「文学横浜の会」
随筆(城井友治)
2004年6月13日[掲載]
〔 風の便り 〕ー残年記ー
<83>
またまた病気の話で恐縮です。元気な人は、いずれわが身のことと我慢して読んで下さい。同病の方はそういうもんかと思って……。
糖尿病の患者が日本全国にどれだけいるか知らないが、我々の年になると数値の高いのが自慢の種で話がはずむ。昔は、「俺は土地は持ってねぇが大ジ主だ」と威張っていたが、ウォシュレットという文明の利器が開発されてからは静かになった。
糖尿病は痛くも痒くもないから、うかつに過ごすことが多い。教育入院で一週間ほど病院生活をしていた時は、正常の数値に近く戻った。しかし、出てからひと月もすると、元のモクアミ。二言目にはもう先がないのだからと言いつつ旨いものによだれを流している。 麻雀仲間の一人は、麻雀をしながらパイがよく見えないとボヤいていたが、それが失明の始りだった。また、先輩が入院していると聞き、お見舞いに参上したら、
「君も糖尿があるんだろう。こういうことになるんだよ」
いずれにしてもこたえたが、暫くすると忘れてしまう。血糖値を測定する機械を買って、毎日計って記録していた。そのうち計るのが面倒になり、朝一度朝食前に計ると一日の状態が分かる。それも段々と遠のいていた。ある日久し振りに小指に針をさして計ると、えらく低い。計測機械の電池がなくなったのかと思った。もう長い間使っているから、さもありなんと電池を交換した。
翌日計ったらやはり50と低い。自分の身体の不調を考えずに、機械の故障を考えた。念のために、食後2時間たって計ったら、240だった。「あれ、壊れてないや」
晩飯前の空腹時にもう一度計った。そしたら59。定期検査で蛋白が出過ぎているから、と腎臓内科に回された。膀胱癌が主たる病気だが、専門医の先生の前のコンピューターに私のデーターはすべて出ている。先生はそれを見ながら、
「このまま進行すると透析になるね。糖尿病の薬はなにを飲んでるの?」
薬の話は曖昧になったが、これはおかしい。何故なら、この薬に換えたのは他ならぬこの病院なのだ。2年ほどまえに、糖尿病の教育入院とかで一週間病院暮らしをした。食事のコントロールが目的だった。今まで飲んでいた主治医の薬と違う薬が退院時に渡された。それがアマリールとメデットだ。
病院から帰って、主治医にこういう薬を貰ったと報告したら、先生は薬局に電話をかけて、薬の在庫があるかどうか確かめていた。それが記憶にある。腎臓に滞留して芳しくないのだったら、なぜ薬を換えるか、差し止めるかしないのだろう。
薬の効果を試されているようで不愉快である。病院の先生が交替すると、薬の処方も替わるのは頂けない。専門分野のせいか。前は糖尿病の専門医で、今度は腎臓内科の先生だからなのか。弊害があるならどうしてお互い話をしなのだろうか。患者から見た先生はとても信頼の置けそうな人柄だなと思うから、先生それは変ですとも言えない。
栄養相談で血糖値の数値を話すと、それは低血糖の恐れがあるから、寝る二時間前ぐらいにヨーグルトを一個食べたらという。それまでは間食が一切いけないことになっていたが、寝ているうちに低血糖を起こすと、そのまま死んでしまうと宣告された。
布団の上で、知らないうちに死ぬのもいいかなと思うが、安らかに死ねるのか、それとも七転八倒の揚げ句なのか誰も教えてくれないから困る。
そんなことで、またまた病院で食事の教育入院をする羽目になった。
昔、誰かが言っていたように、「この人は、入院しているか、旅に出ている人です」
◆ ◆
6月1日から2泊3日で、「熊野三山古道を歩く」という旅に出た。もちろんツアーにもぐり込んでのこと。まじめなツアーで、熊野古道の中辺路を歩くという。石段の上り下りには自信がない。それで許される限り、歩かないでバスの中にいることにした。そんな不真面目な客は私一人だった。それはそうだろう。古道を歩くのが目的でツアーに参加したのだろうから……。熊野古道が、この6月の末に「世界遺産」に登録されるからと大賑わいを見せている。それもこれも不景気で沈滞した観光地の起死回生になればとの地元の思いが働いている。
熊野古道と称される道のすべてが「世界遺産」になる訳ではない。古道がそのまま残っているのは、限られている。農道になったり、生活道路となってコンクリで舗装されているところは除外されている。だから熊野古道の標識はあっても、なんの変哲もない道をも歩くことになる。
熊野三山というが、これは三つの山がある訳ではない。お社が三つ、熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社をさす。ここに至る道は、高野山からの小辺路、田辺から別れる中辺路、海岸線を抜ける大辺路とある。辺路はへちと読む。僻地からきた言葉だそうな。このように幾つかの道はあるが、いずれも僻地を何十日もかけて歩く。信仰の賜物なんだろう。興味のある方は、これからPRのパンフレットが旅行社に沢山置かれることだろうから、それを取り寄せて見るといい。
