「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2005年02月17日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<91>

 正月を迎えると、毎年ああ1年がたったのかと思い、一月が過ぎるともう12分の1が終ってしまった。 毎年同じことを思うままに、まだ生きている。どこへ顔を出しても、長老と言われる歳になった。

 村の長老はそれなりの権威があったが、こうも回りに年寄りばかりが増えて来たのでは、権威もへったくれもない。
 ついこの間までは、『明治は遠くなりにけり』なんて言っていたが、今は昭和も遠くなった。
 その証拠に、新聞を見ていてもよく分からない記事にぶつかる。

 川崎市が麻生区の小田急線新百合ヶ丘駅周辺を対象エリアにして進めている『芸術のまち構想』が本格的に動きだす。 核施設となる『アートセンター』の整備に関する協議会の提言がまとまり、20日、市内部の専門部会がスタートする。 市は年度内に基本計画策定を完了させ、早ければ2005年度に着工、07年度のオープンを目指す。(中略)

 提言では、センターの基本目標として、プレゼンテーション、クリエーション、 コラポレーションの各機能が三位一体に備わり、文化・芸術活動のインキュベーター的な場を求めている。(後略)

 私が勝手に書いているのではない。れっきとした新聞の川崎版に載った記事のあらましです。 恐らくは記者が忙しくて、市の広報部から渡されたものをそのまま記事にしたのだろう。 市の広報部が考えたのではなく、下請けに企画を業とする会社があって、そこの新進気鋭の社員が作ったに違いない。 これから検討するのだから、もっともらしくて、いいじゃないか。そんな様子が見てとれるが、 横文字の羅列で年寄りには何を言いたいのか分からない。

◆ どこかで見た顔と思ったら、テレビで自然保護を標榜しているタレントさんだった。 琵琶湖に限らず、誰が持ち込んだか分からないブラックバスとかの外来種のために、 既存の生態系が崩れてしまっている。滋賀県が、釣り上げた外来種を湖に戻すのを禁ずる条例を出したら、 釣人の権利が阻害されるのは憲法違反で反対という。

 言ってることが逆じゃないのか。釣った魚を殺すのは忍びないというが、それなら自分用の釣り堀でも作って、 そこに放流したらどうなんだ。釣ることですでに魚を傷つけていることを忘れている。 ブラックバスの『再放流禁止令』は適法とした裁判所の判定は当たり前だ。 なんでそんなことを言い出したのか分からない。

◆ ただ異常気象ですましているが、 先だっての地球の大気に衛星やらゴミが取り巻くシュミレーションが報道されているのにはびっくりした。 こういう浮遊物が気象を異常にしているのではないのか。前にも書いた記憶があるが、非科学的な考えだろうか。

 去年の暮れから、庭にくる雀の姿を見掛けなくなった。それで仲間にそれとなく訊くと、 「そう言われればそうだ」と言う人が何人かいた。

 よく動物の本能で災害を察知して、いち早く安全なところに逃げると聞いていたので、まさかとは思っていた。 今年になって3羽の雀が姿を見せた。なんとなくほっとした。
 それにしても枯れ木に鈴なりになっていた雀の群れはどこへ行ったのだろう。

 カラスが増えるのを東京都が押さえたら、鳩が増えてしまい、その糞の苦情が殺到しているのだそうだ。 「餌をやらないで下さい」と訴えているが、公園ではたしか鳩の餌を売っていた。 餌をやらないと凶暴になるんじゃないか。上野の公園なんかで見ていると、子供の餌の袋をひったくる鳩も見掛ける。 鳩の糞で銅版が腐食するからと、お寺の屋根から締め出しを食っている。平和の象徴も糞害で追われるとは……。 一番フンガイしているのは、鳩かも知れない。

◆ 4年半の避難生活が続いた三宅島の人たちへ、ようやく帰島の許可が出た。 住民にとっては待ちに待った2月1日だったろう。家について明かりをつけた時の嬉しい顔。 やがて涙を拭う姿がテレビ画面に写された。見ている方でもじーんと来た。 しかし、有毒ガスがまだおさまっていない地域には、自分の家がそこにあっても帰れない。つらいことだ。

 観光が許される時期が来たら、もう一度島を訪れたい。

◆ 同じ2月1日は、プロ野球のキャンプイン。災害の連続でニュースに事欠かなかったせいか、 例年になく気勢の上らないような気がしている。 球団の合併とか新球団の加入で、もっと騒がれても然るべきと思うのだが……。 いつもどこが優勝するかとカミさんと当てっこする。今年は何故かその気にならない。 選手の多くが大リーグ願望でいるためか、日本の野球がマイナーリーグのような感じがして気がのらない。

◆ 『朝日新聞』と『NHK』の戦いはどっちの方が正しいのですかね? と訊かれるが、今度に限って言えば、 朝日の記者の脱線取材で歩が悪い。過去にも珊瑚礁に傷をつけ、大発見のようなヨタ記事を書いた記者がいた。 優秀な人材の集団と思っても、中には変った人もいる。 NHKの告発したプロデューサーの涙ながらの記者会見では、告発することでもたらされる生活苦を考えると、 なかなか踏み切れなかった。4、5年もの間悩み、考え続けていたという。 週刊誌によると、奥さんは大学教授で、彼も父の会社の二つもの非常勤役員をやっていて、 とても生活苦を口にするほどではないとか。それまでの生活水準からすればの話なんだろうが、 涙腺のゆるんだ老人と違うんだ。やたらと泣くな!

