第十三話『The Crossing』
頭の中が真白のまま霧生院綾芽は走り続けていた。上着を失い、また所々開いた服の隙間から容赦なく冷気が吹き付けてくる。それは綾芽の速度と相俟って気温を遥かに下回るような寒気を与えてくる。
だが、心地よくはないその寒気こそが正しいものであるのだと思った。どういう意味で正しいのかといえば、それは綾芽に苦痛を与えるものとして存在するのだから正しいのだ。最早どうでも良い。寧ろ身に振る感覚が苦痛だけならば良いとすら自虐的に思った。
やってはならないことを、何よりもやってはならない相手にやってしまった。その事実だけが綾芽の心を錆びた鋸で引いて行く。康斗と輝和がこんな時間に、何故あんなところを歩いていたのかなどはどうでも良い。問題なのは、その二人に気付かずとはいえ『力』を振るってしまったことだ。輝和は康斗が突き飛ばして射程外にいたが、康斗には確実に一撃加えてしまった。今まで必死に隠し通して来たものを、ついに自分の手で暴いてしまった。
それは綾芽の平穏に対する致命打に等しい。彼らが抱いたのが、嫌悪、憎悪、恐怖、どれにせよこれ以上あの場にはいられない。耐えられない。
早く、早く、自宅に帰らなければ。帰って、最低限の荷物を纏め、実家に帰ってしまおう。大学は後でどうとでもすれば良い。兎に角今はこの町を離れてしまうことだ。嘉峨は追ってくるかもしれないが、少なくともこの町で友人に顔を突き合わせる可能性を考えれば、瑣末だ。
河沿いを全力疾走する。慣れない道ではない。錯乱した頭でも、正確に自宅へのルートをなぞって走っていた。
馬鹿げている。黒木康斗は、走りながらそう自嘲した。
一つ。環境的な物。真冬の河原沿いを全力疾走。馬鹿げている。康斗は寒さを好まない。だから、それなりの厚着はして出て来たのだ。だが左肩の辺りは無惨に裂かれそこから夜の冷気が入り込んでくる。本来ならアパートへ帰り、熱い風呂を浴び、寝たいところだ。
二つ。状況的な物。『理由がどうあれ』、客観視すれば、好かぬ寒気の中を女を追いかけて走っている。馬鹿げている。まるで3文小説のシチュエーションだ。
三つ。能力的な物。身体的能力に関して常人に劣ってるとは思わないが、追いかけている相手は普通の――少なくとも単純な運動能力において――人間ではない。馬鹿げている。そも速力の勝った相手に追いつけるものか。
冷静に考えれば、この不毛な追走を止めて戻るべきだと容易に分かる。わざわざ横を見ずとも至近距離で誰かが走っている気配はない。輝和はついてきていない。恐らくあの血気盛んな後輩のことだ。彼女を『ああ』した相手を、それこそ殺しすらするつもりで残ったのかもしれない。
そして、その相手と言うのがあの黒コートの男であろうことはただ直感で確信している。奴でもなければ綾芽を、あの忌まわしき力を振るう者を、あそこまで追い込むことはできないだろう。想定外の相手などというのはそれこそ想定しがたい。いや、想定したくもない。春菜、綾芽、そして黒コート。あのような力を持つ者が、高々十八年の康斗の人生で三人も関わっている。
そういう星の巡りに生まれたのか、と現実主義者らしからぬ思考に至り、苦々しく歯を噛み締めた。そんな星が存在するなら四人目がいたとして自分と出会わないはずがない。ならば相手はあの黒コートに違いない、と強引に思考を括った。
全力疾走しながらも、康斗は思考をフルに回転させている。あの男と輝和が戦ったらどちらが勝つかなどと言うことには断を下せない。黒コートの力について知らず、また輝和の能力についても断片的にしか知らない。情報のない状態での想定は全く意味を為さない。
それでも確信した。何に拠るわけでなく、ただ直感で確信した。先ほどから論理の中に論理性を放棄しているような気もするが、この時点において唯一完全に信用できるのは、今まで違えたことのない彼の直感だけだ。何が劣っているわけであったり、何か欠点があるわけであったり、そのようなことを放置しても輝和はあの黒コートを打倒できはしないだろう。
だが考えるに詮無いことだった。向こう側についての思考を切る。輝和とて馬鹿ではない。勝ち目が無ければ逃げるだろう。逃げるはずだ。要は、輝和が足止めできなくなり、あの黒コートが綾芽を捕らえる前に、自分が綾芽を捕らえなければならない。それだけの話だった。
