「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2004年4月18日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<81>

 早いもので今年も4分の1が過ぎた。 年々月日のたつのが駆け足をしているように思えてならない。

 高校野球が始ると、テレビに釘付けになるのは毎年の習慣である。 今年の選抜には神奈川勢が出ていないので、興味は半減しているが、 それでもスウィッチをいれてしまう。いつもは試合の始るのを見計らってテレビの前に座るのだが、 風邪気味でベッドにいたので入場行進から見ることになった。 思いがけないことに接して感動した。

 それは国歌「君が代」を独唱をした女子高校生の声の素晴らしさだった。 豊かな声量と品位のある声に聞き惚れた。もう一度聞きたいと思ったが、 選手宣誓は何度もニュースに出て来ても、国歌の独唱はたったの一度だけだった。

 その後アメリカ大リーグの日本開幕でも「君が代」は歌われたが、 プロの歌手からの歌声には感動を受けなかった。もう一度聞きたい思いでいるが、「 君が代」アレルギーの多いメディアからは、聞かせて貰える筈はない。はなはだ残念である。

 いつも聞かない役員さんの挨拶を耳にして、 ああ野球は勝つか負けるかの闘技なんだなと改めて思い知った。前後は覚えていないが、 たしか「見逃しはなんのプラスにもならないから、思い切ってやりなさい」 そんなことの意味を言ったような気がする。

 見逃しも人生、空振りも人生と思って見ている観客には過酷な表現だなと思った。

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 回転ドアの事故が150件近くも起きていたとは知らなかった。 私も月に2、3度みなとみらいのランドマークにある回転ドアを利用している。 昔の回転ドアは1人か2人入って、手で押したものだが、今のは触ってはいけない方式である。 表示はしてあっても、触る人がいて止まってしまい、私も、手を放して! と声を荒げたことがある。

 そんなに事故が起きていたのなら、なんとかならなかったものかと思うが、 いつものことながら死亡事故があって始めて問題になるのは困ったことだ。

 子供が挟まれる事故が多いのは、 狭い空間に入ってみたいという子供の本能がそうさせるような気がする。 メーカーでは、危険防止のためにセンサーを張り巡らせるが、そのために使用者は、 事故といえないものまで感じてしまうセンサーを緩める依頼をしたのではないだろうか。 これは司直の取り調べの結果を待つしかないので、早計な判断は出来ないが、 センサーが云々という記事を見ると、火災報知器のセンサーで振り回された経験があるからだ。

 まだ現役で店をやっていた頃の話。

 駅ビルが改装された時、不特定多数の人が集まる場所は年々様々な規制が実施されるようになった。 煙り感知器もその一つ。食堂街の一角に池が作られた。 そこに喫煙所のベンチが置かれ、来客がそこで一服する。見た目はすこぶる好いのだが、 タバコの煙で煙り感知器が作動し、火災報知の非常ベルが館内に鳴り響くから、 館内にいるお客さんはギョッとして気もそぞろである。

ビルの事務所にすっ飛んで行き、 どこで感知しているのか訊くと、六階のうちの店のところだと言う。 保安係は火を使っている場所だから、と疑いの眼を私に向ける。 自分の店が火事だったら、私がここにいますかと言うと、 それもそうだと保安係ともども感知器のある場所に向かった。 タバコの煙が一直線にあがる真上に感知器があった。タバコ好きのお客さんがプカプカやるたびに、 非常ベルが鳴った。度重なると、狼少年の例もある。肝心の時に役立たないと困る。 これは設計上のミスと分かって、ビル側で場所をかえたが、こんなバカバカしいこともある。

 メーカーは事故を防ぎたいために、センサーの感度を高めたい筈。 ちょっとの異常でも感知するように作っている。使用者の方では、やたらと止まったり、 入館者の苦情が多くなると、センサーに文句をつけたのではないのか。

