法友の会 勉強会
妙法蓮華経 方便品第二


ご住職を初め、仏教塾専門課程4名は自主参加としましたが
全員参加をして頂き11名の参加者となりました。
行学の二道に励むと言う昔の壇林に習って
千葉・大多喜・平沢壇林と言えるように、少しでも近づきたいと思います。

柴崎さんの司会により勉強会開始

                  夕食後七時半に題目三唱により開始、今回も二時間十分に及ぶ有意義な時間と
                       なりました新入塾生は感激と興奮が有ったと感想を述べていました。


                キーワード

1) 【一仏乗】----- 「三乗方便・一乗真実」、「二乗作仏」、「開三顕一」
   法華経の主要テーマの一つ、迹門の中心テーマ

  (関連)@ 一大事の因縁 A 開・示・悟・入
2) 【諸法実相】 (関連)@ 十如是A 一念三千

3) 【小善成仏】

4) 【三止三請】

5) 【五千起去】

私の疑問点

   (1) 「方便」品というより、「一乗」品の方がふさわしいのではないで                             すか?
   「方便」を強調された(?)理由如何?

2) ホントに誰でも成仏できるのですか? --- 法華経の一句を聞いただけでも,童子が砂で仏塔を作っても成仏できると言っている一方で、菩薩になって何度も生まれ変わって修行しなければ、ダメと言っています。

   どちらが本当ですか? 

   また、菩薩にならなければ、成仏できないのですか?

即ち、三乗の差別がある者たちがどうやって一乗の教えに平等に帰すことができるのですか?

3) 仏教(法華経)に会うのは大変難しい(盲亀の浮木・優曇華の花)と、言われますが、必ず誰でも会えるのですか?

   また、会うのにはどうしたらよいのですか?

4) 死後の三悪道、三善道(六道)は、実際にあるのですか?
方便は手だて手段であり、原始仏典、大乗仏典で書いてある事は釈尊の直説である。

妙法は区別差別が無い、
皆一緒だよ!

汝等既已に、諸佛世の師の、隋宜方便の事を知りぬ。復諸々の疑惑なく、心に大歓喜を生じて、自ら當に作佛すべしと知れ。

諸仏世尊。唯以一大事因縁故

唯有一乗法 無二亦無三

今を幸せに
今をしっかりと生きる
何をしたか?しなかったか?
によって決まる。


もう出会っているのでは?


お釈迦様は無記

何を自分はしたか?

心の問題では?


●なぜ「三止三請」なの? 
これって面倒くさくなーい!!

  釈迦如来は、三度にわたって教えを懇請した舎利佛に対して「止みなん」と説法を拒否しています。断った理由には、教えが「甚深無量」のため衆生には理解できない、聴衆の中には真に『法華経』の教えを聞きたいと思っている人ばかりではない、これから説かれる教えが最上のものであることを知らしめるための演出上のテクニックであるなど、色々な見方が出来ると思います。皆さんはどのようにお考えですか。

●どうして「唯佛与佛」なの? だったらお経っていらなくなーい!!

  仏が成就した内容は、稀有であり、如来以外は理解しがたいと説いていますが、本当にそうであるならば経文も説法も何もいらなくなります。

皆さんはこの「唯佛与佛」をどのようにお考えですか。

【私見】

 「三止三請」には左のような考えもあるかと思いますが、私はもう一歩踏み込んで考えると、この「三止三請」は、私たちが『法華経』を読み、説き、弘めることへの覚悟を問い質しているのではないかと思います。

  実際、法華経が編纂された時代、『法華経』は異端の教えであり、勧持品には「当著忍辱鎧」と説かれています。この覚悟があってこそ『法華経』が『法華経』として輝くのではないでしょうか。

  このように考えると、お経を読むときには必ずと言っていいほど「方便品」を読みますが、ただ漫然と読んでいるのではないか、『法華経』の精神を忘れて字面だけ追っているのではないかと反省させられます。明日からは自戒を込め気合を込めてお経を読み込んでいきたいと思います。





【私見】

  私は、唯佛与佛」とは唯佛与信」ではないかと考えています。与佛とは即ち与信であり、『法華経』を信奉する私たち衆生に他ならないと思います。したがって、唯佛与佛」とは如来と衆生の関係と言えるのではないでしょうか。如来の願いは私たち衆生が一日も早く、一人でも多く成就することを願っています。また、大乗仏教の要諦は「一切衆生悉有仏性」であり、それに気づきなさいと教えてくれているのが「唯佛与佛」でもあると思います。

  経文を紐解くと、それを読み解く箇所が随所に見られます。

・「方便品」の四仏知見(「入佛知見道」)

  ・「如来寿量品」自我偈の「毎自作是念…早成就佛身」

  ・「常不軽菩薩」の「我深敬汝等…当得作佛」    等々

 それでは私が如来になれるかといえば、決してそんなことにはならないと思います。

「仏の顔も三度まで」と言う言葉も
有ります三度と言う数に意味が有るのでは?

