いつか優しい風が吹く

第二話
第三話
第四話
第五話
第六話
第七話
第八話
第九話
第十話
第十一話
第十二話
第十三話
第十四話
最終回

第一話:条件
「ねぇ、結婚しよ!」
「え!?」
「あたしたち、もうかれこれ同棲し始めて二年は経つでしょ。
結婚しないほうが変よ。
親や親戚の目も気になるし」
「・・・」
「なによぉ、あたしのほうが10歳も年上なのが気になるの?」
「あのなぁ。そうじゃなくって」
「じゃあ、何よ」
「俺は役者になるためにまだ修行中の身だし、まだ結婚は考えてないよ」
「だって」
「自分の立場がまだ未熟で独り立ちしていない。
仕事がちゃんと出来、安定した収入が入るようになってから、にしたいんだよ」
「・・・」
「愛しているから、籍も入れたいとは思うけど、まだ時期尚早だよ。
役者としてそこそこにはならないと」
「あなたはあたしの立場を分かっていない」
「なんでだよ」
「いまも、これからさきも、ずーっと親や友達にそうやって説明しつづけるの?
今だって彼との事を聞かれると辛いのよ!
あなた女の気持ちなんか分からないでしょ!
・・・式を挙げるともなればお金も要るけど、
籍入れるぐらい、今でも出来るでしょ!」
「そういう問題じゃないんだよ」
「他に好きな人でもいるんでしょ?」
「違うよ」
「第一、あなたが役者としてそこそこの収入が得られるなんて、一体いつよ!
それまであたしは待っていなくちゃいけない訳?
いつまでよ!何年よ!具体的に答えてよ!」
「無茶言うなよ!役者として一人前になるか、
あるいは麻衣子に子供でも出来るか、そういった事態でもないと考えられないよ」
「・・・」

第二話:山積する問題

あたしはもともと、浩司の子供は欲しかった。
だけど、未婚のまま身ごもるとなると話は別・・・
いや、もっと深刻な問題があった。
今まで出産した事がない。
今度子供を産むとなると、初産となる。
だが、あたしはもう38歳である。
立派な高齢出産である。
30を少し過ぎたくらいならともかく、
38にもなると、様々な危険が伴なう。
どれだけ勇気が要ることなのか、男の浩司には分かるまい・・・。
経済的な問題も無論ある。
あたしは若くない。
若ければともかく、若くないこの体に対する出産のダメージは甚大。
それを考えると、どうしても、産前産後合わせて一年は仕事を休みたい。
でも、今のあたしの職場でのポジションを考えると、現実、一年も休めるのか?
休めたとしても、小さな会社。
その間の収入は?
浩司は劇団で準劇団員としてやっていくかたわら、アルバイトをしているだけ。
到底、浩司を経済的に当てにする事は出来ない。
かといって、無理して仕事を続ければ、あの激務に胎内の子供が耐えられるはずもない。
子供が流れてしまう・・・。
それに、そうした危険な妊娠を続けていくうちにもしもの事態が起こった場合、どうするのか。
あたしの実家や親戚は沖縄に居り、すぐには駆けつけられない。
浩司の実家・親戚とは折り合いが悪く、支援は望めない。
浩司は先述の状態であり、忙しくてすぐには来られない。

第三話:彼の気持ちの行方

様々な問題を抱えたまま、結局避妊せずにセックスするようになった。
先述の理由もあるが、
それだけではない。
彼を繋ぎとめておくにはこれしかない、と感じている。
 
彼を失いたくない。
でも、いずれ彼はあたしなんかより若くてもっとふさわしい女性のもとへ行くだろう。
もしも子供がいれば、彼は思いとどまってくれるかもしれない・・・。
 
浩司の腰をマッサージしながらその事を伝えると、彼は短く「そう」とだけ答えた。
「浩司、もしもあなたが他の人を好きになったら、その人のところへ行ってもいいからね。
    そのかわり、ここから出て行く前に、あたしに子種をちょうだい。
    あたし、あなたの子供と二人で生きていくから。もしもだけどね」
「・・・・・・うん・・・」
 
