「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2003年10月18日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<75>

 久し振りに福中八郎さん(元フジテレビ・プロデューサー)から電話を貰った。 彼は晩婚だったせいもあって、去年か一昨年、娘さんがハワイで挙式した。 今、娘さん夫妻はカナダのトロントに住んでいる。

 時の流れは早いから、もう忘れてしまったかも知れないが、ニューヨークの大停電。 あの時、トロントも停電したとテレビで報じていた。 彼は心配して、通じる筈はないだろうと思いつつ電話をしたら、それが通じ受話器から娘さんの心細げな声が聞こえてきた。 真っ暗闇でなにがなんだか分らない。

「ラジオを聞いてないのか?」
「だって今仕事を終えて帰るところなの。
停電じゃエレベーターが動いていないだろうから、家に入ることもできない」

 娘さんはマンションの30階に住んでいる。階段をテクテク歩いて上るには30階は無理だ。 そこで停電はニューヨークから始って、とテレビで報じるままに教えてやったそうだ。 娘さんはびっくりしていた。地元の広報が知らせるのなら分る。 ところが太平洋を渡った遥か彼方の東洋の日本で、カナダの停電の状況が逐一分るなんて……。

 ニューヨークで電気がつき出したから、そっちもすぐつくよと教えると、

「どうしてニューヨークが先につくのよ!?」
 娘さんは憤然としていたそうな。

 停電で思い出すのは、イタリアの全域で停電騒ぎ。 新聞の報道では、イタリアは電力をフランスから供給を受けていると言う。本当ですか? とこれには驚いた。

 小さな国なら分らないでもないが、大国に入るだろうイタリアが、なんでフランスから電力を買っているのだろうか。 永遠に仲良くやっていけるものならいいが、互いに衝突したらどうなるのだろう。余計な心配かなぁ。

◆   ◆

 マスコミの過剰報道が問題になっている。確かにそういう面もある。 12歳の少年が幼稚園児を誘拐、殺害したと逮捕され、児童相談所に収容されていたが、 家裁の審判で少年を児童自立支援施設に送り保護処分にすると決まったと報道された。 最初はそういう施設に送るというだけの発表だった。 するとその次のニュースで、そういう施設は国に一つしかないから、さいたま市にある××だろう。 とテレビでは言っていた。余計なお節介である。 関係者が知っていればよいことで、そういう施設があると知れば充分である。 そのために、「長崎で事件を起こした少年はここに収容されている」などと静かな施設がある日から騒がしくなる。 なぜそこまで知らせる必要があるのだろうか。また、時々変なニュースが流れることがある。 詐欺か横領の犯人だったか、殺人犯だったか忘れたが、

「明日、警察では逮捕する予定です」

 犯人がテレビを見ていたら、どう思うか。周囲を囲まれて逃げることも不可能な状態なのか。 犯人は、「そうか明日来るのか」それならと証拠物件を処分するか、逃げてしまうね。 いずれは逮捕されるにしても何日かは自由の身だ。ばかばかしい。

◆   ◆

 毎日毎日、殺しのニュースでうんざりする。世の中変った変ったというが、これほど変ったこともあるまい。 果実や農作物の盗難が相次いでいる。今年は米が不作だと騒がれると、田舎のあちこちで米泥棒が増えている。 昔は食うに困って自分たちの食い扶持を盗んだものだが、今は違う。 農家の倉庫なんて鍵をかけているところは少ない。雨露をしのげれば良いからである。 鍵をつければ、窓ガラスを壊して中に忍び込む。 倉庫は母屋と離れているし、農作業で疲れてぐっすり眠っていると多少の音では目が覚めない。 音が聞こえても、うっかり起きて泥棒と鉢合わせしたら殺されるかも知れない。 身の安全を考えたら、じっと泥棒の去るのを待っている方が賢明である。