教えを聞くどれだけの真剣さが有るのか

解る人もいるから解いて下さいよ
解る人は如来だ!

法華経はいろいろな答えが出てくるモンスター経典だ!

私が私になれたのは
皆、必要でした!

自分と他人を区別している間は
諸法実相は解らない

同じ志を持った人の心は、同じ志を持った人の事は良く解る。.

梵天勧請に通じる


本来目的とは?

使命;自分の命の使い方


生かされている私に気がつき
存在意味と使命を身をもって実感すること。


化一切衆生皆令入仏道
誰でもが仏になれるのだ!!

そう信じて生きて行く


一人の例外も無く、皆、仏になれるのだよ
仏さまの大いなる御意志に従ってこの世に使命をもって遣わされたのだよと受け止めて、それぞれが前向きに生きて行きましょう。


  北原白秋「薔薇二曲」

                    1;薔薇ノ木二  薔薇ノ花サク。ナニゴトノ不思議ナケレド。
                  薔薇の木に  薔薇の花が咲くのは、何事の不思議は無いけれど

             2;薔薇ノ花。ナニゴトノ不思議ナケレド。照リ極マレバ木ヨリコボルル。光リコボルル。
             薔薇の花の咲く何の不思議も無い当然のことを当然と見過ごしてしまう、これは驚異な一大事
             ではないか?万物創世の息吹、水波の喩ー宇宙の大きな鼓動



                                  ◎羅什訳方便品の日本語訳

「仏の成就(じょうじゅ)せる所は、第一の希有(けう)なる難解(なんげ)の法にして、唯(ただ)、仏と仏のみ、乃(すなわ)ち能(よ)く諸法の実相を究(きわ)め尽くせばなり。謂(い)う所は、諸法の是の如き相と、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本末究竟等なり」

                      ◎梵文原典から日本語に翻訳(岩波文庫・法華経:岩本裕)

如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ。如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ



熱心な回答・解説を有難うございました。





※下記(p86-3)は86ページ3行目の意;平楽寺書店 法華経普及会 真訓両読妙法蓮華経並開結
漢字の出ないところは?となっています。ご容赦を

法華経講座-その2【方便品第二】


1
 方便品の流れ(概要)

 (1) 悟りの内容を説くつもりはありません。《世尊⇒舎利弗[1]

   @ 諸佛の智慧は甚深無量 → 聲聞(しょうもん)[2]辟支佛(びゃくしぶつ)[3]、不可解                                    (p86-3)

   A 吾、成仏後、無数の方便 → 衆生を引導 → 著を離れしむ

   B 唯佛()佛とのみが【諸法実相】(如是、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等《十如是》)を理解することができる。

   C ⇒ 説いてもムダ

   D (偈分で繰り返し)

      〔偈文のポイント〕 

・この法は示すべからず、言辞の相寂滅せり。諸餘の衆生類は、よく得解することあることなし。諸々の菩薩[4]衆の信力堅固なるものをば除く。(p89-5

・佛方便力を以て、示すに三乗の教を以てす。(p91-8

2) 何故ですか。そう言わずに、説いてください。《四衆[5]⇒舎利弗⇒世尊》

  @ 爾の時に舎利弗、四衆の心の疑いを知り、自らも亦未だ了らずして、佛に白して言さく、--(略)--唯願わくは世尊この事を敷演したまへ。

  A (偈文で繰り返し)

    (3) いや、止めておこう。《世尊⇒舎利弗》

       @ 止みなん止みなん復説くべからず。もし是の事を説かば、一切世間の         諸天及び人、皆當に驚疑すべし。
[1] 舎利弗---シャーリプトラ。十大弟子の一人。智慧第一。婆羅門の出身。懐疑論者サンジャヤの弟子であったが、目連とともに、250人を引き連れて集団改宗した。

