「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2003年09月13日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<74>

 ゴルフにエイジシュウターというのがある。ゴルフに縁のない方に説明すると、自分の歳でワンラウンドを回ることを言う。ワンラウンドは18ホールあって、パーの数は72が普通である。だから72才の人がパーの数で回る。これは至難の技だ。40、50でパープレイをする人は何人もいる。だが齢70を越えると、球は飛ばなくなるし集中力は衰える。それが達成出来たら大変名誉なことだ。40年以上もゴルフをやっていても、ホールインワンが一度もないのだから、腕の方は推して知るべしだ。胸を病んでから、片肺しか機能していない身体になってしまった。それでゴルフは止めた。

 なぜこんなことを持ち出したのかと言うと、この便りが前号で73回を数えた時に、ふと、40回頃にあと何回出せるか、自分の歳まで出せたらいいなと考えたのを思い出したからである。

 ゴルフと違って技倆とは関係ないよしなし事を書くだけだから、元気でいればその時が来るのは当り前だろうが、段々と書くことが雑になって、読まされる方もいい迷惑なのではないかと思ったりしている。紙の無駄使いゴミを増やしているのかも知れない。そう言えば、今横浜市ではG30という運動をやっている。ゴミの集積所にある掲示板にでかでかと張り紙がしてある。Gはゴミ、減量、30l削減。のスローガンらしい。だが、私にはそう見えない。「ジイさんゼロ」早くいなくなれ! 僻みぽくなった。

◆    ◆

 近ごろに始ったことではないが、物忘れがとみにひどくなっている。二階になにかを取りに上ったのに、着いた途端になにを取りに来たのか思い出せなくて立ち往生する。階段を数段降りかけて思い出し、忘れてはいけないと、用件を呟きながら部屋に戻る。誰もいないからいいが、見ている人がいたらなんと思うだろう。

 テレビ開局50周年とかで、昔の映画をやってくれている。懐かしさで観るが、主役の大河内伝次郎とか、嵐寛寿郎、長谷川一夫などは抵抗なく名前が出てくるが、脇役の名優たちの名前が出てこない。そばにいたカミさんに訊くが、「さぁ?」と言ったきり、返事がない。映画が終ってお茶を飲んでいる時に、突然、「清水将夫じゃない!」

 映画のことは忘れていたのに、何事かとびっくりする。

 友人が電話をかけて来た時に、その話をすると、嬉しそうに笑い声を立てて、

「お前んとこでもそうか。実を言うと俺のとこじゃ喧嘩さ。そんなことも思い出せないのかって! ハハハ。ところで長谷川一夫なぁ、顔に傷があったら長谷川だけど、無傷のころは林長二郎だぜ」

 相手もつまらないことを覚えている。

◆    ◆

 ある日のこと、カミさんが私の顔をしげしげ見て、
「ちょっとそのお茶飲むの早いんではありません?」

 毎朝私は起きるとすぐアガリスクを飲んでいた。この頃は起き抜けにひと口お茶を飲むことにしている。仏壇に供えるついでである。朝食の時に飲むよりは、空腹の一服が身体にしみ渡る。なにが早いもんか。朝一番で飲むからいいのだ。

 私がぷーっと膨れているのを見て、カミさんは、
「あのう、そのお茶、仏壇に上げるので、あなたのは台所に置きっぱなしですが……」

 思わずお茶を吹いた。朝刊が飛沫で濡れた。カミさんは、お茶を飲むのが早いと言ったのではなかった。仏壇のお茶を飲むのは早いと言っていたのだった。仏壇の中のおふくろの写真が、そろそろ来そうだの、と笑っているように見えた。

 こういう話は切りがない。同世代の仲間が集ると話題になるのは、ボケのことだ。誰もがボケたくないと真剣に思っている。長生きもいいが、ボケたら生きている甲斐がない。が、その近くまで来ているような気がする。

