「文学横浜の会」

 随筆

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2006年12月9日


「物売りの声」

 いつのことであったか、新聞を開くと、
「なぜ、竿竹屋は倒産しない」という記事が載っていた。
 私の住む町でも、昼過ぎになると、週に二回は歯切れのよい、
「さおー竹、さおー竹」
 と、呼びかける声が聞こえてくる。竿竹はいちど買えば長く持つものなのに、 いったい一日にどのくらい売れるのであろうと、考えたことがあった。

 近ごろは物売りも、スピーカーに吹き込んだ声を流すので風情がない。
 私が中学生のとき、明け方、納豆売りの艶のある声が聞こえて来た。抑 揚に特徴があって、その響きは私の眠気を払いのけてくれた。
 母から促されると、つっかけを履いてよく納豆を買いに走ったものだ。

 納豆屋さんは威勢のよい中年のおじさんで、笑顔でポンと肩を叩いて迎えてくれ、 面長の顔をひしゃげて、納豆を長いわらのつとの中に入れてくれた。
 納豆から湯気が出ているように見えた。
 炊きたての御飯にのせて食べると、味が生きているように感じられた。 その名物のおじさんが、いつのまにか、消えて納豆売りは学生アルバイトのお兄さんに変わってしまった。

 次に思い出されるのは、お豆腐屋さんである。
 あの、もの哀しいラッパの音を追いかけながら、ついに町じゅうをめぐってしまったこともある。 常連だとしばらく玄関で笛を鳴らして待っていたそうだが、ともかく不愛想な豆腐屋であった。
 その人は、やや大きめのお豆腐を手に掬い上げる。その早業がみごとだった。

 世辞一つ言わないおじさんとのやりとりは、「お豆腐一丁」「今日は二丁」
 と、買う数だけですんでしまっていたが、手づくりの豆腐は、こくがあって、 冷奴で葱と生姜の薬味でいただくと、夏の夕餉の食卓には絶品であった。

 夏といえば、忘れられないものの一つに、キンギョ屋がある。
「えい、キンギョ、キンギョ、キンギョ」
 三回ずつ繰り返される呼び声に、たちまち子どもは集まってきた。 幼子もこの金魚掬いにスリルがあるのか、母の手をぐいぐい引っぱってせがんでいた。

 澄んだ水が畳一帖ぐらいの長方形の水槽に、満たされると、小指ほどのキンギョが放たれる。 朱色と白が綾をなしたキンギョが、すべすべした体をのけぞらせて泳ぐと、幼心をたちどころに魅了するのだった。  白い薄紙を貼った丸い網を、おそるおそる水に浮かせてキンギョを追うのだが、水の重さでたちまち紙が切れてしまう。 子どもたちの少しばかりの小遣いはみるみるうちにキンギョ掬いに吸い取られてしまった。

 キンギョを獲得するコツは、水をいっしょに掬わずにキンギョを白い紙にのせ、入れ物にすべらせるように運ぶのだが、 子どもにはそこまでの知恵がない。
 たまに成功してもらったキンギョが、わが家のキンギョ鉢で勢いよく動いている姿を見るとき、 うれししさで胸がふくらむのであった。

 キンギョ掬いもめったに見られなくなってからも、この光景は私の郷愁のなかに鮮やかに浮かび上がってくる。
 もう一つ、心に残る風景に、私は紙芝居をあげたい。
 私の住む町に拍子木を打って回って来たのは、キツネに似た痩せぎすのおじさんであった。 彼が艶のある声で物語る話は、腕白小僧が地図になった寝小便のしみを人に押しつける話や、 すこぶる出来のよい少年が、海軍大将になって、ニッポンのために手柄をたてた話などで、子ども心をゆさぶった。

「大きくなったら軍人になる」
 男の子のだれもがそう言い、女の子は、
「戦地に行く看護婦になりたい」
 と、願っていた。
 紙芝居が終わると、割り箸にやわらかい飴をクルクル巻きつけてくれる。その飴を気長に練っていると、白くなってくる。 けれど、白くなるまで練るのには、かなりの根気が必要なのだ。

 棒のついた水飴は、人の顔の形にできていて、器用な子は上手になめて目玉だけ抜いたりしていた。
 幼子にとって、一日がなんと長かったことであろう。子どもの世界に、息苦しさや迷いはなかった。
 故里の鎮守様のある小さな砂場や、レンゲが咲いている野原が遠い記憶の中に揺れている。
 さはさはと光を注いでくれた太陽がかげって、遊びに疲れた子どもたちに帰るときを教えてくれた。

 私はときおり、竿竹屋のスピーカーが聞こえてくると、遠くへいってしまった昔の物売りの声を思い出している。
 その声の響きは、人間の優しさが伝わってくるような気がしてならない。

福谷美那子


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