「文学横浜の会」

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2003年07月26日


「父の誕生日」

 今年八十歳の誕生日を迎える父がグランドゴルフ・リーダーとして二十年の功績が認められ、 全国表彰のため上京することになった。私は常々ゴルフをしている父の姿を想像しながら 「あの父が・・・」と微笑ましく見ていた。

 それは私が小学校の高学年の運動会のときだった。種目名は記憶にないが、 夫婦が手を繋いで競争する競技があった。もちろん父母が駆けたわけだが、 この競技終了から二人のことは長い間住民の語り草となったほどだ。

 母は子供の頃からかけっこは早いほうで、 学生の頃から運動部で活躍していたこともあったときいていた。 結婚してからも妻として家庭を守るだけでなく、常に社会と向き合う人だった。 常日頃から「これからの女性は手に職を持つもの」というのが母の口癖だった。 父はといえばどちらかといえば運動神経の鈍い方に属していた。 「男子厨房に入らず」そんな時代を生きてきた人だから、母の考えに面食らったことが多かったに違いない。

 当時の運動会は祭日に行われ早朝から号砲が鳴り、町中挙げてのお祭り騒ぎ。 年に一度とあってか、店屋には臨時休業の札が掛かっている。子供がいようがいまいが関係ない。 運動会は町の行事だったので、留守番は犬か猫といった感じだった。 何も知らずにやってきた観光客がいたなら、この町に恐怖さえ感じたのではないだろうか。 ゴザを持って学校のグランドに集まる住民の光景はどこか異様で、 はしゃいでいる級友の横で私は固唾を呑んで教室の窓から外を見つめていた。

 競技は佳境に入っていた。私は嫌な予感がしたが、先頭を走る父母の姿を見物人の陰から見ていた。 二人が手を繋いで走れば結果は自ずと見えていた。その父が幸か不幸かよろけて転び、 母が父を引きずるようにしてゴールしたものだから観客に受けないはずはなかった。 最下位に終わった二人に嵐のような拍手が起きた。 父母の様子はその日の夕方には町中に広まってしまい、私は買い物に行く先々で面白おかしく聞かされ、 学校へ行くのも恥ずかしかった。それ以後運動会の前日は決まって熱を出すようになってしまった。

 父があの日のことで奮起したわけでもないだろうが、定年を機にゴルフに出かけていくようになった。 もし母が一緒だったら上達は母のほうが早かっただろうか。父は一人黙々と練習をし、 それだけに留まらず、グランド・ゴルフの誘致に力を入れていった。

 毎年父の誕生日のプレゼントに悩まされてきた私は、 もうお手上げとばかりに父に手紙を書いたことがあった。 「何かほしいものはありますか?」

 父曰く「祝意だけで充分」

 私は自分の行為の愚かさを恥じた。新年を横浜で迎えてもらおうと思ったのはその頃だった。

「来年は無理かな」と言いながらも毎年元気な姿を見せてくれる。 これといって出かけるわけでもなく、好きな酒を酌み交わしながら語り合うだけである。

 電話が苦手な私は表彰式の当日父にファックスを送った。帰宅した父がそれを見て、 今後より奮闘してくれればと思う。

「表彰おめでとうございます。お母さんがいたら惚れ直したかもしれませんね。 夫婦での二人三脚は適わなかったけれど、これからは私たちがお父さんを支えていきます。 だから思う存分グランドの上を駆けてください」

<記憶のページより S・K>


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