自分が戻って輝和に加勢するなどという選択は、それこそ最大限馬鹿げている選択だ。
彼は黒木康斗なのだから。自分が黒コートの足止めに留まり、輝和が彼女を追う、そんな運命は存在し得ないのだ。全ては必然。自分が彼女に出会い、そして今綾芽を追っていること。今必然から要求されていることは、この追走なのだ。それは当然のことであるが、彼の意思と合致している。
しかし彼女を追いかけたところで、単純な速度に於いて劣っている以上、このままでは追いつける道理がない。
何か良い手はないか。焦燥の中で、全ての思考力をそれに向ける。集中する。足を止めぬまま、目を綾芽とその周辺一帯に這わせる。そして自分の身体にも感覚を鋭敏に研ぎ澄ます。
相手との距離が開いていて、更に相手の速度の方が速い。この状態から追いつくためにはどうすればいいか。方法は幾つかあった。思いついたと言うほどのものですらない。
主立って、<相手の速度を落とす> <自分の速度を上げる> <移動距離を縮める>
どれを取るべきか。どれが取りうるか。考える必要もないことだった。
意識は常に前へ。無意識すらを意識で統制し、己が体すらも観察・統制すべき外部と見做し、最大効率を実現する。一歩、一歩ごとに康斗の動きの上下幅が小さくなっていく。腕は勢いを殺さない程度の動きに留められ、姿勢も無理の無い程度に極限まで前傾する。一歩ごとの歩幅を大にし、足を踏み出す速度を速める。それをするのに必要な筋肉だけに酸素を送るような幻想、また動きの無駄を限りなく削ぎ落として行く。
黒木康斗の精神は黒木康斗の肉体から剥離し、世界に溶融する。中に不動の目的のみを残し、その目的に不要な部分を限りなく希薄化させる。持てる能力の全てで以て、世界を意識で塗り潰して行く。
観察。綾芽の走っている道。足の方向。幾つか曲がり角。曲がる角と曲がらない角あり。
逃亡方向は確定している模様。
推察。あの格好では長期の逃亡は不可能。
逃亡には最低一度の帰還、必要な物を得る必要。
推察よりの結論。行先。
限りなく鋭利な目と冷静な頭で、それなりに強引な推論を展開する。結論は出た。
速度は上げ続ける。が、このままで追いつけるか否かは分の悪い賭けだ。自分の体力が尽きるのが先か、向こうの根気が尽きるのが先か。はたまた目的地にたどり着くのが先か。
同じ賭けならば、なるべく合理的だと思われるものを取ることにした。
綾芽は全力で走り続けた。肺が酸素を欲しがっている。筋肉が休息を求めている。だが、構わず足を動かし続けた。明らかにオーバーワークだ。
幸いなことにこの時間である。あれから誰にも出会わなかった。それまでが最低だったわけで、全く嬉しくもないわけだが。
自宅はもうすぐだ。これならば少し休み、多少身を正しても、始発電車でこの町を離れられそうだ。
離れたいわけではない。何しろ数年暮らし、数多く友人も作った町だ。許されるならば留まりたい。
だが、許されない。これ以上留まれば他の者まで傷つけてしまう。耐えられない。嘉峨のような相手に対してはそれほど罪悪感はなくとも、他の一般人や、とりわけ友人達――千春や、有志など――に闇の力を振るう自分の姿がふと頭をよぎり、戦慄した。
そしてその姿は決してあってはならない姿であるはずなのに、決してありえない姿ではないことを彼女は知っていた。無関係の人間を殺す力が親しい者に対しては働かないなどと、そんな都合のいいことがあるはずがない・・・・・・いや、そんなに都合のいい力であるはずがない。
つまり自分は爆弾のようなものなのだ。己の意思に関係なく、そもそも己の意思など存在せず、周囲の人を殺傷する恐れがある。爆発する前に処理しなければならない。
何故か足が止まった。
(ここは)
十字路を曲がった細い路地だった。街灯の明りもほとんどない。人通りもなく、まさに綾芽の闇が現れるにうってつけの場所。
否。現れた場所。
そこは他でもない、綾芽がクリスマス会の帰りに、男――未だにその名も知らない――を惨殺した路地だった。
一段と冷気が増している。
