「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2005年11月20日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<97>

 新潟県中越地震から1年。いまだにライフラインが整備されずに、避難生活を余儀なくされているらしい。 テレビを見て、まだそんな状態なのかと驚いた。 行政へのインタビユーを聞いていると、国とか県とのからみ合い、それに豪雪地帯で半年は作業が出来ないという。 山間地域に住んでいる人たちはいずれも高齢者で、新しく家を建てるにしても財力に乏しい。 こういう場合の優遇措置はどうなっているのだろう。
「この年で借金も出来ない」と嘆いていたが、本当にそうだと思う。

 都会と違って、地震保険なんかに入っている家庭はまずないのではないか。
「天災だからしようがない」

 諦めたような老婆の声は、自然との戦いで暮らす農業にたずさわる人の嘆きであろう。
 我々に出来ることは、復興資金の援助しかない。もう一度宝くじでもなんでも資金集めをしたらどうなんだろう。
 なぜこんなこと言うのか。実は居酒屋談義で、
「田中真紀子を選挙民は選んでいる限り、復興のスピードは上らないよ」
「えっ、どうして?」
「だって、小泉に盾ばかりついてりゃ、金は出ないし、役人だって気がはいらないよ」
「そんなバカな」
「政治の世界なんてそんなもんだ」
「やれやれ」
「角栄が生きていたら、こんな不始末は許せなかったろうぜ」

 言われてみると、なるほどそうかなぁと思ってしまう。田中角栄という人間の行動力のしからしむることか。 田中真紀子の選挙演説を横浜駅前でちらっと聞いたが、小泉に対する恨みつらみをぶつけていた。 居酒屋談義もあながち否定は出来ない。

 その真紀子女史が、田中角栄の銅像に屋根をかける工事をすすめているそうだ。
「お父さんが寒がっているから」と言う。寒がっているのは、被災地で避難生活をしている一般庶民ではないのか。 屋根の費用を包んで、避難生活の支援に役立てて下さいと、県の尻を叩いたらどうなんだ。 それが政治家としてやることだろうに。

「俺の屋根なんかいらない、それより土地の人たちをなんとかせい!」 と泉下で嘆いている声が聞こえるような気がする。

◆ ノンフィクション作家の工藤美代子さんが、案内人となって、 終戦直後の占領軍の接収建物のことをNHKのテレビで解説していた。 GHQとなった第一生命ビル選択のエピソード。兵士たちの憩い場ビヤホールのライオン。 焼け残った銀座のビルのほとんどが接収された。消えかかった記憶を思い出させてくれて興味深かった。

 実は私にも接収された銀座のビルの思い出がある。4丁目近くにあった三階建ての、 なんというビルだったか記憶が薄いが、繊維会社のショールームのある建物だった。 ここが進駐軍の婦人将校の宿舎になっていた。

 私の父は戦後賀川豊彦が理事長の『友愛家具協同組合』の理事になった。 キリスト教の団体だったから、実務家の家具職人が重宝されたのだろう。 進駐軍からの注文で、教会の拝壇の机、椅子、それから聖室という小函などを作っていた。

 ある日父は私に仕事を手伝えと言った。今のアルバイトである。 銀座のビルにカーテンなどを取り付ける仕事で、作業する人間の申請する必要があるから、お前なら面倒臭くない。 どうだ。父はつり桟の不具合などを直し、私は脚立に上って、カーテンを金具に引っ掛けてつるす。 単純な仕事だからどうってことはないのだが、午後になって婦人将校がぞくぞく帰ってきた。 それぞれが部屋に入る。軍服を脱ぎ捨てると、下着のまま部屋から出てくる。私服に着替える訳ではない。 男子禁制のせいか、下着で廊下を闊歩している。 はち切れるばかりの胸の膨らみ、ガードルでつった長めのパンツから伸びた太股。 裸形のマネキン人形をみても興奮する年頃、危うく脚立を踏み外すところだった。

 時間がたつにつれて、下着姿の婦人将校は増えた。脚立の上の男なんて気にする気配は少しもない。 肌色の下着は遠目には裸に見えるな、などとけしからんことを考えながら金具をカチャカチャやっていると、 一人の婦人将校が下から私を見詰めている。監視者かなんだろうか。それだったら下着のままは変だ。

「アイム ソーリー」
私は思わず言った。すると、彼女は、
「ワッツ ソーリ?」
怒ったような鋭い声だった。そして矢継ぎ早にペラペラと言ったが、私には分からない。 てっきり英語だと思ったからキョトンとしていた。今度はゆっくりと、話し出した。日本語だった。

「ソーリー トハ ナンデスカ。センソウニ マケタカラトイッテ ヒクツニナッテハイケマセン」

 彼女の巧みな日本語に感心しながらも、耳の痛い忠告に恐れ入った。 日本の復興はあなた方若い人がやらなくてどうするのだ。そんな意味のことを順々と説いた。 脚立から降りて聞くべきだと思ったが、足がすくんでどうにもならなかった。

