「文学横浜の会」

 随筆

「よのもり駅」

2002年11月30日


「柿をむく」

「田舎の土産は自然が一番ね」

 そんな私の言葉を覚えていたのか、父から今年も干柿が送られてきた。

 リンゴ箱を開けると、透明なビニール袋の中に縄で括られた柿が見え、焼酎の香りが鼻を突く。 縄を取り出すと一本に七、八個の柿が行儀よく並んでいる。 干して間もないのか、まだ熟れたままのものが多く、手荒に扱うと壊れそうな柿である。 三人家族の我が家では、食べきれないほどの量である。縄の長さは二メートルは軽くある。

空気が汚い都会のベランダに干柿を干すわけにもいかない。 狭い台所に取り付け、普段はタオルなど干すのに重宝している「伸び縮み自由の竿」が干柿用に変身する。 我が家のサイズに短く切って竿にかけ、干柿ののれんが完成する。

 家族は台所を行き来するたび、柔らかい汁が頭に付かないように、何度もお辞儀をして通る。 不自由だが狭い家ゆえ場所はここしかないのを知っているから、何も言わない。 しかし田舎の澄んだ軒下と違いここは団地の中。

干柿は美味しく乾燥するどころか、ますます湿気を吸って、しまいには床の上にぽたり。 見るも無惨な姿に変わり果てる。 こんなとき、私の胸底がチクンと刺された気分になり、とても悲しい気分に陥る。

 夫は柿が届くとすぐ電話しろと云う。

「礼状書くからいいわよ」と私が言うと「何言ってんだ。声を聞かせてやれ」と夫。

 こんなとき私はいつも躊躇してしまう。 お礼を言っただけで、はい、さようならというわけにもいかない。これが母だったら、

「お母さん、ありがとう。食べきれなくて余ってしまうの。一本あれば十分だから。ところで・・・」と言える。 しかし父だとうまく話せない。たしか去年はこうだった。
「柿届いたの。ありがとうございます」
「今年は雨が多かったせいか少し小粒だったようだ」
「そう・・・」
「皆元気か?」
「元気・・・正月待っています」
「ああ。じゃあな」

 私は受話器を置きゆっくりと振り返ると、夫が呆れた顔で見ていた。

 一人暮しの父は町の世話役をしながら、月に二、三度ゴルフコンペに出かけ、囲碁を楽しみ、 はたまた県のグランドゴルフ会の役員もしている。 僅かな余暇を利用して油絵をやり、脳の活性化にとテレビゲームまでやる人である。 毎年夏の月山への登山はかかしたことがない。 八十歳に手の届く年齢からすると、はるかにタフな父と私との間に、共通する趣味はあるのだろうか。 そんな父と何を話せというのか。

「話を聞いてやるだけでいいんだ。それで満足するんだから」
「じゃ、お父さんが電話してよ」
「分からないのか。お前と話がしたいんだよ、親父は」

 去年と同じ風向きになりそうだったので、私は干柿のれんを潜り台所に逃げた。

 ここの一角だけ見ていると、田舎の風景を思い出す。 あれは私が小学校四年生のころ家を建て替えた時だった。 崩れ落ちる瓦礫に背を向け、母は黙って柿をむいていた。 柱が傾き屋根が落ちようと、庭の隅にむしろを敷き、足を投げ出し黙って柿をむいている。 あれから母もいなくなった家で、父は何を思い柿をむいてきたのか。

「お前がいいんだったら嫁に行け」

 そう言って送り出してくれた父。あの時父は、一人道を歩く決心をしていたのだろうか。

 そのとき目の前で柿が床に飛び散った。 その様が一瞬スローモーションのように見えたのは、私の心が過去に留まっていたからなのか。 上を見ると縄には柿の実がまだ少し頼りなさそうに付いている。 私は新聞紙を広げ飛び散った果実を拾い集めた。固い紙に馴染まないとばかりに柿の種が床に落ちていた。 私は種を手で拾い父のことを思った。

「ひょっとしたら、お父さんは縁側に腰をかけ、柿をむいている時が一番幸せではないのかしら」

 あの日、母も崩壊する家に目もくれず、無心に柿をむいていた。 私には母が少女のように輝いて、とても楽しそうに見えた。 母は嫁に来た頃の、遠い昔を思い出していたのだろうか。 そして父もまた、在りし日の母との想い出に、気持ちを馳せていたのではないだろうか。 去年の正月のことが思い出される。

「お父さん一人じゃ寂しいでしょう。どうかここを自分の家だと思って、いつまでもいてください」
「ありがとう。遊びに来させてもらうよ。私なら心配しないで、帰る家があるからな」

 夫の言葉に父はいつだってそう言い、帰っていく。 きっと父はあの家で一生柿をむき、けっしてそこを離れることはないだろう。 母との想い出の詰まったあの家で、今頃軒下に吊るした柿を見上げながら、 母と語り合っているにちがいない。

<記憶のページより S・K>


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