[2] 聲聞---仏の教えを聴いて悟りを開くこと(あるいは者)

[3] 辟支佛---縁によって悟りを開くこと(あるいは者) 独覚ともいう。





[4] 菩薩---慈悲の心から、利他行によって悟りを開くこと(あるいは者)
[5] 四衆---比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷(この場合)聴聞していた人々






      (4) そう言わずに、説いてください。《舎利弗⇒世尊》(p96-3

        @ 世尊、唯願わくは之を説きたまへ、唯願わくは之を説きたまへ。

   A 所以は何ん、是の會の無数百千萬億阿僧祇(あそうぎ)[6]の衆生は、曽て諸    仏を見たてまつり、諸根猛利にして、智慧明了なり。佛の所説を聞き    たてまつらば則ち能く敬信せん。

  B (偈文で繰り返し)

5) いや、止めておきましょう。《世尊⇒舎利弗》(p96-8

  @ (偈文で繰り返し)

6) そう言わずに、説いてください。《舎利弗⇒世尊》(p97-4

       @ (偈文で繰り返し)

                        以上、【三止三請】

     (7) 3回も請われたのでは、説かざるを得ませんね。《世尊⇒舎利弗》
                                   (
p98-9

8) その時、聴衆のうち、5,000人が、世尊に一礼して、その場を去って行    きました。(p99-1) 【五千起去(きこ)

  @ 所以は何ん、此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを    得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。此のごとき失あり、    是を以て住せず。

      A 世尊黙然として制止したまわず。

 (9) 諸仏がこの世界に出現した理由は、衆生に「仏知見をかしめ」
    「し」「らしめ」「道にらしめん」がため。《世尊⇒舎利弗》
                              (
p100-9        【一大事の因縁】
【開・示・悟・入

       @ 諸佛世尊は、ただ一大事の因縁を以ての故に世に出現したまふ。

  A 諸佛世尊は、衆生をして佛知見を開かしめ清浄なることを得せしめ     んと欲するが故に、世に出現したまふ。

  B 衆生に佛知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまふ。

  C 衆生をして佛知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。

  D 衆生をして佛知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したま    ふ。






[6]阿僧祇---数えきれないこと。「?舎論」では1051乗の数(「岩波仏教辞典」p11

















































10) 仏の教えは、現在も、過去も、未来も【一仏乗】である。

《世尊⇒舎利弗》(p101-12

   @ 諸仏如来は但菩薩を教化したまふ。

   A 如来は但一佛乗を以ての故に、衆生のために法を説きたまふ。餘乗 の若しは二、若しは三あることなし。

   B 一切十方の諸佛の法も亦是のごとし。

   C 過去の諸佛も無量無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て、衆生のために諸法を演説したまふ。

    D 未来の諸佛の當に世に出たまふべきも、亦無量無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て、衆生のために諸法を演説したまはん。

11) なぜ方便力を使ったのかは、悪世だから。《世尊⇒舎利弗》(p104-8

   @ 諸佛は、五濁の悪世に出たまふ。 所謂、劫濁[7]・煩悩濁[8]・衆生濁[9]・見濁[10]・命濁[11]なり。

   A 劫の濁乱の時は、衆生垢重く慳貪嫉妬にして、諸々の不善根を成就するが故に、諸佛方便力を以て、一佛乗において分別して三と説きたまふ。

12) (8)以降について、偈文で繰り返し《世尊⇒舎利弗》

    〔偈文のポイント〕

@ 我が所説の法を聞くこと、乃至一偈においてもせば、皆成仏       せんこと疑いなし。(p109-2

A 若し我衆生に遇えば、儘く教ふるに仏道を以てす。無智の者は錯 乱し、迷惑して教えを受けず。我知んぬ此の衆生は、未だ曾て善本を修せず、堅く五欲[12]に著して、痴愛の故に悩を生ず。諸欲の因縁を以て三悪道[13]に墜堕し、六趣[14]の中に輪廻して、つぶさに諸の苦毒を受く。(p110-11

 B 是の如き人は度し難し。この故に舎利弗、我為に方便を設けて、諸々の盡苦の道を説き、示すに涅槃を以てす。(p111-11









[7]劫濁---時代の汚れ(「岩波仏教辞典」p383, 以下11まで同じ)

