「文学横浜の会」

 随筆

これまでの随筆

2003年02月22日


「伯父と私」

 赤城山の景観は安達太良の山並みに似ている。メモリアルを後にして車を走らせると、陽は稜線の上にあって、木立から木立を抜ける間も私を照らし、どこまでも追いかけてくる。やがて車は坂道を下り国道に差し掛かると陽は待ち構えたように正面にあった。しかし陽はまぶしく私を照らすことはなく、身体を山肌に横たえると穏やかな光を地上に放った。陽は今まさに沈もうとしていた。次第に山の稜線が紫色に染められた。しかしそれもつかの間日暮れは瞬く間に闇を造りだした。私はスモールランプを点けた。黒闇に目が慣れてくると山は一筆でなぞられた山水画のように見えた。もう赤城山を見ることはできなかった。伯父が人生に幕を閉じようとしている。私がそう感じた瞬間だった。

 忘れようにも忘れられない記憶がある。まるで毛筆から垂れて和紙に染み込んでしまった墨のように消し去ることはできない。それぞれの記憶が雪解けの水のようにときどき心を伝わって零れるときがある。母のこと。祖父母のこと。姉妹のこと。ときどき断片的に思い出す。それらは仕事の帰り道だったり、郵便受けを閉める瞬間だったり、また夢から目覚め、まどろんでいたりとさまざまなときに思い出して戸惑うことがある。ここ数年オウム返しのように繰り返し思い出すことが多くなった。振り返る年月が長くなったせいかも知れない。その一つに伯父との思い出がある。

 東宝のカメラマンだった伯父が蒲田の下宿先を引き払い、群馬県に帰郷したのは昭和三十年頃と訊いている。カメラマンを辞めてしまった背景には、第二次世界大戦のために映画館が閉鎖されたとも訊いている。戦争で蒲田周辺が焼け野原になったのか、崩壊した下宿を見て呆然と立ち尽くしていたのか解らないが、伯父は数年後再開された映画の世界にふたたび戻ることはなかったという。郷里に戻りカメラを何に持ち替えたのか定かではない。

 そんな伯父が私たちの家で暮らすことになった。私が小学校低学年のころだった。当時林業を営んでいた父の仕事を手伝うことになったからだ。肉体を使い汗水垂らし仕事をしている伯父を想像することはできない。無論私の記憶の中にそんな伯父は存在しない。私の中に現れる伯父は都会帰りの洒落たシャツを着てベレー帽を被り、恋人のように片時もカメラを離さない人であった。

 私は伯父に連れられ映画を観ることが多かった。といっても映画の内容などほとんど覚えてはいない。当時は「渡り鳥シリーズ」といって小林旭がさっそうと馬にまたがりギターを弾きながら旅をする。そのとき歌った「だんちょね節」の一節が記憶に残っているだけである。

   あいはせのなか こじまのかもめ ・・・
    なんだなんだなあんだ わかれちゃいやだと
     すがるおもいを このむねにだんちょね

 幼いころの記憶ゆえ間違っている箇所はお許し願いたい。時々口をついで出るこの歌を最近ふと思うことがある。テレビよりも映画が娯楽だったあの当時、伯父に連れられ何度も同じ映画を見ているうちに覚えてしまったのかもしれないが、幼かった私がこの歌を覚えているのは、伯父が鼻歌のように毎日歌っていたのではないかということだった。断片的な記憶ではあるが、映画に携わっていたころ伯父の下宿屋に台詞のない俳優達が遣ってきては近くの銭湯で風呂を共にし、わずかな酒を酌み交わしたと聞いたことがあった。

今にして思えば当時主役の座についていた俳優(たぶん片岡千恵蔵だったと思う)や女優などの話ではなく無名の俳優との交流を話す伯父は生き生きとしていた。そんな伯父が彼らを気にかけても可笑しくはない。あの歌の中には彼らと苦汁の日々を共にした伯父の心情が歌いこまれているようにも思う。そんな伯父が大好きで私は学校から帰り伯父の姿を見つけるとまつわり付いていた。しかし父が林業に見切りをつけて役所勤めになったため、伯父はしばらくして群馬に帰っていった。

 伯父が使っていた部屋はしばらくそのままになっていた。壁には数枚の写真が貼られてあった。庭先で撮った姉妹の顔や木を切り倒す父の姿。その中に安達太良山の写真があった。真っ赤な夕日が山肌に吸い込まれていく瞬間だった。いつごろ写したものなのか、人物を撮り続けていた伯父にしては珍しい写真である。私が座っているベッドの上に腰をかけ、伯父は暇さえあればカメラのレンズを磨いていた。だんちょね節を歌いながら。ガラス越しに覗いている私を見つけすばやくレンズを向ける。そして窓を開け決まって私にこう言う。

「おけいちゃん、映画に行こうか」

 硬く閉ざされた扉が開けられた。そこに棺はなく白い裸体が横たわっていた。咳を切ったように嗚咽が会場に漏れた。私の横で父が怒ったように拳を握り締めていた。私の五感が震えだし臓器を駆け巡っている。伯父との記憶が鮮明に蘇ってくる。私の脳裏を過去と現実が入り混じり、涙で参列者の姿がぼうっと霞みかけた。どこかでブッポウソウが鳴いている。伯父に別れを告げに遣ってきたのだろうか。その時さ迷う私の手を柔らかく大きな手が救い上げた。

「これが肩甲骨ですよ」

 係りの声がすると闇は消えスクリーンが前方に広がった。私は映画を観ている間ずっと握っていた伯父の右手の骨を拾った。「さようなら」そう告げると骨壷の中でこつんと音がした。白い布が骨壷に巻かれると伯父を乗せた車は一足先に荼毘所を後にした。私は合掌をしながらそれを見送り、自分の車に乗り込んだ。渡良瀬川に沿うように赤城山の濃い緑が目の前に迫っていた。木々はまるで円を描くようにすっぽりと私を包んでいる。もうじき日が暮れる。とその時、山道に黒い影が動いた。峠に向かってカメラを抱え昇っていく伯父の後姿が木々の間から見えたような気がした。

<記憶のページより S・K>


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