浩司の背中に冷たいしずくが落ちた。
浩司は背後の麻衣子の方を振り向き、
「麻衣子!泣いてるの?」
うつむいたまま「泣いてない」と答えた。
「泣いてるんだろ!」
「泣いてない!」
浩司は仰向きになり、両手を差し出して「こっちへおいで」と言った。
行けるわけない。
浩司は「こっちへおいで!!」と怒鳴った。
うつむいたまま、前へ進んで浩司の胸に顔をうずめた。
「俺に顔を見せて」
観念して顔を見せた。
「やっぱり泣いてるじゃない・・・」
「浩司がその内この家から居なくなるって考えたら・・・」
「バカ・・・そんな事考えるなよ!」
彼が涙を浮かべて抱きしめてくれた。
 

第四話:痛い思い出

いやな夢を見た。
かつて、2人の男性と同時に不倫を行い、妊娠。どちらの子かも分からない子供を中絶していました。
そのときのことが眠っている私の頭の中でリフレイン・・・。
 
浩司にその事を話した事もありましたが、
やはり、浩司は激しく取り乱した。
無理もない。
自分が逆の立場だったら、やはり同じ反応を見せたであろう。
ヘビーだったに相違ない。
 
子供が出来たら、二人の男は逃げるように逢ってくれなくなった。
悩んだ末にお腹の子供を堕胎し、
男達にも別れを告げた。
辛い経験だった。
それが、浩司と出会う一年ほど前の事である。
 
その頃の写真などを見ると、浩司は不愉快そうな顔をした。
 
そんな折、自分の体に異変を感じた。
病院で検査してみると、妊娠していた!
 
浩司にその事を伝えると、彼はすぐ、
「結婚しよう」
と言った。
「こんな状態で?」
「約束しただろ?麻衣子に子供が出来るような事があったら結婚するって」
「・・・「できちゃった結婚」って形になるわけでしょ?浩司は体面とか気にしないでくれるの?」
「バカ・・・俺はそういう男じゃないよ。好きな女が妊娠したら結婚する事を考えるよ」
 
************************************************
 
その後の二人は着々と出産に向けて準備を進めた。
麻衣子は、今の職場に休職を申し立てたが、結局受け入れられず。
浩司と話し合った結果、
彼が劇団を辞め、
在宅勤務のプログラマーをやる形で麻衣子をサポートする事となった。
そうすれば、そこそこの収入が得られ、且つ麻衣子にもしもの事があっても融通が利く。
 
************************************************
 
麻衣子はまだ安定期に入っていないにもかかわらず、
相変わらず激務をこなしていた。
夜帰るのも、1時2時。
いつもと全く変わらない。
腰のあたりが重くもやもやした感じがずっと続き、非常に体調が悪いのだが、休めない。
子供が出来たら残業するのを止すと言っていた麻衣子だったが、
結局今までどおりに残業していた。
睡眠不足の日々もいつもどおり。
 
ある日、いつものように仕事していたら、お腹に激痛が走った。
病院で検査すると・・・
 

第五話:切迫

浩司が家で仕事していると、仕事への集中に電話の着信音が割り込んだ。
自分を環視する現実に自分を引き戻し、受話器を取った。
「はい。霞田ですが」
「浩司?イヤそうな声ね」
「そんなことねえよ。なんだよ、やぶからぼうに失礼な」
本当は、気分よく仕事の波に自分を乗せたところに電話がかかってきて少し不機嫌になってた。
でも、図星を言い当てられて、尚更気分を害して否定してしまった。
内心自分は厭なヤツだと思った。
さっきの言葉に続いての麻衣子の言い放つような喋り方がますます浩司の気分を逆撫でした。
「あのね、さっき病院へ行ってきたの。切迫流産」
「切迫流産ーーー?!」
「大きい声ださないでよ!あたしが今どんな精神状態にいるか分からないの!」
「・・・本当に子供が流れたの?」
「違うわよっ!流産じゃないの!切迫流産!どうして流産切迫流産の違いが分からないの!」
「知らないんだから教えてくれたっていいじゃないか」
「もうっ、これだから男は!もういい!それぐらい勉強しておきなさいよ!これから父親になろうとしてる人が!」
プツッ・・・。
麻衣子に電話を切られた。
まともに状況も把握できないまま、
ただ、『切迫流産』という聞き慣れない言葉に遮蔽されていた。
否、その言葉を脱げなかった。
すぐ婚約者の部屋に入って調べてみた。
二つの状態の違いは分かった。だが、以前として危険な状態に踏みとどまっている事には相違無い。
一歩間違えば、あれほど麻衣子が切望していた子供が・・・。
 