 回転ドアのメーカーは、子供の身長の高さに注意をはらったのだろうが、 子供の好奇心を考えなかったのだろう。それと最近の親の感覚もだ。 子供が親の手を離れて、回転ドアに向かってすっ飛んで行く姿を見かける。 文明の機器に危険がともなうことの意識が弱い。歩道を歩いていてもそうだ。 車道側に平気で子供を連れている。子を守ることから言えば、 車道側には常に親がいるのが普通だろう。

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 あいつがどうした、どうもあいつは最近変だよ。 人の噂をするのも、聞くのも大好きであることは昔も今も変わらない。 週刊誌がプライバシー侵害で発刊停止になったが、すぐ東京高裁で解除の審査が下った。 どういう内容なのか読んだ訳ではないので、分からないが、停止処分が報じられると、 想像していた通り表現の自由の阻害とか言論の弾圧であると叫ぶ声が起こった。 識者という人が色々と意見を述べていたが、 あの人たちは発刊停止の雑誌を読んだ上の発言なんだろう。

 最近の週刊誌を全然読んでいないが、電車の中吊り広告を見ていると、 売らんかなの姿勢が強いことが知れる。記事を書くのは、社員以外の契約社員と称する人が多い。 あるいは持ち込み原稿である。社員はそれを選択することと責任を負うことが仕事だ。

 テレビの世界でも草創期はサスプロといって自主制作が殆どだった。 それが建築業を見習えとばかりに機構を変えていった。いわゆる下請け制度である。 採用してもらうためには、下請けは多くの犠牲を払っている。無駄な競争もする。 無神経な行動に出る者もいる。そのために随分と精神的な苦痛を受けた人のいることも知っている。 記事は大きく書いても訂正やお詫びの記事は小さな活字である。 今度の問題はプライバシーであるが、自制力が失われると、自分の首を締めることになりかねない。

 ところでテレビに写っていたプライバシー問題を起こした『週刊文春』の表紙を見ていたら、 綺麗な鳥が描かれていた。頭が黒く、喉が赤いのは、まぎれもなく「ウソ」である。 まさか内容も鳥の名前と同じではないんだろうな。

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 誰が言い出したのか知らないが、いつの間にか看護師という名称が横行している。 なんで看護婦じゃいけないのか。男性もいるので、その総称と言うのだろうか。 男性の場合は看護士と言っていた筈だ。看護婦さん、看護士さんでいい。

 最近医療ミスが色々と起こっているが、そんな記事の中に、女の看護師云々とあった。 女と書くくらいなら看護婦の方がよほど分かり安い。

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 同人雑誌の仲間、といっても私にとっては先輩だが、「茜」に高見順さんのことを書いている。 高見さんは一時期「鎌倉アカデミア」の文学科の教壇に立っておられた。 私は演劇科だったので、一度か二度しか講義をうけていないが、 記憶にあるのは雑誌に載せる原稿を持参され、読んで聞かせて学生の反応を見ておられた。 秋子夫人はアカデミアが潰れた後の会合にはしばしば出席されて元女子学生たちと活発に お話をしていた記憶がある。

 懐かしい思いで書庫から「高見順日記」をひっぱり出して拾い読みした。

 あれから何十年たったのか。つい先だって、行方は分かってはいたが、 手に入らなかった諸先生が寄稿された原稿を、 鎌倉市立中央図書館でブックレットにして「遥かなり鎌倉アカデミア」として出して下さった。 「鎌倉アカデミア資料保存会」というのが立ち上がって、私もお誘い受けたが、 光明寺に「鎌倉アカデミアここにありき」の記念碑の建立をお手伝いしたことですべて終わったと 思っていたのでお断りした。先輩に頑固だな、お前は。 と笑われたが、同級生の若林一郎君が参加してくれたので、彼にすべてをお頼みした。

 青江舜二郎先生が、三枝博音学長と学校の再建に飛び回っていたのは知っていたが、 その事情が明らかになった。私の思い違いもあった。

 「鎌倉アカデミア史」出したいと、 廃校後に「鎌倉アカデミアの会」を作った映画科の十時敬介君が、 光明寺で催された会合で提案した時、青江先生が廃校のあるがままの姿を記述しようと発言して、 十時君と対立した。彼は暗いことではなく、 夢のあった学校の記録として出したい。山口瞳さんの著作も入れたい。 などと話した。