[8]煩悩濁---貪・瞋・痴などの煩悩が盛んに起こること   

[9]衆生濁---見濁・煩悩濁の結果として、心身が弱く、苦しみが多くなること

[10]見濁---人々が誤った思想・見解を持つようになること

[11]命濁---寿命が次第に短くなり、最低10歳にまでなること


[12]五欲---色(物)欲、声欲、香欲、味欲、触欲

[13]三悪道---地獄、餓鬼、畜生(悪業の結果として死後に陥る)(三善道---阿修羅、人、天)

[14]六趣---地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六道のこと

 C --(略)--乃至童子の戯れに(いさご)(あつ)めて仏塔と()る。是の如き諸人等に佛道を成じき。(p114-2--(略)-- 若し人散乱の心に、塔廟の中に入って、一たび南無佛と称せし、皆已に佛道を成じき。(p116-4                             【小善成仏】

 D 若し法を聞くことあらん者は、一人として成佛せずということなけん。(p116-12

 E 我始め道場に座し、樹を観じ亦経行して、三七日の中に於いて、是の如きの事を思惟しき。我が所得の智慧は、微妙にして最も第一なり。衆生の諸根鈍にして、楽に著し痴に盲いられたり。斯の如きの等類、如何して度すべきと。爾の時に諸々の[15]及び諸々の帝釈[16]---(略)--- 我に転法輪を請す。(p119-4《梵天勧請》

    F 即ち波羅?(はらない)[17]に趣く。諸法寂滅の法は、言を以て宣ぶべからず。方便力を以ての故に、五比丘[18]の為に説きぬ。是を転法輪と名づく。(p121-6

    G 汝等既已に、諸佛世の師の、隋宜方便の事を知りぬ。復諸々の疑惑なく、心に大歓喜を生じて、自ら當に作佛すべしと知れ。(p124-10

[15]梵王---梵天に同じ。元バラモン教の神で、ブラフマンが次第に擬人化された。仏典では、帝釈天と並ぶ諸天の長の位を占める。(「岩波仏教辞典」p945他)

[16]天帝釈---帝釈天に同じ。元バラモン教のインドラ神。仏教に取り入れられて、梵天とともに、護法の善神となる。(「岩波仏教辞典」p662他)

[17]波羅?(はらない)---ベナレス。インド北部の町。

[18] 五比丘---かつて釈尊が出家し、修行された時に、共に修業した五人の比丘

 


後記

第二回目の勉強会、ご住職を初め参加者の皆さま朝早くからスケジュール一杯のところ
疲れたのではないでしょうか。妙法蓮華経一部経二十八品全部終わるには何年か掛かる事と思います。
これも皆さんの協力が有って初めて達成できる事だと思います。
旧中村壇林日本寺では昔、学生が一階本堂で激論し近隣の人たちが二階からその様子を
見学したそうです。平沢壇林を自負する法友の会勉教会もそのような形になればと希望を
持っています。そこで学んだ事をそれぞれ持ちかえって社会に還元出来れば、この勉強会は
本当に意義のある物になる事でしょう。


第三回法友の会勉教会
妙法蓮華経譬喩品第三
日にち決定は猶予下さい。
皆の集まり易い日にちをと考えますと
土日で十八講前後が良いかと思います。
決定後速やかにご連絡します。
宜しくお願い致します。

                    妙法蓮華経。方便品。第二

爾時世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗 諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。
難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知。所以者何。仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣難解。舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。
種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。所以者何。如来方便。知見波羅蜜。
皆已具足。舎利弗。如来知見。広大深遠。無量無碍。力。無所畏。禅定。解脱。三昧。深入無際。成就一切。未曾有法。舎利弗。如来能種種分別。巧説諸法。言辞柔軟。悦可衆心。舎利弗。
取要言之。無量無辺。未曾有法。仏悉成就。止。舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。
第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。
如是相。如是性。如是体。
如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。
爾時世尊欲重宣此義。
而説偈言