 二週間に一度近くの医院に薬を貰いに行く。待合室で順番を待っていた時のこと。いろいろと並んだパンフレットの中に、「痴ほう症と正しく向き合う」があった。著名な俳優さんの顔写真が載っている。さて、この俳優さんの名前が出てこない。パンフレットのどこかに書いてある筈と、広げてみたがどこにも名前が書いてない。パンフの制作会社のミスだななんて思いながら、父親の上原謙、母親の小桜葉子が記憶に浮かんでくるのに、肝腎の若大将の、そうだ若大将と言われていた。そこまで来るのだが思い出せない。うーんと考え込んでいると、アナウンスで私の名前が呼ばれた。途端、加山雄三の名前が頭の中から飛び出してきた。私の名前がカヤマでも、ユウゾーでもないのだが……。

 パンフレットの中に、「家族のための痴ほうを疑うチェックリスト」がある。どこの医院にも置いてある筈だから、ボケないうちに一度目を通してみたらどうでしょう。

◆    ◆

 例年八月には孫を連れて学習旅行をする。なんて言っているが、実際は老人二人では心細いのでガードマンよろしく連れて行くのだ。上高地で孫がいたことで助かった先例がある。今回は一番下の中学1年生に白羽の矢。後の2人は丁度高校と大学受験なので留守番だ。

 選んだコースは、JRのパンフレットで探した「縄文歴史の旅」。開通してまもない東北新幹線の二戸で待機しているバスに乗って、北国の縄文時代の旧跡を訪ねるというもの。一泊で十和田湖から八甲田。三内丸山遺跡を見て帰京。ちょっときついかなと思ったが、そんなに日数がとれないから申込んだ。丁度お盆前、企業の夏休みに入ろうという時期なので、申込みが殺到するかと懸念したが、二戸からバスに乗り込んだ客は、たったの5人だった。真っ赤に塗ったJRの大型観光バスに、客は我々と、大学生の若い女性の二人連れ。途中から乗る客でもあるかと思って訊くと、ガイドさんはこれで全員と言う。

 このコースは東北新幹線が八戸まで開通した記念に、8月1日から運行し始めたのだそうだ。生憎と冷夏で天候も悪いせいもあって、お客さんが2人の時もあったとか。普通の旅行会社だったら、参加人数が定員に達しないから中止。ほかの日を選んで下さい。なんて言われてしまうが、さすが旧国鉄の名残か、辛抱強い。

「はやて」は仙台を出ると、盛岡でその次が二戸だった。青森は何度か行っているが、一戸から九戸まである土地に下り立ったことはない。二戸の地名すら知らなかった。新幹線が停まることで町ぐるみがPRに乗り出している感じだった。

 最初に案内されたのが、九戸城址だった。残っているのは僅かばかりの城壁と堀跡だった。城は山の上に建てられるものと、平地に築造されるものとがある。ここのは平城だが、三方の川の流域を巧みに使った山城に匹敵する要塞堅固の見事な城だったようだ。

 土井晩翆が「荒城の月」を作詞したあと、ここを案内されて感動し、「荒城の月」の歌詞を書いて贈った。それが直筆のまま小さな碑になっている。青葉城のとは桁違いの大きさだが、この城址にはふさわしい。案内人はボランタリーの町の人、てきぱきと気持ちのよい解説だった。

 再び駅前に戻って、お昼の食事。旅行代金に入っているお仕着せである。駅前の雑穀茶屋「つぶっこまんま」に案内された。二戸は雑穀の故郷を標榜している。土地の名物料理が「五穀の膳」。低カロリー食として、これはいいと思ったが、果たして孫の口に合うかと心配になった。恐らくヒエやアワなどを食べるのは始めてだろう。縄文にちなんで考えたのだろう。昔は白いお米なんか食べられなくて、一般の人たちは、こうした雑穀を口にしていたんだ。そんなお説教をして、箸をつけたが、これが料理人の腕が良いのか実にうまい。デザートに「白玉ぜんざい」が出た。もちろん白玉はアワをついたものだった。