麻衣子がその夜帰ってきてから、事の次第を訊いた。
その上で二人で相談し、できるだけ早く入院する事に決めた。
容態が安定するまで家で静養する手もあるが、
彼女の職場での位置からすると、結局安静にさせてもらえない。※そういう立場なのだ.
電話やFAXがひっきりなしになったのでは、静養にならない。
『入院』という形で、彼女の体を虐げる現状から隔離するのだ。
かくして、入院の日が来た。
 

第六話:入院

事務的な手続きをパタパタと済ませ、
入院先の部屋へと向かった。
病院特有のにおいがツーンとし、
院内がひんやり冷たい。
父親としての責任が改めて俺にのしかかる。
目的のフロアへとあがるエレベータが浮遊した・・・。
麻衣子は何を考えているのだろう?
お互い無言のまま、エレベータを降り、廊下を歩いた。
廊下を歩いている感じがしなかった・・・。
 
次の日、いつもの様に仕事していると、麻衣子から携帯電話のメールが入った。
「今すぐ来て」

第七話:女は痛みと悲しみを身ごもって

話を朝まで戻す。
 
朝、麻衣子は同室の妊婦達の声で目覚めた。
昨日もそうだが、彼女達(麻衣子以外に9名)の殆どは始終喋っている。
 
ったく。よくそう話が続くな。飽きもせず。
同室の妊婦は、何か問題のある妊婦ばかりこの部屋に集められているようだった。
子宮筋腫のある人とか、子宮外妊娠の人とか・・・
あたしのように高齢出産の女性も居るが、
見た感じ、あたしほど年は取っていない。
あたしが一番ここで年上みたいだ。
ここの女性たちとはかなり年が離れているのと、立場がかなり違う為(あたし以外はみんな早く結婚して専業主婦)、
どうも話が合わない。
話に入っていきにくい。
それに、あたしはあまり喋るのは好きでない。
特に、今まで生きてきた人生が大幅に違うことが周囲の人との疎外感を強めた。
あたしとみんなは違うんだな。
 
起きた時から少しお腹が痛かったが、
昼過ぎに尚更痛くなったので、トイレに行った。
いや、正確には行かせてもらった。
先生から安静を言い渡されており、
トイレに行くのも一人で歩いて行ってはいけない。
車椅子に乗せられ、看護婦にトイレまでつれて行かれた。
 
何というか、腰のあたりが独特のもやもやした痛みがある。
その痛みが腹部まで浸透してきた感じだ。
便器に座り、痛みをこらえながら排泄。
そのときに、球状の大きな物が出ようとしている。
大きいが、それは意外とスルリと便器へと落ちた。
 
その球体のものを見つめた。
血を発汗している赤黒いグロテスクな球体。
あたしは何を思ったのだろう。
便器を流した。
 
 

第八話:グッバイ

 
それが何であるかは自分でも大体見当がついた・・・。
 
トイレから出てきて、看護婦に事情を言って医師の診察を受けた。
やはり、胎内に赤ちゃんはもう居ないとのこと。
排泄の時に一緒に出てきたあの赤黒い球体は受精卵をくるんだものであるとのこと。
便器に流してしまったのを医師はしきりに残念がっていた。
あれを調べれば何故赤ちゃんが流れてしまったのかを調べる事が出来たのに…と。
 
本当はいけない事だが、
院内から浩司の携帯にメールを送った。
「今すぐ来て」
空はどんよりと曇っていた。
浩司ぃ・・・。
 
次第に雨が降り始めた。
子供の頃は、雨が好きだった。
雨が降り始めただけで嬉しかった。
でも大人になるにつれ、雨を好きではなくなった。
何故だろう・・・。
 
麻衣子の母が来た。
流産の事実を知らない母の笑顔を見ると、心がチクリと痛んだ。
あたしの様子がおかしい事に気付いた母に問いただされ、あたしは流産したことを伝えた。
 
 

第九話:涙なく

浩司の携帯がメールを着信した。
「今すぐ来て」
 
仕事を早々と切り上げ、
降雨の中、病院へと向かった。
車のフロントガラスを雨が叩く。
一体どうしたんだろう・・・。
 
麻衣子の居る病室へと入った。
他の若い妊婦が浩司を見る。
10歳年下の亭主をどんな思いで見てるんだろう・・・。
目が合った人に一人一人軽く会釈しながら中に入っていく。
 