 しかし米一俵は30`もある。一人の人間の仕業ではないのだろう。私なんか今は一俵なんてとても担げない。

 一時期は自動現金支払い機が、ブルトーザーでぶっ壊されて盗まれることが多かった。 それが少し沙汰やみになったら農作物事件だ。田圃の半分を稲刈りをして盗んだ奴がいるという報道にはたまげた。 盗んだ奴の家に脱穀機があるのだろうか。農業に心得がある泥棒に違いない。 米作事情がそんなに切羽詰まっているとは思えないが……。

◆   ◆

 前にも書いたが、犯罪の刑罰が軽るすぎはしないか。危険運転致死の最高刑が15年だということだ。 千葉県松戸市で起きた飲酒運転で路上を歩く5人を死亡させた事件の判決である。

 交通事故は自分がいくら注意していても起きる。 追突されたり、相手がセンターラインをオーバーして突っ込んで来ることだってある。 私自身タクシーと衝突したことがある。わが家に帰る途中、バス通りだが道幅はそう広くない。 スピードが出せる道ではなかったが、ふいっと露地から荷物をかかえたおばさんが出て来た。 ぶつけてもいけないとハンドルを右に切った。丁度カーブにさしかかっていた。 タクシーの右と私の車の右がもろに当たった。 乗っていた車がリアエンジンだったから、ボンネットが大きく凹んだ割に衝撃は少なかった。 歩いているおばさんを巻き込まなくて助かったと思った。 一度そういう体験をするといやでもハンドルを握るのが慎重になる。

 アルコールが入って車を運転すると、ハンドルさばきが粗雑になる。 スピード感覚が薄れてしまうし、睡魔だって襲ってくる。事故を起こし易くなるのは当然である。 3年ぐらい前は、業務上過失致死罪の法定刑は最高でも5年以下だったらしい。 余りにも軽すぎるとして法律が改正され、危険運転致死という項目で最高刑が15年と決まった。 危険運転とは何か、正常な状態での運転でないことをさしているのだろう。 事故を起こした運転手は以前にも飲酒運転で行政処分を受けている。 その運転手が忘年会で泥酔し、居眠りをして路上の人たちを殺傷してしまった。 一瞬のうちに家族を失った人たちにしてみれば、15年ですんでしまうのか、とやりきれない思いをしたことだろう。

 殺人を犯してもよく懲役14年という判決を見る。これは人生50年の時代の判決ではないのか、 今は平均年齢80の時代である。50、60は鼻たれ小僧と言っている人もいるご時世だ。 本当に悪い奴には、それなりの罰を課すべきだと思う。 再度起こした事故の責任を取らせるのであれば、一人15年で、5人で75年ではどうなのだろう。

◆   ◆

 横浜郷土研究会会報97号に、事務局長の生出恵哉さんが「伊勢佐木町タコマホテルのこと」 と題する研究ノートをお書きになっていた。その書き出しを引用させてもらうと、

  太平洋戦争直後の伊勢佐木町4丁目の焼け跡に「タコマホテル」
  という名の外国人専用のホテルがあった。

 元毎日新聞の辣腕記者であった生出さんは、かねがね横浜開港の時代のことばかりでなく、 戦後の横浜での出来事や事物がどんどん分らなくなってゆく。 これを調べ直すことも必要だとおっしゃっている。 「タコマホテル」の関係者を見つけて話を聞いたのも、そういう観点からだろう。 私は、「タコマホテル」の名前よりも、そのあったという場所、伊勢佐木町4丁目に釘付けになった。 読みすすむと、4丁目の114番地とある。

 私は山形県酒田市だった本籍地を結婚した時に横浜へ移した。昭和30年(1955)のことである。 その本籍地が横浜市中区伊勢佐木町4丁目112番地。「タコマホテル」と2番地しか違わない。 記述によると根岸屋の並びのようだから、伊勢佐木町通りを挟んで向かい側のようだ。 私の家は、4丁目の角の「パール食堂」だった。 隣りが「黒猫」というバア。その隣りに大口から出店した和菓子屋の「青柳」で、 退店した後を電気製品の安売り「L商会」が入った。 真向かいの表通りは布地屋の「ヒツジヤ」その隣りが洋服屋の「玉木屋」だった。 その裏手に細い露地があった。そこに「タコマホテル」は面していたのだろう。 昭和25年に閉店したというから、私の義父が「敷島座」の跡地を借りて「パール食堂」を開店したのと前後している。 あの辺一帯は上郎さんの土地で、映画館の「オデオン座」の六崎さん一族が差配していた。 彰さん国親さんの名前を覚えている。