(止まったのではなく・・・止められたのかも知れませんね)
そうでもなければ、今の綾芽が足を止めた説明がつかない。恐らくはあの男の恨みだかそのようなものが、綾芽の足にでも絡みついているのではないか。
だが、綾芽は首を横に振った。死は取り返しがつかない。亡霊などいない。
(いたとすれば罪が許され得てしまうから)
死者に詫びる手段などが、この世に一つとて残っていていいはずがない。それでは殺人の重さを、科せられた頚木を保てない。
だが走れない。亡霊の存在を否定したところで、この動かない足は何だ。
「早くこの街から消えなければならないのに・・・・・・」
それは後悔なのだろうか。綾芽の殺した男に対し、または殺人という自分の大罪に対する負い目なのだろうか。だとすれば、この足を止めているのは綾芽自身以外ありえない。意識の綾芽が無意識の綾芽を統御できていない。
この場に留まり朝を待ち、警察に発見されるか、嘉峨に見つかるか、はたまた知らぬ人間に見つかるか。少なくとも、綾芽の罪悪感は安易な逃亡は許さないようだった。
だがそれでも。今取っている行動が、ただの逃げに過ぎないとしても。
「それでも、行かなければならないんです」
崩れそうな、悲痛な表情で天を仰ぎ。
風がざわめいた。
「何処に。」
背後から突如としてかかった声に、綾芽は前に大きく飛び退いた。飛び退いたはいいが、それ以上足が動かない。振り向きたくない。このまま走り去らねばならない。あれだけ走った直後より激しく心臓が拍動している。頭の中の血流が凍りついた気がした。
その声はよく知った者の声だった。そして、こんなところにいるはずのない者の声だった。そして何より、
ついさっき綾芽が傷つけた者だった。
「霧生院さん。どこに行くんですか・・・」
「康斗、君」
振り向くまでもなかった。声に怒気も何もなく、常と変化ないのだから、二度も聞けば間違いなく理解できる。
黒木康斗。無論忘れてなどいない。彼女があの力を振るい、そして刻み付けてしまったのだから。
このまま走り去りたい衝動をあらん限りの根性で押さえつけ、振り向いた。
矢張り見慣れた顔がそこにあった。いや、少し違う。いつもはやぶ睨みに近く細められた目が開いている。雰囲気が少し変わっているのはそのせいだろう。肩で息をしているところを見ると、走ってきたらしい。
だがそのようなことよりも、何故。何故こんなところに康斗がいる。
自分は、忌まわしいあの力を振るって、彼に傷を負わせたというのに。
自分は、忌まわしいあの力すら使いながら、全力で走り続けていたと言うのに。
そんな綾芽の内心を読んだかのように、息を整え康斗は語りだした。常と変化ない、静かな口調で。
「どこに行くと言うんです、霧生院さん。答えてください。」
問われて、だが綾芽は質問には答えなかった。代わりに呟く。
「肩。無事だったんですね・・・・・・」
綾芽が見ていたのは康斗の肩だった。痛々しく切り裂かれた肩口から血は流れていない。康斗は軽く肩をすくめて、
「高水の奴が治してくれましたよ。まったく便利な力です、あの魔法とかいうのは。素晴らしい。便利不便という以前に素晴らしい。ねぇ霧生院さん?そうは思いませんか?」
そこまで一息で話して、一拍置いた。
そして、話を振られた綾芽が話す前に続けた。憎憎しげに、藪睨みなどではなく、視線で射殺すように睨んで。
「誰かさんの力と違って。」
身が裂かれる思いだった。心が引き裂かれる視線だ。憎まれている。怨まれている。何よりも終わっている。霧生院綾芽に終止符を打つ。
脱力して崩れ落ちそうになるのを押さえ、尋ねる。最早理解した。康斗が綾芽を追いかけた理由。
いや、理解していなかったわけではない。理解したくなかっただけなのだろう。
「追いかけて来た理由は、報復ですか・・・?」
返答は即答だった。
「まさか。そんなことをしてどうなるというんです。傷も残っていない、恨みもない、それでいて復讐?そんなことをするほど馬鹿じゃない。理由は単純、霧生院さんが逃げるからですよ。逃げたから追いかけた、それだけです。」
言葉に偽りの影はなく。あまりに単純に過ぎ、説明するほどの複雑な理由などなく、からかわれているようですらあり、綾芽の想定していた返答に比べれば、軽すぎる冗句のようで。
