「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2004年10月17日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<87>

 学校を定年になられて、教育相談の仕事につかれている方にお話をうかがった。イジメの問題は学童のことかと思っていたら、最近は主婦からの相談が圧倒的に多いのだそうだ。 おかあさんから子供のことの相談なら当り前のことだと思った。

 ところがそうではなくて、おかあさん自身が職場でイジメに合って、どうしたらいいか分からなくての相談らしい。
 パートの職場で、そんなことが起こっているなんて知らなかった。

 仕事が習熟出来なくて、中にはまともに相手にされないこともある。それがイジメという表現に当たるとは思えない。が、受ける方ではイジメとうつるようだ。人間だって動物なんだ。独り立ちしたら、自分で餌を取らなければならない。働くことはそうした厳しさに身をおくものの筈である。

 過保護の世界に育つと、叱られることが少ないから、ちょっとしたことでも相談するのだろう。

 14、5年前まではクラスの中に、必ず一人ぐらいは正義感に燃えた少年がいたそうである。先生も問題が起きると、彼に、「こういうことがあって困っている」と言うと、「分かりました」と、子供同志の話し合いで解決してくれるケースが多々あった。先生にも、「違いますよ、先生」と食ってかかる子もいた。後になってみると、なるほどと頷けることがあった。そういう子供は学校の成績はけっして良くはなかったが、頼りになる子だった。残念なことに、最近はそうした正義感のある少年はいなくなって、イジメをする者、される者、それを傍観するものと三つに別れているのだそうだ。

 ある日、二人の女性の話を聞いた。あと数か月で定年を迎えるご主人と、すでに夫婦共々定年でもっぱら家にいる。老後の夫婦の話で、男には耳の痛いことが多かった。そんなもんかなぁという思いがなくもない。

「主人があと四ケ月で定年になるんだけど、先輩のご意見を聞きたいわ」
 先輩とは言うが、それは結婚生活の話で、大体同年輩である。
「あなたのご主人がどんな趣味を持っているかによってね」
「うーむ、ゴルフぐらいかなぁ」

「あんたはやるの?」
「うん、すこし」
「一緒の趣味を持つのは必要ね」
「でもこの頃は、あたしなんかよりほかの人たちと行く方が多いわ」

「そうでしょうね。たまに一緒に行くだけでもいい方よ。 あたしの場合は、あっちが先に定年で、あたしが仕事を持っていたから、一日中顔を合わせる時間が少なかったけど、 あたしも定年になっちゃったら、毎日朝から晩まて顔を付き合わせているのが苦痛ね。 若い時は一日中そばにいたかったのに……。朝、昼、晩と食事の用意をするだけで、自分の時間がなくなってしまう。 相手は食べるだけじゃないの。〈まだか!〉なんて言われると腹が立って。自分でやったら! なんて言いたくなる。 今から教育することね。掃除洗濯、やって貰うことね。難しいことはないもの」

「やるような人ならいいけど……」
「なに言ってるのよ。やらせるのよ。あたしが先に逝ったらどうするの。あんたが先にとは限らないでしょう」

 熟女の話は尽きることがなく続く。どっちが先に逝くか、これは殺し文句である。
 二十年も前だったら、心配するな新しいのを貰うよ。と、憎まれ口をきくが、七十を過ぎて年金生活の凡人にはその元気がない。

 女房族の「亭主元気で留守がいい」とは誰が言ったか知らないが、うまい文句だ。
 遺産管理をやっていた友人が言っていた。

「旦那が死んで、3年以内に夫の後を追うように亡くなるなんて奥さんはいなくなったね。長くて一周忌、短いと49日。あとは元気溌剌。女性は強く逞しく生きるようになった印かね」 差し障りあったらお許しを……。

◆ 全国いたるところで熊の出没のニュースで沸いている。遠藤先生の奥さんからのおハガキで、野尻湖の山荘近くにも出たらしい。出入りの電器屋さんが襲われて亡くなったと書いてあった。台風とか自然破壊で熊の餌が極端に少なくなったのが、原因と言われているが本当にそうなのだろうか。もしかして、動物は天変地異の前兆を察知しているのではないのか。そんな愚にもつかない疑いを抱くほど異常気象が多い。

◆ 「五風十雨」という言葉をご存じだろうか。5日間に一度風が吹き、10日間に一度雨が降る。これが日本における安定した自然の姿なのだと言う。この自然体が続く限り、政治も安定しているのだそうだ。昔の人はうまいことを言ったものだ。今の気象を見る限り、地震、火山の噴火、集中豪雨、洪水と荒れ狂っている。自民党政治も終局を迎えているのだろうか? 