 私の義兄村井晋が存命だったら、あるいは「タコマホテル」のことを知っていたかも知れない。 「パール食堂」の二階でずうっと生活していたのだから。 当時の伊勢佐木町は横浜の最高の繁華街で、父も商売するなら伊勢佐木町での思いがあった。 空き地を買おうとしたが、売ってもらえなかった。コネがなかったのだ。そこに登場したのが「黒猫」の黒須さん。 この経緯を知るものはもう私しかいなくなった。書いておくべきことなのか。

◆   ◆

 9月の末から10月の9日まで入院していた。 9月19日の定期検査に行ったら、膀胱内にまた新しいポリープが出来ていると言われた。 このところ3年間発生がなかったのに、やっぱり出てきたか、という感じだった。 小さいうちに摘出した方がよいと、入院を指示された。 10月1日が手術日で、月末の2日間はレントゲンや心電図、採血と検査の方々を回るだけで、所在なかった。 なにしろ9時の消灯だから、これはつらいなと思ったが、雑草のごとき人種。 時間が来て電灯を消したら、すぐ眠ってしまった。順応性が高いのは、親に感謝しなければなるまい。

 手術の前日は、担当医師の状況説明やら手術のやり方についての懇切な話があった。 これは前回となんら変ることではなかったが、患者の人名の確認は以前よりも繁げくなっていた。 「あら、いらっしゃい。私まだいるのよ」と気さくな婦長さん(今は師長さんと言うらしい)が歓迎の挨拶。 入退院の時には必ず挨拶に回ってくる。午後には麻酔医が二人で見えて、問診と麻酔のやり方の説明。 チーフは女性の麻酔医で、私の脚を指で押しながら男性医に、 「ね、こうすれば、足のむくみの状態が分るでしょ」なんて教えていた。 なんだそんな常識的なことも教えなきゃならないのか。麻酔は下半身だけの腰椎麻酔。 手術はその日の3番目とかで、9時45分に手術室に呼ばれた。前回と違って、麻酔は手術室に入ってから打たれた。 部分麻酔だから目は見え、耳は聞こえる。キョロキョロする訳にはいかない。 目は閉じたままでいると、ひやっとするものが胸から腹へ動く。

「感じますか?」 
「えッ、なんかやってるんですか?」
 下腹部はもう感覚がない。
 手術室に入ってから1時間45分で手術は終った。

 その日はベッドに寝たまま、頭を上げ下げしないように注意される。寝返りはしてもいいと言う。 しかし、点滴と導尿管がつながっていると寝返りなんか打てない。じっと我慢していたら夜になって腰が痛くなった。 それで管のつながっている方へ横向きになった。反対側は管がとれそうな心配があったが、やってみた。 管が長めにつないであったのか、支障なく出来た。排尿の色を見て、導尿管は3日目にとれ、点滴もその翌日には終った。 至極順調だったのは、ポリープが小さかったからだった。8日に、やはり検査の結果、前回と同じ癌であることが分った。 もしかしたら異質のものかもしれないと懸念し、これから抗がん剤をやるかどうか検討したいとのことだった。 改めてやるとなると、週に一度、7回やるという。抗がん剤を投入せずに、またポリープが出たら削るということもある。 どちらにするか選んで下さいと先生はおっしゃった。

「もう歳だし、先生、後者を選びます」
 と答えたら、退院の許可がおりた。
「またいらっしゃいとは申しませんよ。でも、外来できちんと検査をうけていれば、簡単にすむのです。どうかお大事に……」

 師長さんの言葉を胸にたたき込んで、11日間の入院生活は終った。

 というような訳で、今月の旅は5度目の病院行きだった。

03/10.14

 城井友治


[「文学横浜の会」]

禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