堰が崩れた。
「だから・・・・・・・・・だからどうだっていうんですか!」
叫んだ。ここが街中だということも真夜中だということも逃亡中だということも最早念頭になく、ヒステリックに叫んだ。
「霧生院さん・・・・・・・?」
訝しむ康斗の声にすら耳を傾けず、泣き叫ぶように喚き散らす。
「逃げたから追いかけた?は、何様ですか貴方は!私の保護者ですか!所有者ですか!なんで放って置いてくれないんですか!見たでしょう?貴方の肩を切り裂いたのは私です。痛かったでしょう?あれが私の力です。化け物でしょう?だというのに何故追って来たんですか!馬鹿ですか貴方は!今度は傷じゃすまないかもしれないんですよ?!私は・・・・・・・・・。」
大声で叫び、息を切らし、次の句を続けるのを躊躇い・・・・・・・・・
続けた。
「私は人殺しです。クリスマスの日に発見された死体は、私がここで作り出したものです。このままだと貴方も殺されてしまいますよ、この殺人鬼に。」
自棄気味に言い放つ。無論康斗を殺す気などはない。が、そんなことを今更言ったところでどうなるというのか。自分は殺人鬼なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
腕を振るった。力を解き放つ。全く加減することなく、地面に向けて。
斬、と音がして、深い溝が綾芽と康斗の間に刻まれた。
冷静さを取り戻し、否、冷酷さを装い冷たく言い放つ。
「これ以上追って来ないでください。迷惑ですから。この溝を超えたら例え貴方でも・・・・・・殺します。」
言い放って踵を返した。ここまで脅しておけばもう追ってくることはないだろう。康斗に動く気配はなかった。最低な解決策ではあった。だが、これ以上を望むべくもない。そもそもが最低の状況なのだから。
だが、綾芽は最後の最後で過ちを犯した。動かない康斗に振り向かずに話す。
「安心してください。もう二度と貴方たちの目の前には現れませんから。」
綾芽はこれから自分が取る行動を話しただけのつもりで、それを聞けば被害者であるところの黒木康斗は、安堵できるだろうと・・・・・・そう思っていた。
だから、康斗に背を向けていた綾芽には見えなかった。見えず、感じず、分からなかった。
だから、横からのその一撃をまともに喰らうことになった綾芽は、避けることはおろか反応すらもできなかった。
パンッ
右頬に鋭い痛み。平手で打たれたのだと気付いたときには、相手と目が合っていた。
激怒の形相。どれほどのものかといえば、綾芽が一歩後ずさるほどのものだった。身長は相手の方が若干高いが、視線の高さは綾芽と同じ・・・・・・上目気味に睨んでいる。黒木康斗。霧生院綾芽の知るどの黒木康斗とも違う、瞬間的に別人であると確信しかねないほど違う、黒木康斗がそこにいた。
たった今綾芽を張り飛ばした右手を綾芽の肩にあて、乱暴に突き戻した。未だ錯乱している綾芽は数歩たたらを踏んで押し戻された。
「・・・・・・・・ろよ。」
聞き取れない程度の声で康斗が呟いた。
当惑していて理解していない綾芽と対峙し、もう一度、今度は怒鳴った。
「やってみろよ!やってみろと言ったんだ殺人鬼!殺せるものなら殺してみろ!」
口調すらも違う。こうも激しい気性の少年だったか、康斗の過去を知らない綾芽には理解できるはずもなかった。その当惑など路傍の石程度にすら気に留めぬ勢いで、語気自体は弱めながらも続けた。
「ほらやってみろ。殺さない限りあんたはここを通れない。俺は絶対にあんたを通さない。縛り付けて自由を奪ってでも俺たちの前から消えることを許さない。さあ!通りたければ殺してみろ!」
大股で詰め寄ってくる。それほど間が空いているわけではない。三歩もすれば触れるほど近づくだろう。
一歩、左足。
二歩、右足。
そこで綾芽が一歩踏み出した。合計三歩分。距離は一気に詰まった。綾芽は錯乱しながらも、康斗の異常は冷静に受け止めていた。異常というのはおかしいのだろう。恐らく康斗にとってこちらが本来であって、いつも見せている冷静淡白な黒木康斗という像は意図して被っていた仮面なのだろう。そして、今の康斗はその仮面を被れないほどに、何故だかはわからずとも・・・・・・そう、追い詰められている。