 孫にどうだったかと訊いたら、「美味しかったよ」。全然抵抗がなかった。「ぜんざい」でも残さないかと期待したが、それも綺麗に食べたようだった。

 旅をする喜びは、食べ物の善し悪しで決まる。なにか一つ、印象に残るものがあると思い出は楽しくなる。今度の二戸の旅も「つぶっこまんま」を忘れないだろう。

 バスのガイドさんに、こっそり「あれは一人前いくらだったの」と訊くと、躊っていたが、「1200円です」と教えてくれた。バス旅行のための特別料理なのか。メニューに「五穀らーめん」とか「五穀冷麺」があったが、どんなものかと、食べている人を覗いて見たが、良く分らなかった。五目が五穀に変ったものなのだろうか。

 人それぞれだから強制はしないが、あちらを旅する機会があったらテストしてみたら? 途中で乗る人もなく、バスは5人を乗せて走る。御所野遺跡、縄文時代墓地であったのではないかという環状配石遺構群。地元ではストーンサークルと名付けていた。どこにもボランタリーの解説者がいて、親切だったし、知ったかぶりに悩まされることもなかった。とりわけ私は御所野遺跡の竪穴住居跡が、単純な土盛りでないことに感心した。スケールの大きさから言ったら、三内丸山遺跡には及ばないが、約600 棟に住んでいたと思われる縄文人は、きっと豊かな生活をしていたのではないかと推測した。

 天台寺に寄る。ここは作家の瀬戸内寂聽さんが住職を勤めて、野外説法を始めたところ。住職をやめられてからも、月に一度説法のために来られるとか。寺に上る参道はゆるやかで、足に自信のない私でもついて行けた。気温がここは低いのか、道の両脇には、まだ紫陽花の花が残っていた。30年に一度ご開帳で見せたご本尊の聖観音像も、寂聽さんの発案でいつでも拝見できるようになったそうである。デパートの展覧会場で見せて貰えるよりは、ご本尊は本来あるべきところで見るのが本当だ。

 青森へ抜け、作者の希望でつくられたというこじんまりした「棟方志功美術館」に立ち寄り、すべては終った。

 ちょっと欲張り過ぎたようだった。孫が、「歴史はもういいや」と言ったのは、今回の旅のすべてを物語っているかも知れない。

◆    ◆

 先だって『宗教から見た食文化』というご案内を頂き、講演を聞きに行った。講演者は太田愛人さんで、野尻湖にあった教会で長年牧師さんをやっていたという方だった。長野だったかにステーキの美味しく食べさせる店があって、いつも開化ステーキというのをご馳走になったそうである。その開化ステーキには、必ずカレーがついていた。そんなお話をなさった。肝腎のお話の主題はすっかり忘れてしまったが、野尻湖とカレーの話が出て、懐かしく思い出すことがあった。

 野尻湖周辺の大地主に岡野繁蔵さんという方がいらした。この方が美術家や作家の人たちに、野尻湖の土地を格安に分譲するから来ないかと声をかけた。それが現在の「ふみの丘」と称する地域であった。私の学校の恩師演劇評論家の遠藤慎吾さん、劇作家の青江舜二郎さんも住民となり、山荘を建てられた。夏には信越放送に勤務していた仲間の高田全司君に声をかけ、先生方の山荘に遊びに行った。野尻湖のプライベイトビーチみたいなところで泳いだこともあった。

 私が昭和40年に横浜の鶴見の駅ビルに「とんかつむら井」という店を出店した時、一軒おいた隣りが、「サモワールおかの」というカレーの店だった。渋谷に本部があって、セントラルキッチンの工場から、各地の店に製品を配送していた。この頃にこうしたシステムを取り入れたのは珍しく、私たちも多店化をすすめるためには、参考にしなければならないことだった。岡野さんはカレーに目をつけ、工場で大量に製造して各店に石油缶に詰めて配送した。だからどの店でも味は均一だった。今だったら何も珍しいことではないが、踏み込んで実践した人だと印象が深かった。ある時、「ふみの丘」の創設者が「サモワールおかの」の経営者と同一人物と知って驚いた記憶がある。今はその店はない。

03/9.11

 城井友治


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