 前号の『つづき』です。部分的にこの『便り』に書いたところもあるので、おやっと思われるかも知れません。 14年も前のこと、お許し下さい。

     『旅 遥かなり』(2)

 平成3年春、鶴見駅ビルの1階にあるJTBの旅行案内を覗いていたら、 『北京・西安・敦煌8日間』というのが目についた。

 行くとなったらパスポートから取り直さなければならない。真夏の中国はどんな暑さなのだろうか。 でも、寒いよりは行動が楽でもあるし、荷物も少なくてもすむ。7月の頭からならと、 7月8日からのツアーの申込みをした。

「敦煌の空港が工事中で、その手前の嘉峪関で降り、そこからバスで6時間走ることになるが良いですか?」

 良いも悪いもない。もう決めたことなので、事情が変わろうと実行するしかない。 それにバスで6時間走るだけだ、歩く訳ではないからと私は了承した。 後で聞いたところでは、このバス旅行を嫌ってキャンセルした人たちがいたそうである。

 平成3年(1991)7月8日(月)
 成田エクスプレスに乗って、空港の集合場所に行くと、それらしい人たちが散々伍々集まっていた。
 受付の窓口に行くと、「私がご一緒するSAです」。美しく理知的な女性が添乗員であった。

 参加人員が増えたとかで、A斑とB班とに分けられた。申込みの順番らしく、私はA班だった。 見回したところ、A班は年配者が多く、B班には若い人が多かった。 年を取ると何事によらずせっかちになり、申込みも早くなる。 若い人はぎりぎりまで申込みを保留するせいかも知れない。

 どこの誰かも知らないままに、渡された搭乗券で席についた。 私の右隣は学校の先生を定年でやめられたようなご婦人で、左は30代後半か40代そこそこの女性。 二人共一人旅のようだから、一人参加のチケットが横一列に並んだようだった。

 旅の性格上、一人参加の人が多い。私を含めて男は3人、女の人も3人ぐらいが一人旅ということになる。 後はご夫婦か、友達同士の二人連れであった。

 若い人方の人を見ると、髪は長く背に垂れ、化粧はしていない。そのせいか顔色がすぐれない。 デニムのスラックス、ネズミ色のTシャツ。Tシャツの下はノーブラなのか、乳首らしきものがポツンと尖っていた。 あまり物の入っていそうもないズックのショルダー。ちょっと退廃的な感じだった。

 今はそんなことはないが、当時はカメラの持ち込み台数を入国時に登録する義務が課せられていた。 それで添乗員のSAさんが、「カメラは何台お持ちですか?」と聞きに回って来た。 1台、2台、ほとんどの人が2台持ち込んでいる。私も2台。1台は流行り始めのパノラマ専用カメラだ。

「カメラは持って来ていません」
 髪長き人は至極当然のように言った。
「ええッ、お持ちではないんですか?」

 日本人の旅行者でカメラを持ち込まない人は珍しい。日常カメラを使わない人でも、旅行に出るとなると、 カメラを新調する。それで失敗もするし、また思いがけなく良く写って自信を深めたりする。 帰国して写真を見せるのも土産の一つなのである。

 勿論これは一般論で、写真嫌いな人もいるし、自分の眼で確かめるために写真は撮らないという人もいる。 また、絵葉書ですます人もある。人それぞれの感覚だからなんとも言えないが、 観光客に解放していくばくもたっていないところだから、カメラ持参の方が普通だと思う。 添乗員さんが「ええッ」と思わず口走ったのは、彼女が一般的でなかったからである。

 年配のご婦人は、ノートを広げて資料のチェックに余念がない。 髪長き人は手持ち無沙汰でいるらしいので話しかけた。
「敦煌は初めてなんですが、あなたは?」
「私も初めて……。中国は何度もいらしてるんでしょう?」
「いや、台湾は行ってますが、こっちは初めてです」
「戦争でも?」
「エッ! 僕、戦争には行っていませんよ。すれすれで終戦です。もう1年戦争が伸びていたら、 こうやって敦煌への旅なんか出来なかったでしょうね」

 私は昔から年よりも老けて見られる。頭は真っ白だし、くたびれた顔をしているせいかも知れない。
「お住まいは東京ですか? 僕は横浜ですが……」
「えぇ、新宿です」
「新宿とは懐かしい」

 新宿はわが青春の街である。私は武蔵境に住み、中学校は立川だった。 戦争中、新宿の『武蔵野館』で映画を見て、出て来たところを補導教官に捕まった。 18才未満云々という映画ではなくて、当時は未成年者は父兄同伴でないと、映画を見ることも許されていなかった。 そればかりか、学校の外にも補導教官という名の先生がいた。 繁華街などに現れる生徒を監視し、悪の道に陥らないよう指導する役目を持っていた。

 休日でもないのに、学校を休み、ふらふらと映画を見ているとはけしからん。どこの学校か!
 たたみかけるような補導教官の尋問にカァーッとなった。    (つづく)

 三月は都合により休みます。ご了承下さい。

05/02.11

 城井友治


[「文学横浜の会」]

禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