追い詰められた人間ほど恐ろしい者はない。それは綾芽の二十数年の人生ですらも真理として受け入れられるほどのことだ。追い詰められた人間はそれ以上下がることができないが故に、持てる力の全てを前進する方向に傾ける。別段普段加減していない人間でも、余剰として存在する力は決して小さいものではない。正しく背水の陣。こういう相手に対して見縊って動くことは非常に危険なのだ。
いいだろう、やってみろと言うのならばやってやる。無論殺す気などはないが、それでもこれ以上追ってこれない程度に痛めつける必要はある。綾芽はそう決断した。自らの手で友人を傷つけるのは心苦しいが、それでもこれ以上追跡されることに比すれば自分のためにも康斗のためにも良いはずだ。そう自分に決断を下した。
当然死に至るほどのダメージや回復不能な障害を与える気はない。だから綾芽は『力』ではなく、殺法を用いることにした。殺法とて殺人技能には代わりないが、こちらはまだ制御できる。そして厳密に急所を狙う技であるため、そこから少しずらしてやれば致命打は免れるはずだ。
無防備に大股で詰めてくる康斗に、馴れた動きで絶妙な間合いを取り、鉤爪と化した左手の指を康斗の右脇に押し当てる。切り裂く必要はない。動けない程度に痛めつければいい。それを何度も念じた。そして爪に意識を送る。
三歩、転調、右足。
康斗の速度がいきなり変化した。綾芽が爪を引くのと同じ速度まで加速、その勢いで顎目掛けて掌底を突き出す。結果体勢が前後に伸びることになり、綾芽の爪は目標を見失い空を裂くに留まった。
驚きながらも体をのけぞらし、紙一重で掌打を避ける。動き自体は素人だが、それでも速度さえあれば十分な打撃となる。受けるわけにもいかなかった。
だが、不自然な動きの中で繰り出された攻撃は、康斗にほんの僅かな隙を作った。そしてその隙は綾芽が乗じるには十分すぎるほどの隙だった。当然その隙を逃さず、綾芽はがら空きの腹に右手を叩き込んだ。そのまま体重をかけて、康斗を引き摺り倒す。
「ぐっ・・・・・・」
狭い路地だ。思い切り壁に叩きつけられ、苦痛に顔を歪めた康斗を見下すようにして傲然と立つ。吐き捨てる。
「だから言ったでしょう?私は殺人鬼なんですよ・・・貴方では止められません。」
だが康斗からの返答はなかった。息が一瞬詰まり、返答ができない状態にあったというわけではない。言葉での返答はなかったというだけで、行動としての返事はあった。
素早く立ち上がり、ワンステップで大きく距離を取る。無論綾芽の行く手を遮るように。我慢をしているのかはたまたもうダメージがないのか、苦痛の色は全くない。
一瞬の攻防ではあるが、実力差を知らしめるには十分な一瞬であったはずだ。だが康斗の顔には悲壮感も無ければ覚悟の色すらもない。まさか理解できていないというわけもあるまい。それほど康斗が愚かだとは思っていないし、ましてや圧倒的なまでの不利を考慮にいれても希望を失わないほどの楽天家だとも思わない。不審ではあったが・・・・・・
考え直した。今の康斗は、綾芽が今まで見たことのある黒木康斗ではない。何にかはわからないが、追い詰められている状態だ。ならば常と同じような判断基準で動くとも限らない。
そうだ、そもそも自分の方が戦力的に勝っている。相手が何を考えていようと、それを無視して打倒するだけの戦力を自分は保持している。何より早くこの街を離れたい。
一秒たりとも、こんなところで足止めを食っている時間はないのだ。腹を括った。
「・・・・・・・次で終わりにします。」
告げてから最高速で走り寄る。言葉通り、速攻で終わらせるつもりだった。反応される前に足を叩く。歩けないほどに痛めつけずとも速度は確実に鈍り、自分がこの地を離れるのには十分な時間は稼げるだろう。それで全て終わる。
終わる、はずだった。
ほとんど倒れんばかりの前傾姿勢を取り、自由落下速度に自らの加速力を加えて振るわれる綾芽の左腕。常人ならば反応すらできない、そのように想定された速度。だが、その一撃が康斗に届く前に――
「かっ・・・・・」
息が詰まった。手首に激痛が走っている。無理矢理加速を停止され、戸惑う間もなく地面に叩きつけられた。