麻衣子は元気そうに母と話していた。
「あ、お母さんこんにちは」
「あら、お仕事終わったのね」
「ええ、切り上げてきました」
麻衣子はまだこっちを見ない。
母のほうに視線を向けたままだ。
再び麻衣子と母が談笑し始めた。
ひとしきり病院での出来事(あたりさわりのない事)を話していた。
そのやり取りの間、会話に加わる事もなく、麻衣子から何かを読み取ろうとした。
麻衣子は仮面をかぶっているかのようだった。
 
二人は10分ほど話していただろうか。
今まで浩司の目を見ようとしなかった麻衣子がやっと浩司に視線の先を移した。
「浩司・・・赤ちゃん・・・流れちゃった・・・」
「!!」
「流産しちゃった・・・」
 
麻衣子は涙ひとつ浮かべずに、微笑んだ。
麻衣子と義母の目が浩司にこの事に対するコメントを求めている・・・。
息苦しい。
いろいろなものが心中を駆け巡っているんだけど言葉にならない。
言葉にならないんだけど、言葉にしろと求められているのが分かるから息苦しい。
沈黙が続いた。
何かを言わなければ・・・と思えば思うほど、焦れば焦るほど、言葉が出てこない。
ベッドの前で水で包まれたようだ。
 
しばらくたってから、短く「そう・・・」とだけ答えた。
まずい言葉を放ったようで、ますます気まずく感じた。
義母が気を利かせたのか、明日退院するの?と麻衣子に尋ねた。
「明日の正午にこの病室を出るわ。やっと家に帰れるのね」
そういうと、麻衣子は雨中の窓外を眺めた。
「お義母さん、まだ結婚もしていないのにこんな事になってしまい、申し訳ありません・・・」
義母はにっこり微笑んで「気にしないで」と答えた。
麻衣子は窓外を見つめたまま。
病室の他の妊婦もいつになくしんとしていた。

第十話:掻爬手術(そうはしゅじゅつ)

主治医の話では、
流産により胎内で不要となった胎盤などの残留物を外に掻き出す手術(掻爬手術)を今夜20:00に予定しているとの事。
段取りとしては、患者の陰部を専用の器具を用いて強引に拡張し(麻酔はするが、それでも激しく痛い。そのぐらいに無理矢理広げる)、
胎盤やその他胎児の残骸を陰部経由で外に掻き出す。
 
義母は程なく帰った。
おなかが空いたら食べて、とパックのお寿司を残して。
妙に涼しげに見える。
 
30分ほどほとんど会話もせずに二人で居た。
黙ったままじっと浩司を見たり、時折上を向いて目を閉じたりした。
浩司は自分からは何も喋らない。
ずっと話し掛けるタイミングを測りかねているのか。
それとも言わないほうが良いと感じているのか。
こちらからもなるべく話さないでいてみた。
かなり間隔を空けながら、家の事を尋ねるぐらいにしてみた。
 
やがて職場の親友・真理が来た。
満面の笑みを作って見せた。
「あらー元気そうじゃなーい。顔色も良いじゃない」
「ありがとー」
弾けた様に暫く真理と歓談した。真理はいつも通りに姦しくはしゃいだ。ここは病院だぞう?
 
真理は騙されてくれたのだろう。
今のあたしの心情など、真理には見透かされているに相違ない。
 
真理がお手洗いへと席を立つと、
あたしという女は、浩司の方を向いてこう毒を吐いた。
「何よあんた。早く帰りたいんでしょぉ?帰ればっ!」
「そんな事思ってねえよ!」
「嘘ばっかり。早く帰りたいって思ってるくせに。いっつもそうよ!」
 
浩司はきっとそんな事思ってない。
「いっつも」もあたしのでっち上げだ。
心の一方でそう冷静に思えても、
あたしはあたしを止められない。
 
あたしは、あたしが嫌い。
 
やがて掻爬手術の時間が来た。
医師と看護婦数人が移動ベッドを押しながら迎えに来た。
あたしは移動ベッドに横たえられ、他の妊婦の環視の中、手術室へと連れて行かれた。
 
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麻衣子が迎えにこられた時、オレと真理さんは別室(休憩室)で待っているよう先生から指示を受けた。
病棟はL字型になっており、L字型の角の部分は階段とエレベータになっている。
その角を挟んで、片方に麻衣子の居る病室、もう片方に休憩室があり、
双方の部屋を窓越しに見る事の出来るアングルと距離を持った位置関係である。
その部屋からまるでノゾキ男みたいに遠く観察するのである。
 