初日は和歌山からバスで真っ直ぐ、藤白神社に向かう。ここの千手観音と菩薩像二体が素晴らしかった。「世界遺産」のためにそうしたのか、仏殿が改築されて、仏像と鼻付き合せて拝観できた。神官の説明に耳を傾けながら、素朴な石仏が多く集められているのを見ていると、古道のそこかしこに鎮座して旅人を見送っていたのだろうと思う。まるで道祖神のようであった。ガイドさんが突然この中に鈴木さんはいらっしゃいますか? と訊いた。何事かと思ったら、ここは鈴木姓のルーツなんだそうだ。今は見るも無残に朽ちている建物の前に、こんな表示があった。
鈴木屋敷
ここは、鈴木姓の元祖とされる藤白の鈴木氏が住んでいた
ここから日本全国へ鈴木姓が広まっていったのだそうだ。
藤白坂を上り、有間皇子の墓碑を見たが、この辺は舗装されているから、「世界遺産」からは外されている。バスに乗って、名にしおう和歌山の南高梅の梅林を眺める。口の中が酸っぱくなる不思議さ。今日泊まる「紀州南部ロイヤルホテル」のボーイさんが、海辺を走る熊野古道の案内をしてくれる。バスは展望台で待つというので、車中で待機することにした。海岸は遠くから眺めると、白砂に見えるが、ここは貝殻と小砂利の浜。そして展望台まで急な坂道である。見栄を張ったってしょうがない。
温泉につかって、湯上がりのビールを飲むと眠くなった。さすが良いホテル。料理もこっている。が、しかし糖尿病患者には毒ばかりである。毒を喰らわば皿までも、なんて言葉があったなと箸をつける。カミさんは言っても無駄と思うのか、黙っていた。
2日目はゆるい下り坂を3時間ほど歩くという。この位は付き合わないとまずい。
「熊野古道中辺路を語り部と歩く」というメーンイベントの一つ。その語り部さんの生家が、以前にやったNHKの朝の連続ドラマ「ほんまもん」だと言う。道すがらだというので案内される。入り口には銅版で「ほんまもんロケ地」と門柱が建っていた。玄関脇の窓には、ロケ風景をプリントしたロールカーテンがかけてあった。
発心王子門から昔ながらの道を歩く。残念ながら付いて行くのがやっとで次第に離されて行く。添乗員さんが気を使って我々に合わせて歩いてくれる。ゆるい坂と言っても山道である。遅い人が一番先頭にと言ってくれたが、後ろから追い立てられるようで、かえって疲れる。元に戻して貰った。すると前を行く連中の姿が消えるように見えなくなった。三人が熊野本宮大社に着いた時、皆の姿はなかった。添乗員が携帯で語り部と連絡。どうも一か所よそへ寄ったらしい。
こんな顛末で、一番古道らしい大門坂の石畳にたどりつき、熊野那智大社の那智の滝を見て、三山最後の熊野速玉大社で終わる。信仰の力のすざましさを実感したが、熊野三山は、貴族から庶民の信仰メッカとして多くの人たちの心の故郷だったのだろう。和泉式部が、「私はつきのさわりがあって、不浄でお参りできないない」というと、熊野はどんな人でも受けいれるところだと参拝を許したという。計算上和泉式部は60才ぐらいとか、人によっては80才とか。冗談じゃないと思うが、そういう大らかさが日本的でいい。
日本的と言えば、那智大社の主神はあの那智の滝だ。熊野速玉大社は近くの小山の山頂近くに社殿があったが、五百余段の石段を上って参拝する人の難儀を考えて、新しい宮を海岸近くに移した。この新宮の誕生が新宮市という地名の由来なんだそうだ。また仏教が伝来した時には、仏が神に化身して権現となったという。融通無碍とはこのことだろう。何でも神様にしてしまうし、仏様も取り込んでしまう。八百万の神とはよく言ったものだ。わが家にも山の神という立派な神様がいる。
◆ ◆
食べ物にまつわる想い出。 〔キミナゴ〕
昭和45(1970)年に厚木に工場を建てた。当時は従業員の確保が難しい時代だった。金の卵と言われ、高卒の生徒は引っ張りだこだった。大企業ならいざ知らず、中小企業の工場で働こうという意欲に満ちた生徒は少ない。飛び込みで求人しても相手にされない。それで大阪で会社経営をしていた江川英郎さんに相談したら、宮崎、鹿児島に知り合いの先生がいるからそこを回ってみたらと教えてくれた。単独で行くのでは費用もかかる。やはり人手で苦労していた建築資材の安田さん、京都で食品販売会社の藤原さん、神戸で加工食品をやっている梅田さんが一緒に行こうということになった。5つの会社なので5社会と名付けた。後で鹿児島の花木さんが参加したから実際は6社になったが……。
宮崎空港からレンタカーを運転しての求人の旅が始った。佐多岬の高校へ行く途中、その日の日程がつまって、どうしても夜になってしまう。大根占の海沿いにあった民宿のような旅館に泊まることにした。一人しかいない仲居さんが、張り切って手踊りまでして歓待してくれた。翌朝、お膳にキラキラ光る小魚があった。
「これ何?」 04/6.10
城井友治
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