無論、自分の仕掛けた攻撃でバランスを崩して倒れるような綾芽ではない。繰り出した左手首を掴まれ、上から体重をかけられたのだ。
「綾芽さん、それでは俺を殺せない」
依然体重をかけ綾芽の動きを制限しつつ、冷静に勧告した。
あまりにあっけなく勝負は決まったようだった。殺法に限らず、うつ伏せに倒された状態から威力ある打撃を放つことは不可能。左手は掴まれている。右手は自由だが、せいぜい皮膚を引っ掻くくらいしかできまい。動いて加重を避けようにも、こちらの動きに合わせて的確に相手も体重移動している。八方手詰まり。完全に組み敷かれている状態だ。
アスファルトの冷気で頭が少し冷えたのだろうか、綾芽は今更ながら自分の失策を知った。最初の攻防のとき、確かに綾芽が圧倒的優勢であったが、思い返せば第一撃は外していたのだ。しかも大きく避けられたわけでなく、速度を同一にすることによる無効化。二つ、気付くのが遅かった。
一つ。康斗は綾芽と同じ速度で動くことができた。
一つ。康斗は綾芽の攻撃を見た上で対処していた。
前者に関しては想定しても良さそうなものだった。闇の力を使っていない以上、殺法の訓練で常人以上の身体能力を持っていたとしても、綾芽の身体能力自体は常人より少し秀でたくらいでしかない。速度は決して圧倒的とは言いがたい。
だが後者は。相手の行動を見て行動すること自体は誰でもすることではあるが、一瞬の攻防で即応的に対処行動を取るというのは恐ろしいことだった。先ほどの場合、加速するのが遅ければダメージの軽減はできてもダメージ自体は受けただろうし、早すぎると正面衝突して終わりだ。ダメージを受けず攻撃行動に移るには、綾芽が動いてからダメージを受けるまでの刹那に行動しなければならない。なんという観察眼、また反応の速さか。少なくとも綾芽は、そういう相手と戦ったことはなかった。
そんな綾芽の後悔を尻目に、組み伏せたまま康斗は話し続けた。
「そもそも綾芽さん、俺を殺す気がないんだろ?腹に当てたときに、あの力を使えば今頃俺は死んでるんだ。」
ばれている。恐らく一番の失策はそこなのだ。殺すための能力を殺さないように用いたこと。確かに殺法は制御が効く。が、元来は相手の急所を突き破って殺害するための技術なのだ。それを基本的な動きだけを転用し、ただの打撃で運用する。殺法の洗練された一撃必殺の概念に対して、あまりに効率の悪い行動だった。かといって闇の力を使えば康斗を殺してしまう。それは避けなければならなかった。
つまり戦力差などの問題以前に、殺人鬼である自分が殺さない戦いをしなければならない時点で結果は見えていたのかもしれない。
「それで・・・・・・康斗さん、貴方は私をどうするつもりですか?先ほど言ったように、縛りつけ自由を奪い、一生監視でも続けますか?そうして私が狂って行く様でも見物して楽しみますか?」
自嘲気味に呟く。逃げられないのだ、もう。康斗に逃がす気がなく、自分が逃げるときには必ず対立せねばならない。そして対立すればこのような結果になることは、自分が不完全な殺人鬼である以上は明らかだ。
そして自由を奪われ、精神的に極限に置かれ、闇の力が制御できなくなれば・・・・・・確実に康斗を殺して自由を得るだろう。だがそのとき既に霧生院綾芽は生きておらず、ただ一匹の殺人鬼が枷を失い世に出るだけだ。終焉。何れにせよ霧生院綾芽はここで終わった。
身体から力が抜ける。最早どうでもいい。終わってしまったのだから、どうでもいい。
だが自棄になった綾芽に、嘆息してから康斗が告白した。
「俺の知人にも人殺しがいる。貴方と同じような妙な力の持ち主だった。」
いつもの口調で康斗は淡々と語る。
「6年前の冬、俺は北岡にいた。覚えてると思うけど、連続殺人事件のときだ。死んだのは6人。いずれも常軌を逸した惨殺死体。多分誰も、言えば思い出すくらいの事件だとは思う。逆を返せば言われるまで忘れてるような、ね。」
康斗は淡々と語る。
「俺は覚えてる。多分これからも忘れない。何故なら、あの事件を起したのは俺の大切な人で俺は7人目になるはずだったから。」
淡々と語る。