 世雄不可量 諸天及世人 一切衆生類 無能知仏者
 仏力無所畏 解脱諸三昧 及仏諸余法 無能測量者
 本従無数仏 具足行諸道 甚深微妙法 難見難可了
 於無量億劫 行此諸道已 道場得成果 我已悉知見
 如是大果報 種種性相義 我及十方仏 乃能知是事
 是法不可示 言辞相寂滅 諸余衆生類 無有能得解
 除諸菩薩衆 信力堅固者 諸仏弟子衆 曾供養諸仏
 一切漏已尽 住是最後身 如是諸人等 其力所不堪
 仮使満世間 皆如舎利弗 尽思共度量 不能測仏智
 正使満十方 皆如舎利弗 及余諸弟子 亦満十方刹
 尽思共度量 亦復不能知 辟支仏利智 無漏最後身
 亦満十方界 其数如竹林 斯等共一心 於億無量劫
 欲思仏実智 莫能知少分 新発意菩薩 供養無数仏
 了達諸義趣 又能善説法 如稲麻竹葦 充満十方刹
 一心以妙智 於恒河沙劫 咸皆共思量 不能知仏智
 不退諸菩薩 其数如恒沙 一心共思求 亦復不能知
 又告舎利弗 無漏不思議 甚深微妙法 我今已具得
 唯我知是相 十方仏亦然 舎利弗当知 諸仏語無異
 於仏所説法 当生大信力 世尊法久後 要当説真実
 告諸声聞衆 及求縁覚乗 我令脱苦縛 逮得涅槃者
 仏以方便力 示以三乗教 衆生処処著 引之令得出

爾時大衆中。有諸声聞。漏尽阿羅漢。阿若隠陳如等。千二百人。及発声聞。辟支仏心。比丘。
比丘尼。優婆塞。優婆夷。各作是念。今者世尊。何故慇懃。称歎方便。而作是言。仏所得法。
甚深難解。有所言説。意趣難知。一切声聞。辟支仏。所不能及。仏説一解脱義。我等亦得此法。
到於涅槃。而今不知。是義所趣。爾時舎利弗。知四衆心疑。自亦未了。而白仏言。世尊。
何因何縁。慇懃称歎。諸仏第一方便。甚深微妙。難解之法。我自昔来。未曾従仏。聞如是説。
今者四衆。咸皆有疑。唯願世尊。敷演斯事。世尊何故。慇懃称歎。甚深微妙。難解之法。
爾時舎利弗。欲重宣此義。而説偈言

 慧日大聖尊 久乃説是法 自説得如是 力無畏三昧
 禅定解脱等 不可思議法 道場所得法 無能発問者
 我意難可測 亦無能問者 無問而自説 称歎所行道
 智慧甚微妙 諸仏之所得 無漏諸羅漢 及求涅槃者
 今皆堕疑網 仏何故説是 其求縁覚者 比丘比丘尼
 諸天龍鬼神 及乾闥婆等 相視懐猶豫 瞻仰両足尊
 是事為云何 願仏為解説 於諸声聞衆 仏説我第一
 我今自於智 疑惑不能了 為是究竟法 為是所行道
 仏口所生子 合掌瞻仰待 願出微妙音 時為如実説
 諸天龍神等 其数如恒沙 求仏諸菩薩 大数有八万
 又諸万億国 転輪聖王至 合掌以敬心 欲聞具足道

爾時仏告。舎利弗。
止。止。不須復説。若説是事。一切世間。諸天及人。皆当驚疑。舎利弗。
重白仏言。世尊。
唯願説之。唯願説之。所以者何。是会無数。百千万億阿僧祇衆生。曾見諸仏。諸根猛利。智慧明了。聞仏所説。則能敬信。爾時舎利弗。欲重宣此義。而説偈言

 法王無上尊 唯説願勿慮 是会無量衆 有能敬信者

仏復止舎利弗。若説是事。一切世間。天人阿修羅。皆当驚疑。増上慢比丘。将墜於大坑。

爾時世尊。重説偈言

 止止不須説 我法妙難思 諸増上慢者 聞必不敬信

爾時舎利弗。重白仏言。世尊。唯願説之。唯願説之。今此会中。如我等比。百千万億。
世世已曾。従仏受化。如此人等。必能敬信。長夜安穏。多所饒益。爾時舎利弗。欲重宣此義。

而説偈言

 無上両足尊 願説第一法 我為仏長子 唯垂分別説
 是会無量衆 能敬信此法 仏已曾世世 教化如是等
 皆一心合掌 欲聴受仏語 我等千二百 及余求仏者
 願為此衆故 唯垂分別説 是等聞此法 則生大歓喜

