへ予約をいれても、連休の一週間前では空いているところはないだろう。私の方でも口が足りなかったが、旅館側でも気がついたらしく、なんとか一部屋を都合をつけてくれ、もう一部屋は別館の方になった。私の妹たちだったから我慢してもらって事なきを得た。旅館も気を使ってくれ、帰りに羽黒山に行きたいと言ったらバスで送ってくれた。同じ道を通るよりは、帰りは新庄に抜けて、山形新幹線で帰ることにした。これがまた難儀だった。陸羽西線が酒田近くで集中豪雨に見舞われたとかで、徐行運転。それに単線だから駅での待合わせ。新庄に着いた時には約一時間遅れてしまった。目指す新幹線はとうの昔に出たあとだった。ついてない旅もある。

03/8.10

 城井友治


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