真理さんと休憩室に入ると、ふたりで早速窓から病室を見た。
もう麻衣子は運び出されたらしく、麻衣子の姿は見えない。
看護婦一人がベッドのシーツを直し、カーテンを直して出て行くのをぼーっと見ていた。
看護婦が居なくなると、いつも通りにまた妊婦たちが楽しそうにおしゃべりし始めるのが見える。
後ろに視線を返すと、真理さんがすーっとドリンクの自販機に近づいて行くのが見えた。
いつもの元気な声で、
「浩司君!缶ジュースおごったげる!何がいい?」
「あ、コーラでいいです」
真理さんがコーラとコーヒーを買った。
休憩室に整然と並べてある長テーブルに向かい合って座ると、真理さんはいつも通りにニカニカしながら喋り始めた。
30分ぐらいどうでもいい話をした。
・・・と、急に真理さんはうつむいて黙り込んだ。
長めの髪が顔にかかり、直接様子を窺い知る事は出来ない。
彼女は急に目鼻をすすり上げるようにしながら顔を上げた。
目には涙が浮かんでいた。こらえていた涙が真理さんの頬を伝った。
「どうしてあんなに無茶して仕事するんだろう?もうやめてっていくら言ってもやめないんだもん」
 
 

第十一話:窓の向こう

オレは真理さんに掛ける言葉も無く、ただ頭を垂れた真理さんを見守るしかできなかった。
他に何かいい方法があるのかもしれないが、今のオレには・・・こうするしか思いつかない。
 
真理さんは暫く静かに涙を流した。
 
麻衣子は今どうしているのだろう。
あの手術の様子なんて、考えるだけでも痛々しくって想像が前へ進まない。進めない。
思念を封じようと試みるが、都度都度何かに遮蔽される。
ただ案じているのか、臆病なのか。それとも、同化したがるのか。
 
相対する部屋を度々見やる。
そのうちに白衣の医師二名と数名の看護婦が病室に入ってくるのが見えた。
麻衣子のベッドの周囲のカーテンが派手に波打つ。
真理さんとアイコンタクトし、席を立った。
丁度そのタイミングで看護婦が一人迎えに来た。
看護婦「霞田さん、手術は済みましたので」
 
病室に入る前に、医師からの状況報告を簡単に受けた。
・掻爬作業は何とか完了したとの事。
・手術が予定時間よりもかなり長くかかったのは、麻衣子が予想以上に痛がり、抵抗したため。
・現在強い麻酔のため昏睡状態にあり、明日の朝までは恐らく意識が戻らないであろうとの事。
話を終えると、医師は一足先に医局へと戻って行った。
病室へと入っていくと、看護婦二人が最後のセッティングをやっていた。
最後に点滴の流入速度を調整すると彼女たちも戻って行った。
 
暫く真理さんと二人で麻衣子を挟んでポツリポツリと話した。
あまり話す事も無かったし、そういう気分になれなかった。
たまにポツリと話す言葉も無理に喋っているかのようだった。・・・真理さんも僕も。
 
30分ほどして真理さんも帰途についた。
時計を見ると21時半になっていた。
ここは23時が消灯時間。あと一時間半。
 
ぼそぼそと話す周囲の妊婦の小声。窓外の闇に蕭蕭と降り注ぐ雨の音。
麻衣子の顔は疲れ切っていた。
髪は乱れ、汗が僅かに滲んでいる。
仕事に燃え、恋愛に懸命に努力してきたおんなの顔だ。
そして、あんなに切望していたのに・・・。
ただただ哀れだった・・・。いや・・・。
 
23時のギリギリ手前まで麻衣子の傍に居た。
僕が今彼女のために出来る最大限の優しさだった。
話しかけるわけでもなく、黙って麻衣子を見つめ、心中で彼女を思い遣った。
 
23時直前で席を立ち、病室を出た。
病院の玄関が見えたあたりで、病棟の明かりが一斉に消えた。
 
 

第十二話:帰宅

今日は退院の日。正午に退院するために、朝の11時には病室に行って荷物をまとめた。
病室の他の妊婦に別れを告げ、主治医やお世話になった看護婦さんにお礼を言ってエレベータに乗った。
エレベータを降りると、フロアに差し込む外の光。
独特の病院のにおい。
もうこのにおいとも暫くお別れか。
 