爾時世尊。告舎利弗。
汝已慇懃三請。豈得不説。汝今諦聴。善思念之。吾当為汝。分別解説。
説此語時。会中有比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。
五千人等。即従座起。礼仏而退。所以者何。
此輩罪根深重。及増上慢。未得謂得。未証謂証。有如此失。是以不住。世尊黙然。而不制止。
爾時仏告。舎利弗。我今此衆。無復枝葉。純有貞実。舎利弗。如是増上慢人。退亦佳矣。
汝今善聴。当為汝説。舎利弗言。唯然世尊。願楽欲聞。仏告舎利弗。如是妙法。諸仏如来。
時乃説之。如優曇鉢華。時一現耳。舎利弗。汝等当信。仏之所説。言不虚妄。舎利弗。
諸仏随宜説法。意趣難解。所以者何。我以無数方便。種種因縁。譬諭言詞。演説諸法。
是法非思量分別。之所能解。唯有諸仏。乃能知之。所以者何。諸仏世尊。
唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。諸仏世尊。欲令衆生。
開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。
出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。
出現於世。仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。
示悟衆生。
舎利弗。如来。但以一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三。舎利弗。
一切十方諸仏。法亦如是。舎利弗。過去諸仏。以無量無数方便。種種因縁。譬諭言辞。
而為衆生。演説諸法。是法皆為。一仏乗故。是諸衆生。従諸仏聞法。究竟皆得。一切種智。
舎利弗。未来諸仏。当出於世。亦以無量。無数方便。種種因縁。譬諭言辞。而為衆生。
演説諸法。是法皆為。一仏乗故。是諸衆生。従仏聞法。究竟皆得。一切種智。舎利弗。
現在十方。無量百千万億。仏土中。諸仏世尊。多所饒益。安楽衆生。是諸仏。亦以無量。
無数方便。種種因縁。譬諭言辞。而為衆生。演説諸法。是法皆為。一仏乗故。是諸衆生。
従仏聞法。究竟皆得。一切種智。舎利弗。是諸仏。但教化菩薩。欲以仏之知見。示衆生故。欲以仏之知見。悟衆生故。欲令衆生。入仏知見道故。舎利弗。我今亦復如是。知諸衆生。有種種欲。深心所著。随其本性。以種種因縁。譬諭言辞。方便力故。而為説法。舎利弗。如此皆為。
得一仏乗。一切種智故。舎利弗。十方世界中。尚無二乗。何況有三。舎利弗。諸仏出於。
五濁悪世。所謂劫濁。煩悩濁。衆生濁。見濁。命濁。如是。舎利弗。劫濁乱時。衆生垢重。
慳貪嫉妬。成就諸不善根故。諸仏以方便力。於一仏乗。分別説三。舎利弗。若我弟子。
自謂阿羅漢。辟支仏者。不聞不知。諸仏如来。但教化菩薩事。此非仏弟子。非阿羅漢。
非辟支仏。又舎利弗。是諸比丘。比丘尼。自謂已得。阿羅漢。是最後身。究竟涅槃。
便不復志求。阿耨多羅三藐三菩提。当知此輩。皆是増上慢人。所以者何。若有比丘。
実得阿羅漢。若不信此法。無有是処。除仏滅度後。現前無仏。所以者何。仏滅度後。如是等経。受持読誦。解其義者。是人難得。若遇余仏。於此法中。便得決了。舎利弗。汝等当。一心信解。受持仏語。諸仏如来。言無虚妄。無有余乗。唯一仏乗。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言