「詳しい説明は省くが、あのとき俺も殺されるところだった。既の所で彼女が気付いたから殺されなかったが。」
語る。
「今の貴方と同じさ。彼女も、自分が人殺しだと俺にばれて逃げようとした。そして実際に逃げた。もう二度と遭えない。」
何時もと同じように。
「間抜けだろう?俺が生涯で一つだけの失敗を上げるとしたら、あのときだ。あのときほんの少しでも怯えを見せなければ、もしかしたら彼女もいなくならなかったかもしれない。」
何時もと同じように康斗は。
「一応弁解しておくが、決して彼女が人殺しだと知ったからって、彼女に怯えたわけじゃないんだ。近くにあった死体が怖かったんだよ。でも、今更そんなことは大したことじゃない。結局彼女はいなくなった。」
何時もと同じように康斗は語っている。
「ほんとにどうでもよかったんだ。彼女が人殺しでも、彼女がどんな化け物だとしても、全部ひっくるめて肯定できるくらいに彼女が好きだった。」
何時もと同じように康斗は語っているのに。
「なあ、綾芽さん・・・・・・・・彼女に置いて行かれたときの俺の気持ち、分かるかい?」
何時もの見る影もなく、悲痛な表情なのは何故だろうか。
ふと加重が弱まる。茫然としている綾芽の手を取り立たせ、続ける。
「あのときと同じくらい今は楽しいんだよ。朱音さんがいて、野々上がいて、高水がいて、そして綾芽さん、貴方がいて。頼むから、消えるとかそんなこと言わないでくれ。もう二度と、あんな結末は見たくないんだ。」
それは紛れも無く懇願だった。或いは告白だった。何時も受動的に連れ回されてばかりいると思っていた康斗が、ある意味最も今の関係を楽しんでいた。だが、綾芽がいなくなることでそれが崩れてしまう。黒木康斗は、確かに追い詰められていた。今になって綾芽はその理由を知った。
だが、だからこそ。
綾芽も本心を告げた。
「でもね康斗君。私は人殺しなんですよ。もう何人も殺しました。きっとこのままだとまだ殺すでしょう。今は何とか抑えていますが、貴方たちでも殺すかもしれない。よしんば貴方や輝和君はは殺せないにしても、有志君や千春さんは確実に殺せてしまう。そして、そうしないという保障は私にもできないんです。厭でしょう、そんなのは・・・・・・・・・?」
「だから、消えると?」
「はい。そうすれば、少なくとも私以外は全く変わらずにいられます。私だって殺したくはない、けどそれでも殺してしまうんです。ええ、貴方の言う通り忌まわしい力です。私の意志は関係なしに、夜になると人を殺したがるんですよ。」
項垂れる。ここまで人に話したのは初めてだ。そして、話してみて更に自己嫌悪に陥った。最悪ではないか。自分の意思で行う人殺しよりも性質が悪い。殺す者を確定して行うようなものでなく、突発的、無差別の殺人行為だ。正しく通り魔、殺人鬼と呼ぶにこれ以上のものがあるだろうか。
「多分、その大切な人も・・・・・・そう思ったからこそ貴方の前から姿を消したのだと思います。」
同じように闇の力を持つ者だからだろうか、気持ちはよく分かるような気がした。嘉峨のように開き直ることができたのならば話は別だろうが、自分や恐らくは康斗の大切な者のように常識に根ざした価値観を保っている者には、地獄のような力ではないか。無関係な者、大切な者、残さず一切合財を殺戮する。或いは、その地獄に耐えかねると嘉峨のようにもなってしまうのではないか。殺したい、殺したくない。この葛藤を克服するための唯一策が自分の価値観を捻じ曲げることだと言われても納得しかねないほどの、地獄。
そこまで静かに聴いていた康斗が、口を開いた。本気で不機嫌な口調だった。
「言いたいことはそれだけか?」
「え?」
「言いたいことはそれだけか、と聞いたんだ。殺したいのに殺し始める?ふざけるな。今俺を殺さなかったんだから、これからだって殺さないですむはずだろう。それこそ気が狂うまで足掻け。あいつらを殺させる気もないし、だからといって綾芽さんがいなくなるのを許容するつもりもない。殺したいというのなら俺が殺させない。抑えられないと言うなら俺が抑えてやる。俺は俺の視界内を乱す奴に容赦はしない。」
無茶苦茶だった。だが、次の一言は更に無茶苦茶だった。