思えば昨日まで生きていたんだよな。お腹の子供・・・。
あっけないな・・・。
 
家に帰ると何をするでもなく、ただぼーっと二人でテレビを見ていた。
30分ほど何も喋らずに二人でテレビ画面を見つめていた。
 
不意に浩司が話し始めた。
「麻衣子、落ちついたら西表島に行こう」
「どうしたのよ急に」
「元々あの島で出会って付き合い始めたの覚えてるでしょ?ダイビングしに来ててさ、共同でボート借りるようになって・・・」
「懐かしいわね。また潜りに行くの?」
「そ!またあの島で一緒に潜ろうよ。麻衣子、海好きだろ?」
「うん」
「じゃあ決まりだ」
「・・・嬉しいけど、急になんで?」
 
 

第十三話:約束

「麻衣子、・・・この紙分かるよね?」
浩司の机の引き出しから取り出した緑の印字の書類・・・。
「え・・・これ・・・」
「麻衣子、・・・結婚しよう」
「!!・・・」
浩司があたしに差し出した書類は、紛れも無く婚姻届だった。
あまりに突然なので、今あたしの頭の中は脳みそが激しくグルグル回ってる。
今自分に起こった事態を整理できない。把握できない。
西表島に行こうって言ってたわよね?それで役所の届けを見せられて?結婚しようって?・・・???
%#$¥!@&*%#$¥^%K@#・・・・・・。
「もしいやでなかったら、僕の妻になってください。そして届けを出して、新婚旅行として沖縄へ行こう」
「・・・ほんとに?」
「うん」
「・・・」
「・・・」
あたしはただただうつむいて気持ちの整理をしていた。うつむきながら、視線が床の上を泳いでいるのに徐々に気づき始めた。
「でも、あたしのお腹の中にはもう子供は居ないのよ?・・・どうする?」
「どうする?」なんて・・・。
 
「な〜に言ってんだ。俺は約束は守るよ。結婚の条件の二番目は、『麻衣子に子供が出来る』ってゆーのだっただろ?この条件を満たしてるじゃん」
「・・・」
 
 

第十四話

「俺は麻衣子との将来しか考えられない。今はまだ半人前な俺だけど、麻衣子の為にも男になります!!」
「・・・」
「麻衣子、・・・頑張ったね。麻衣子はよくやったよ」
「・・・」
「昨日消灯ギリギリまで麻衣子の傍にいたんだ。その間、何度も新生児の泣き声が聞こえるんだ。ここって二つ向こうの部屋が新生児室だろ?
消灯して暗闇の中で麻衣子が目を覚ましたあと、遠くで新生児の泣き声が聞こえたら麻衣子はどんなに辛いだろうと思ったら・・・」
「・・・確かに、そうだった。おなかの大きい妊婦の姿を見てもなんとも思わなかったけど、新生児の声や姿を見ると、確かに辛かったです・・・」
「これからも色々あると思うけど、二人で一緒に歩いて行かないか?」
麻衣子は小さくうなずいた。
「あたしでいいの?」
「そんな!こちらこそ」
「浩司、あたしの気持ちを汲んでくれてありがとう。浩司の優しさを感じたよ。
辛い事もあったけど、ふたりでがんばっていれば、いつか優しい風がふくよね?」
浩司はニッと微笑んで返事した。
 
「あなたに出会えて良かった・・・」
 
 

最終回

秋の湘南の海岸線を走る軽のワンボックスバン。
運転席には年老いた浩司が居る。
 
麻衣子は六年前に他界した。
今は私一人で暮らしている。
私の余生ももう永くはないだろう。
 
麻衣子は常々「遠い浩司の郷里のお墓にあたし一人入るのはいやよ」と言っていた。
その遺志を忘れてはいないよ。
私が死ぬまでは墓にお骨を入れず、家にずっと置いている。
身内に「わしが死んだらばあさんの骨と一緒に墓に入れてくれ」といってある。それまでは家で私の傍らに置くつもりだ。
寂しい思いはさせないよ。
 
麻衣子は海が好きだった・・・。
毎週日曜にはこうやってお骨を車に積んで海に行く。
麻衣子に大好きな海を見せてやるんだ。
夫婦愛なんか何にもわかっちゃいない無骨な男だけど、
せめてもの優しさのつもりだ。
この季節誰もいない海水浴場で車を止め、骨壷を前に抱えて海へと歩いて行った。
 
麻衣子、見えるか?
おまえの好きな海だよ・・・。
 
 
−完−
 
 


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