 比丘比丘尼 有懐増上慢 優婆塞我慢 優婆夷不信
 如是四衆等 其数有五千 不自見其過 於戒有欠漏
 護惜其瑕疵 是小智出已 衆中之糟糠 仏威徳故去
 斯人尠福徳 不堪受是法 此衆無枝葉 唯有諸貞実
 舎利弗善聴 諸仏所得法 無量方便力 而為衆生説
 衆生心所念 種種所行道 若干諸欲性 先世善悪業
 仏悉知是已 以諸縁譬諭 言辞方便力 令一切歓喜
 或説修多羅 伽陀及本事 本生未曾有 亦説於因縁
 譬諭竝祇夜 優婆提舎経 鈍根楽小法 貪著於生死
 於諸無量仏 不行深妙道 衆苦所悩乱 為是説涅槃
 我設是方便 令得入仏慧 未曾説汝等 当得成仏道
 所以未曾説 説時未至故 今正是其時 決定説大乗
 我此九部法 随順衆生説 入大乗為本 以故説是経
 有仏子心浄 柔軟亦利根 無量諸仏所 而行深妙道
 為此諸仏子 説是大乗経 我記如是人 来世成仏道
 以深心念仏 修持浄戒故 此等聞得仏 大喜充気身
 仏知彼心行 故為説大乗 声聞若菩薩 聞我所説法
 乃至於一偈 皆成仏無疑 十方仏土中 
唯有一乗法
 無二亦無三
 除仏方便説 但以仮名字 引導於衆生
 説仏智慧故 諸仏出於世 唯此一事実 余二則非真
 終不以小乗 済度於衆生 仏自住大乗 如其所得法
 定慧力荘厳 以此度衆生 自証無上道 大乗平等法
 若以小乗化 乃至於一人 我則堕慳貪 此事為不可
 若人信帰仏 如来不欺誑 亦無貪嫉意 断諸法中悪
 故仏於十方 而独無所畏 我以相厳身 光明照世間
 無量衆所尊 為説実相印 舎利弗当知 我本立誓願
 欲令一切衆 如我等無異 如我昔所願 今者已満足
 化一切衆生 皆令入仏道 若我遇衆生 尽教以仏道
 無智者錯乱 迷惑不受教 我知此衆生 未曾修善本
 堅著於五欲 痴愛故生悩 以諸欲因縁 墜堕三悪道
 輪廻六趣中 備受諸苦毒 受胎之微形 世世常増長
 薄徳少福人 衆苦所逼迫 入邪見稠林 若有若無等
 依止此諸見 具足六十二 深著虚妄法 堅受不可捨
 我慢自矜高 諂曲心不実 於千万億劫 不聞仏名字
 亦不聞正法 如是人難度 是故舎利弗 我為設方便
 説諸尽苦道 示之以涅槃 我雖説涅槃 是亦非真滅
 諸法従本来 常自寂滅相 仏子行道已 来世得作仏
 我有方便力 開示三乗法 一切諸世尊 皆説一乗道
 今此諸大衆 皆応除疑惑 諸仏語無異 唯一無二乗
 過去無数劫 無量滅度仏 百千万億種 其数不可量
 如是諸世尊 種種縁譬諭 無数方便力 演説諸法相
 是諸世尊等 皆説一乗法 化無量衆生 令入於仏道
 又諸大聖主 知一切世間 天人群生類 深心之所欲
 更以異方便 助顕第一義 若有衆生類 値諸過去仏
 若聞法布施 或持戒忍辱 精進禅智等 種種修福徳
 如是諸人等 皆已成仏道 諸仏滅度已 若人善軟心
 如是諸衆生 皆已成仏道 諸仏滅度已 供養舎利者
 起万億種塔 金銀及頗黎 凶技与碼碯 強瑰瑠璃珠
 清浄広厳飾 荘校於諸塔 或有起石廟 栴檀及沈水
 木樒竝余材 甎瓦泥土等 若於曠野中 積土成仏廟
 乃至童子戯 聚沙為仏塔 如是諸人等 皆已成仏道
 若人為仏故 建立諸形像 刻彫成衆相 皆已成仏道
 或以七宝成 鍮鉐赤白銅 白鑞及鉛錫 鉄木及与泥
 或以膠漆布 厳飾作仏像 如是諸人等 皆已成仏道
 綵画作仏像 百福荘厳相 自作若使人 皆已成仏道
 乃至童子戯 若草木及筆 或以指爪甲 而画作仏像
 如是諸人等 漸漸積功徳 具足大悲心 皆已成仏道
 但化諸菩薩 度脱無量衆 若人於塔廟 宝像及画像
 以華香旛蓋 敬心而供養 若使人作楽 撃鼓吹角貝
 簫笛琴箜篌 琵琶鐃銅焔 如是衆妙音 尽持以供養
 或以歓喜心 歌唄頌仏徳 乃至一小音 皆已成仏道
 若人散乱心 乃至以一華 供養於画像 漸見無数仏