◆ 温泉の表示違反で方々の温泉が叩かれている。海外では温泉は治療の目的で使われていて、保養地となっている。日本のように全国いたるところで温泉が出る国はほかにはないのだろう。熱い温泉は人が入れるように水で薄める。温度の低い温泉は沸かす。それが当り前と疑問も抱かずに温泉を楽しんでいたが、どうもそういうのは違反だったらしい。温泉に行くと、湯舟の入り口に張ってある効能書きを見て、ああ、この温泉はリュウマチに効くのか、などと思いながら湯につかったものだ。

 草津の温泉で、3分以上入るなと旅館の親爺さんが厳命していたが、あれは本物だったのか。あんまり難しいことを言わないで、楽しめるお湯のお風呂にと思うのは私だけだろうかなぁ。

◆ ところで、中国からの備長炭の輸入が中止されたとのニュース。こちらでやめたのではなくて、森林の伐採がひどいからと中国政府が輸出を差し止めたと言う。

 ウナギ屋の親爺さんが、備長炭が入らないと困るなあと嘆いていた。炭というのは、間伐材を利用して作っていたものの筈。中国の森林を裸にするほど需要があるのだろうか。 まてよ、備長炭というのは、中国でも作っているのか? 辞書をひいて見た。

「うばめ樫を材料として製した熊野産の良質の木炭。元禄(1688〜1704)年間から紀伊の国田辺の備中屋長左衛門が販売」 とある。

 中国産の備長炭というのは、今流行の表示違反だな。中国産の木炭じゃいけないのかね。うるさい新聞が麗々しく書いているのは、無神経というものだろう。

◆ 映画「父と暮らせば」を観に神保町の岩波ホールへ行った。10月いっぱいはやっていると思うが、是非ご覧になることをお薦めする。感動の映画。また宮沢りえが素晴らしい。

◆ 付き合っている病気のコーナー

 眼科の話。老人性白内障と言われてから20年近くたつ。毎月一度は来なさいと言われて真面目に通っていた。その頃は店で働いていたから、店の近くの眼医者さんからカタリンという目薬を貰い、一日4回つけていた。ほかの病気で総合病院に入院した時、ついでに眼科で診て貰った。そのお医者さんが言うには、カタリンは気休めに過ぎない。もっと進行したら手術をするしかない。カタリンは治す薬でなく、進行をとめると聞いてはいたが、無駄みたいな言い方をされると、病人はあまりいい気がしないものだ。

 三か月か半年に一度ぐらいに、視野検査がある。暗い部屋で検査機の前に座り、どこからともなく現れる小さな光が見えたら、手にしたスイッチをただちに押す。眼科に通っている人にはお馴染みな検査だ。

 白いドームのような検査機の中心に光の穴がある。すうーっとその穴を目掛けて、光が走る。「目を動かさないで」暗い中から若い看護師さんの声がする。看護師さんはどんな人だろう。一本杉の真上に光る星、流れ星のようだ。アッ、スイッチを押すのを忘れた。 検査が終わってドクターの前に座ると、

「この検査結果を診ると、緑内障への危険信号が出ている。レスキューラという薬を一日2回つけるように……」
 まさかほかのことを考えていましたと言う訳にもいかず、薬を貰って帰った。

 或いはお医者さんの言うように、緑内障の気が現れているのかも知れないと、レスキューラをつけていたら、道がハレイションを起こしたようになり、薄化粧をしている女の人の顔が、のっぺら棒のように真っ白に見えた。歩くのが怖くなった。薬のせいと思ったから、点眼をやめた。そしたら元へ戻った。そのことをドクターに言うと、不思議そうな顔をして、「一か月休んでみるか」とおっしゃった。

「ほかにいい薬がないんでね、眼には……。まず糖尿病を治すことだな」
 源は糖尿病にあり、か。

◆ 食べ物にまつわる想い出。 〔ガーリック・トースト〕

 中華街の善隣門の手前を右に入ると、すぐ「ジャックス」というステーキハウスがあった。いつも中華料理ではと思って、お客さんの接待にその店に入った。一階はカウンターになっていて、目の前でステーキを焼いている。二階へ上ると、テーブルがいくつか置いてあった。中年のボーイさんが注文を取りに来た。肉の種類、目方、焼き方と形どおりに訊いた。ライスかパン。パンと答えると、ロールかガーリック・トーストかと訊く。パンと答えると、店によっては何種類かのパンを持ってくるのが普通だ。ガーリック・トーストは別注文の筈だがこの店はそうでないらしい。店に入った時、プーンとなんとも言えない香ばしい匂いがしたのは、このトーストだったのかと納得した。

 ナイフ、フォークのセットをしに来た時に、ボーイさんに訊いた。
「この近くに、昔パールケッチンという洋食屋さんがあったと思うのだが知らない?」
「さぁ、わたしじゃ分からないので訊いて参りますが、なにかご縁でも……?」
「うん、うちの親父がやっていた店なんだ」

 暫くすると、とんとんと階段を上る音がして、前掛けをした小柄な青年が現れた。
「あのう、この店をやっているオグラと言いますが、村井さんですか?」
 名乗った訳ではないのに、ずばりと親父の名前を言ったのでびっくり。
「ここが村井さんの店だったところですよ。パールケッチンですよ」
「えっ!? 本当?」

 と、その偶然に驚いた。オグラさんは、閉店していた店を買って改装したと言う。
「不動産屋の手に渡ってだいぶ経つのか、色々とトラブルがありまして……」

 義父からはこの店の繁盛期の話を聞いていたが、その末路は聞いていない。伝記を書こうと思って話を聞いた時、信頼していた奴が裏切りやがってと呟いたきりだった。

 オグラさんは、買い取った頃を思い出すのか、ひどく懐かしがっていた。

 パールケッチンを閉めて、伊勢佐木町の4丁目角に新たにパールという大衆食堂を開店した。戦後の昭和20年後半の頃、貧しかったが、生きようと懸命な心豊かな時代であった。

 オグラさんの「ジャックス」も、私の青春の場「パール」も今は存在しない。

04/10.13

 城井友治


[「文学横浜の会」]

禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