「そして俺の視界外なら何がどうなろうと許容してやる。殺したければ殺せ。但し、俺の知人とその知人以外を、俺の視界と知人の視界の外でだ。彼女も6人殺したけど、全員観光客で一人として知った顔はなかった。一人として顔見知りを殺してはいないんだよ。きっと大丈夫だ。」
これには綾芽も呆気に取られた。康斗は確かに闇の力を否定した。しかし、それを飽くまで康斗の世界の中だけで。決して殺人衝動を否定せず、綾芽の存在を肯定した。だが異常ではないか。いくら知人や経験が異常だからといって、普通の学生である康斗があっさりと殺人を肯定してしまう。余りに異常過ぎる。
だがその不審を問う前に、康斗は続けている。
「それでも消えると言うなら。」
ポケットから何かを取り出し、冷たいものを綾芽の右手に握らせた。そしてそのまま右手を持ち上げ、自分の首に宛がう。
「俺を殺してから行け。あの力に頼らないで。あの力のせいにしないで。綾芽さん、貴方自身の意思で俺を殺してから何処へでも行ってくれ。」
「え?」
「言っておくが俺は正気だし死にたがりじゃない。だけど」
告げた。目を合わせて。
「あんな思いをもう一度するくらいなら死んだ方がましだ。」
明らかに本気の目だった。右手を見れば、折りたたみ式の小刀があった。刃は出ていて、康斗の首筋にぴったり当てられている。
「な、な、な・・・・・・・・・」
唇が震えている。言葉にならない。霧生院綾芽は、このとき初めて
他人を、恐ろしいと思った。
康斗の発言には何の気負いも恐怖もなかった。この場で死ぬのを許容すらしているように。
「ほら、少し力を入れるだけで殺せる。しっかり研いであるから。それともきっかけが必要?」
などと言いながら、綾芽の手に力を込める。皮が一枚浅く切れて、血が少し滲んだ。
「な。良く切れるだろ。殺す気になればすぐに殺せるよ。どうだ?俺を殺せるか?」
綾芽は答えない。手も動かさない。頚動脈を掻き切ることもしなければ、小刀を康斗の首から外すこともしなかった。そのまま呆然と立ちつくしている。
それを見て、康斗は満足そうに頷いた。
「ほら、殺せない。綾芽さん、大丈夫だよ。能力的に殺せるかどうかはさておいても、俺とか高水とか野々上とか朱音さんとか、親しい人間は殺せないんだよ。今ので証明できたと思うけどどうだろう。」
淡々と続ける。立ちつくす綾芽の手から小刀を取り、刃を仕舞うとまたポケットに突っ込んだ。
それからしばらく考え込むように目を瞑ると、軽く目を開いてから呟いた。
「さて、と・・・・・・・・・」
ぐらり、と
「康斗君っ?!」
大きく揺れて綾芽の方に倒れこんだ。はっと気付いた綾芽に支えられ、危うく地面と激突を免れる。そのまま膝をつき、頭を垂れる。
そして何時もの口調に戻って小声で呟く。
「ちょっと疲れたみたいなので、すみませんが霧生院さん、運んでもらえませんか?うちの鍵は・・・・・・これですので。」
大儀そうにポケットからキーホルダーも何もついていない鍵を取り出して渡すと、一言だけ言った。
「ちなみに現在気温はマイナス2度でした。放置されたら死にますよ・・・・・・・・」
それきり動かなくなった。細身とはいえ、力の入っていない人間の体重は決して軽く感じられるものではない。だがそれを受けている綾芽は、憑き物が落ちたように苦笑しながら一人ごちた。
「それでは脅迫ですよ、康斗君。」
慈母の如き表情で。
昏いしこりは残したまま。
続く
あとがき
お久しぶりです、emp.です。
相ッ当ぶりにリレー小説第十三話「The Crossing」、お届けします。
前回が(03/6/30)ちゅーことは・・・・・・半年ぶりですかこれ?!マジデスカ?
もう相当書いてなかったから書き方とか全然忘れてたし・・・・・・
で、それだけ時間をかけて肝心の内容ですが。全然ダメダメですね。
無駄に重いです。無駄に文章長いです。無駄に支離滅裂です。
駄文です誰か文才を下さい_no
・・・・・・・天の声が聞こえました。『無理じゃボケ』と。
正直リハビリがてらというのはあるのですが、駄文ながらお付き合い頂けたことにお礼申し上げます。
それでは次のエミリオンさんにお渡しして締めたいと思います。
次回回ってきたら神速復活+質向上したいなぁ(´・?・`)
emp.