 アメリカ人にもこんな人がいる。敵国の一青年を勇気づけてはばからない。 それに比べて、我々は鬼畜米英とか教えられ、それを信じて来た。全く恥ずかしい。

 終戦後なんどか銀座通りを歩いたが、記憶のビルは姿を変えたのか見当たらなかった。
 戦後六十年たった今でも覚えているのだから、強烈な印象だったのは間違いない。

◆ 父の33回忌はだいぶ先だな、と思うと、急に墓参りがしたくなった。これも病気が病気のせいだろう。 足腰の丈夫なうちにとカミさんに相談したら、それでは妹さんたちを誘ってみたら、と言う。 なるほど、うちの墓は、山形県酒田市にある。ついちょっとという訳には行かない。 もしかしたら、次回行く時は俺の納骨かも知れない。それで五人の旅になった。 最初は酒田の病院で透析をして、何日か滞在しようと思ったが、始めての遠出なので、 土、日曜の休日を利用して、一泊の旅にした。

 地方の旅はきつい。駅にはエスカレーターの設置はほとんどない。 こんなに足が弱ったのかと実感させられた旅だった。それと長時間の汽車の旅はまだ無理だ。 翌日腰が痛くなった。せいぜい二時間ぐらいの旅だったら出来る自信はついたが……。

 徐々に身体を慣らして、旅に出たいものだ。

◆ 井坂利夫さんが亡くなった知らせを頂いた。 読売文化センターの『野鳥』の講座の講師として横浜に着任された時に教えを受けた。 温厚篤実な方で短かったが楽しい付き合いだった。 講座の初日こそ室内講義だったが、部屋でスライドを見てもしょうがない。 外で実物を見ましょうと、二回目からは外へ出た。

 この『風の便り』に何度も出てきた、安い北海道行きの船旅は、全部井坂先生の案内だった。 会に参加していた人たちで、私が一番年上だったようだ。いくら教えて貰ってもすぐ忘れる。それを言うと、
「それで結構、何度も見ているうちに覚えるものです」
と笑っていた。

 私の若い頃は野鳥を見て楽しむ時代でなかった。学生時代やサラリーマンになって仕事帰り、 赤チョウチンの店先に、「つぐみ、入りました」と風にひらめくビラの下を、ツバを飲み込みながらくぐったものだ。

 そんな頃に野鳥に興味を持った先生は、どんな生活をしていたのだろう。 自分のことは語らなかったが、言葉の端々から類推するのは、観光会社に勤めていた折り、 箱根かどこかのホテルの支配人をやった時期があったらしい。 あるいは本社から出先の観光地へ行く機会が多かったのか。 その時中西悟堂さんに会ったのか、または、その著書を読んで、野鳥に興味を持ったのだろうか。 勤め先が藤田観光という人もいるが、その辺のことは確かめようがなくなった。

 スコープ、三脚、双眼鏡、図鑑、飯盒、魔法雛、コーヒーセット、 先生のリックには生活道具が一切入っているかのように大きい。それを悠々と背負って歩くのだから、 体力もあった。コーヒーセットは、行った先でお湯を沸かして、我々にご馳走してくれるもの。 風も冷たい野外で頂くコーヒーの味は、また格別なものだった。

 先生が片時も手放さないものにポケットウィスキーがある。 暖房のためかと思った白金懐炉の中身がウィスキーとは知らなかった。 それを口にする時の先生の嬉しそうな赤く日焼けした顔が忘れられない。 井坂先生、有難う。ご冥福をお祈り致します。

◆透析あれこれ◆

 透析をしていると、副作用らしきものが出てくる。 朝、診療室に入ると体重を計るが、測定した体重と私の決められたドライウエイトとの差の血液中の水分を除水する。 私の体重が70キロ、ドライウエイトが68キロ。この2キロを除水する。 これをドライまで引くというが、私は1.7キロしか引けない。 というのは、1.8キロを引いたら、二度とも血圧が急に下がり、冷や汗をかき、危険な状態になったからである。 たかだか100 ccのことだが、慎重な扱いになっている。 また、人によっては足の痙攣を起こすし、ふくらはぎをつることもある。 私も一度足がつり、帰りに足を引きずって帰った。 これも副作用らしく、何人かの人は、その予防として湯たんぽを持参している。 なんでそんなことが起こるのか、除水は身体全体から抜くからである。 足の末端毛細管から水を引き過ぎると、血行が悪くなり、足がつることになる。 頭の水分も抜いている筈だから、頭痛を起こす人もいるとか。 幸いなことに私はまだその目にあっていないが、個人差があるようだ。

 私の通っている診療所では、透析中お医者さんが回ってきて、状態を訊く。 眼鏡をはずしぼやっとした顔をしているからと思っていたら、そうではなくて、 透析中に体調に変化が起こるためらしい。若い看護師さんも、体温、血圧を計るたびにノートに記入しながら尋ねる。

「体調はいかがですか? 便秘はしてませんか?」
「はい、お蔭さんで順調です」
 よく聞き取れなかったのか、
「えっ、で、便秘は?」
 しつこいなと思ったから、
「便秘はしていません。ところで、あなたは?」
 そんな質問をする奴はいないと見え、びっくりした顔をして、
「あら、嫌だ」
 いやらしい爺さんと思われたに違いない。
 まあ透析もいくらか馴れたことになろうか。

 今年も終わりに近付きました。十二月と一月は、この『便り』は休ませて頂きます。

 また、年賀状は出しませんので悪しからず。
 佳いお年をお迎え下さい。

05/11.15

 城井友治


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