その後何度か彼の経営する銀座の「サイセリア」で会合が持たれた。 演劇科からは一期生で俳優座の増見利清さん、二期生からは私。 その他に文学科、経営科(旧産業科)の人か何人かいたが、それが誰だったか。 私が欠席した時に、十時君が預金通帳を見せて、資金のことは心配ない。 と言っていたが、なんで通帳なんか見せたのかねぇと、 亡くなった増見利清さんが不思議そうな顔をしていたのを覚えている。

 その後は私も自分の仕事に追われて、連絡のないことをいいことに疎遠になった。 結局十時君が出すつもりでいた「鎌倉アカデミア史」は先生方の原稿と学生の原稿を集めたままで 頓挫してしまった。彼が目玉として企画した、 山口瞳さんの「小説・吉野秀雄先生」は出版元の『文藝春秋社』から著作権の許可が出なくて駄目に なったと聞いていたが真偽のほどは分からない。

十時君は様々なことに手を染めたりしたが、 どうもうまく行かなかったようだ。「鎌倉アカデミア史」の話が消えて行った頃、 鎌倉の地元で生まれた、「鎌倉市民アカデミア」という団体に、名称を使うのはけしからんとか、 前川清治さんが、「鎌倉アカデミア」という本を書くに当たって、 十時君のところに資料の提供を申し入れたが、それは自分が出す予定だからと、 けんもほろろに断られたそうである。 方々から、「鎌倉アカデミア」を私物化していると非難の声が上ったりした。

 鎌倉市立中央図書館の企画展が発端になって、「鎌倉アカデミア」が教育の原点だったと見直され、 後世の記録のために十時君の集めた資料の貸出しを頼んだが、 保管してある場所が差押えされていて動かすことが出来ないと断られた。 彼の死後、前述の会の人たちの努力でそのコピーが発見された。その上、 十時未亡人からの申し入れで、保管場所からの資料が図書館の方に寄贈された。 それを卒業生の服部博明さんがコンピュター処理をし、パソコンで検索出来るようになっているとか。 大変な作業だったろうと感謝している。

「鎌倉アカデミア」以外の友人に、君らは「アカデミアの亡霊にとり憑かれている」と笑われるが、 たしかに三枝博音学長が奔走されて転学した大学のことは印象になく、思い出すのは、 光明寺の本堂の畳の教室であり、大船のオンボロ校舎のグラウンドで野球をやり、 打った三枝学長が1塁に行かずに、3塁へ走ったことなどだ。 もう一度先生方に学びたいと思うのは私だけだろうか。

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 「天丼」。4月の入学シーズンが来ると思い出すのが「天丼」である。

 奇妙な取り合わせだが、今でも桜の花がちらちら舞い、 金ボタンの制服に身を固めた少年の姿を見ると、しばし感傷にひたってしまう。

 私の少年時代は、6年間の小学校を卒業すると、全員が中学へ行く訳ではなく、 そのまま家の仕事につくか、2年の高等科にすすみ就職するかであった。

 私の父は中学1年の時に、家が没落し、手に職をつける必要があって、 家具職人のところに修業に出された。自分が教育半ばであったせいか、 また貧乏を抜け出すには教育しかないと思っていたようで、教育には熱心だった。

 中学に合格した時、私の名前が新聞の地方版に載ったらしい。 父は勤め先の「立川飛行機」の工員仲間から聞かされ、驚き興奮して帰って来た。

「うちの新聞に載っていないといけないと思って、新聞貰って来た。 見ろ、お前の産んだ子が新聞に載っている」

 母はそれを見て、「お祝いをしないとのう」と言って顔を綻ばせた。

 連れて行ってくれたのが、駅前の蕎麦屋さんで、 そこで大きなエビが2本のった上天丼一つ注文した。

「お母さんは?」
「お前のお祝いじゃないか」

 母は私が夢中に食べるのを嬉しそうに眺めていた。二つとるお金がなかったのを、その時は知らなかった。

04/4.15

 城井友治


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