 或有人礼拝 或復但合掌 乃至挙一手 或復少低頭
 以此供養像 漸見無量仏 自成無上道 広度無数衆
 入無余涅槃 如薪尽火滅 若人散乱心 入於塔廟中
 一称南無仏 皆已成仏道 於諸過去仏 現在或滅後
 若有聞是法 皆已成仏道 未来諸世尊 其数無有量
 是諸如来等 亦方便説法 一切諸如来 以無量方便
 度脱諸衆生 入仏無漏智 若有聞法者 無一不成仏
 諸仏本誓願 我所行仏道 普欲令衆生 亦同得此道
 未来世諸仏 雖説百千億 無数諸法門 其実為一乗
 諸仏両足尊 知法常無性 仏種従縁起 是故説一乗
 是法住法位 世間相常住 於道場知已 導師方便説
 天人所供養 現在十方仏 其数如恒沙 出現於世間
 安穏衆生故 亦説如是法 知第一寂滅 
以方便力故
 雖示種種道 其実為仏乗 知衆生諸行 深心之所念
 過去所習業 欲性精進力 及諸根利鈍 以種種因縁
 譬諭亦言辞 随応方便説 今我亦如是 安穏衆生故
 以種種法門 宣示於仏道 我以智慧力 知衆生性欲
 方便説諸法 皆令得歓喜 舎利弗当知 我以仏眼観
 見六道衆生 貧窮無福慧 入生死険道 相続苦不断
 深著於五欲 如叫牛愛尾 以貪愛自蔽 盲瞑無所見
 不求大勢仏 及与断苦法 深入諸邪見 以苦欲捨苦
 為是衆生故 而起大悲心 我始坐道場 観樹亦経行
 於三七日中 思惟如是事 我所得智慧 微妙最第一
 衆生諸根鈍 著楽痴所盲 如斯之等類 云何而可度
 爾時諸梵王 及諸天帝釈 護世四天王 及大自在天
 竝余諸天衆 眷属百千万 恭敬合掌礼 請我転法輪
 我即自思惟 若但讃仏乗 衆生没在苦 不能信是法
 破法不信故 墜於三悪道 我寧不説法 疾入於涅槃
 尋念過去仏 所行方便力 我今所得道 亦応説三乗
 作是思惟時 十方仏皆現 梵音慰諭我 善哉釈迦文
 第一之導師 得是無上法 随諸一切仏 而用方便力
 我等亦皆得 最妙第一法 為諸衆生類 分別説三乗
 少智楽小法 不自信作仏 是故以方便 分別説諸果
 雖復説三乗 但為教菩薩 舎利弗当知 我聞聖師子
 深浄微妙音 喜称南無仏 復作如是念 我出濁悪世
 如諸仏所説 我亦随順行 思惟是事已 即趣波羅刈
 諸法寂滅相 不可以言宣 以方便力故 為五比丘説
 是名転法輪 便有涅槃音 及以阿羅漢 法僧差別名
 従久遠劫来 讃示涅槃法 生死苦永尽 我常如是説
 舎利弗当知 我見仏子等 志求仏道者 無量千万億
 咸以恭敬心 皆来至仏所 曾従諸仏聞 方便所説法
 我即作是念 如来所以出 為説仏慧故 今正是其時
 舎利弗当知 鈍根小智人 著相隠慢者 不能信是法
 今我喜無畏 於諸菩薩中 正直捨方便 但説無上道
 菩薩聞是法 疑網皆已除 千二百羅漢 悉亦当作仏
 如三世諸仏 説法之儀式 我今亦如是 説無分別法
 諸仏興出世 懸遠値遇難 正使出于世 説是法復難
 無量無数劫 聞是法亦難 能聴是法者 斯人亦復難
 譬如優曇華 一切皆愛楽 天人所希有 時時乃一出
 聞法歓喜讃 乃至発一言 則為已供養 一切三世仏
 是人甚希有 過於優曇華 汝等勿有疑 我為諸法王
 普告諸大衆 但以一乗道 教化諸菩薩 無声聞弟子
 汝等舎利弗 声聞及菩薩 当知是妙法 諸仏之秘要
 以五濁悪世 但楽著諸欲 如是等衆生 終不求仏道
 当来世悪人 聞仏説一乗 迷惑不信受 破法堕悪道
 有慙愧清浄 志求仏道者 当為如是等 広讃一乗道
 舎利弗当知 諸仏法如是 以万億方便 随宜而説法
 其不習学者 不能暁了此 汝等既已知 諸仏世之師
 随宜方便事 無復諸疑惑 心生大歓喜 自知当作仏

妙法蓮華経巻第一




ホームページ戻る。

Copyright . Houyunokai Allrights Resreved.(不許複製)