−第一話−
慎一から「妻が流産し、掻爬手術を受けた」と聞いた日の夜、奇妙な夢を見た。
大学病院の産婦人科。そこのベテラン医師と向かい合い、診察内容を聞いていたようだ。そこからしか記憶がない。冷たく機能的に整理された病室に、妙に不似合いな春の空気がこぼれ込んでいた。
「誠にお気の毒ですが……胎児はもう生きてはおりませんでした」
「……」
「この後の処置としましては、亡くなった胎児の遺体を奥さんの子宮から掻き出します。宜しいですね?」
「……お願いします」
流産した慎一の妻の気持ちに同化したかったのだろうか?同情か?それとも?
いつしか、屈辱的な姿勢で掻爬手術を受けていた。麻酔のせいで現実から遠く離れた意識に、時折手術器具の金属音が聞こえてくる。あの妻はどんな気持ちでこの手術を受けたのだろう。
アパートの私の部屋。女の子の部屋にしては地味な感じかもしれない。
ゆったりと煙草を吸い、すーっと部屋へ吐き出す。
白い煙が薄明かりの部屋にゆっくり広がっていく。
時折白くかすむ唇を、慎一が優しい目で見てくれていた。
煙草を灰皿に置き、肩をすぼめると
「煙草吸う女って嫌いですか?」って聞いてみた。
「そんなことないよ」ユキの唇に指をあてる。すうっと近づいて、いたわるようにキスしてくれた。
これまでデートは続けてきたものの、二人の間でキスを交わしたのはこれが初めてだった。
私にとっては、これが生まれて初めてのキスだった。
何だかよく分からないうちに顔がこっちへ来たかと思ったら、もうキスが済んでいた。
「あの・・・」
心臓の鼓動が普段の倍になったみたいだった。胸に左手をあててみた。
「胸が破れそうなくらい・・・どくどくしてる・・・」
「大丈夫?」
左手の下に手を入れてきて、胸に触れてくれた。
「え・・・?」
私はその夜、彼に初めて抱かれた。八月六日、誕生日の前日だった。
当時のソフト開発部門は多忙を極め、慎一は残業を名目に週末のほとんどをあたしのアパートで過ごした。
そのうちに部屋の合鍵も彼に渡した。京王線百草園駅付近のそのアパートでは、ゆっくりと時間が過ぎていた。
翌91年の十一月に入った。昼過ぎ、慎一からのメールを受信。
メールを開くと、以下の一文が記されていた。
「どうも最近体調が悪いので、いつもみたく週末にユキのアパートに行くのは当分よすよ。ごめんね。 慎一より」
慎一のほうを見ると、ごめんねって顔で、ウィンクを投げている。
直感が体内を走った。・・・もしかして、奥さんがまた妊娠したんじゃないの?
目線が机の上を迷った。・・・でも、何も言えずに、メールでただ、
「お体気をつけてください。 西村ユキ」
とだけ書いて送った。
そして12月24日のクリスマス・イブ。慎一はシャンパンをもってユキのアパートへやってくると、
「八月が予定日なんですよ」とさらりと言った。
私は
「おめでと」としか言えなかった……。
トイレで一人で泣いた。涙がとめどなくあふれてきて止まらなかった。
三月十七日。今日は仕事の都合上、すれ違いでほとんど彼と顔を合わさなかった。彼からのメールが入っていた。
「今朝は何となく元気がなかったような気がするけど、気のせいかな?」
でも、慎一にはそれほど気にならなかったのか、翌日には次のようなメールが入っていた。
「帰りは暗いけど、気をつけてお帰り下さい。土手沿いを回って帰ると桜が綺麗かも。
一緒に帰れなくてごめんね」
4月18日、市販の妊娠判定薬を買ってきてテストをしたところ、不安は現実のものとなった。
陽性と出たのだ。
避妊していなかったツケが回った形となった。
「お腹が痛い」という私に、慎一が病院を紹介してくれた。
病院から戻ると、慎一から
「どうだった?」とメールできいてきたのでこう返事をした。
「今夜うちにきて欲しい。お願いだから今日は一緒にいて欲しい」この返信でさすがに察したのか、その夜、慎一はアパートにくるなりこう言った。
「何週目だって?」
「・・・五週目・・・」
慎一は床に頭をすりつけて謝った。
「ごめん!」
「慎一さん・・・産ませて下さい」
彼は顔を上げて目を見開いた。
「シングルマザーになるのは怖いけど・・・」
彼はしばらく顔を伏せて考え、顔を上げた。
「今すぐには離婚できないから待って欲しい」
やっぱり・・・。多分そう答えるんじゃないかとは思っていたけど、実際に言われると抗する気持ちも消え去るぐらいにショックだった。
「じゃあ、今回のことは・・・無かったことに・・・」
「手術中」のランプがともる。
手術を施す医師の顔。
医師やスタッフ達の後ろ姿・・・。
中絶・・・。
夜中に目を覚ますと、ベッドの傍に泣いている子供が居る気がした。
金曜日に手術をして、月曜日
に出勤、出血していましたが・・・。
相当な精神的ダメージも受けていたが、それでも彼に週末の経緯だけは説明した。
でも……中絶間もない体の私は、慎一に社内ソフトボール大会に呼び出され、思いがけない光景を目にすることになる。
翌日、オフィスの行き先掲示板の西村・ユキの欄には「代休」と書いてあった。病院で診察を受けるためだ。
妊娠二ヶ月だった。
しかし、このことは慎一には伝えなかった。「生きた子供をかき堕ろした女なんか人間じゃない!!」
この一言で、私は目の前のドアや冷蔵庫が歪んで見えた。なんてイヤな表現・・・。
「……今何を言っても言い訳になるんでしょうけど・・・こんなつもりじゃありませんでした」
「……」
「普通に結婚して普通に旦那さんと暮らす生活に憧れていました。
傷つくのが怖くて、無駄なく一度きりの恋愛をして早く結婚したかった。
でも、現実にはこんな形になってしまい・・・
河本さんに奥さんがいると知っても、簡単にこの思いを捨てることができなくて、ずるずると交際を続けて、
河本さんを信じてずっと待っていたんです。河本さんの言葉に絶対嘘なんか無いと信じて・・・」
「……」
ガチャ。
ツーツー。
「……」
その後も、慎一さんは別れないと言ってみたり、両方と別れると言ってみたり、優柔不断な態度を取り続けた。
なお、夜ごとあの妻の言葉が夢の中でリフレインした。
おんな
「生きた子供をかき堕ろした女なんか人間じゃない!!」
あの言葉を思い出す度に、私のお腹の中から胎児が生々しく掻き出される様子が浮かぶ。
もう、やめて!
妻に浮気がばれた後も、こっそりと逢っていた。時には「ユキのことは決して裏切らないから」と慰めてくれたこともあった。こうした状況の中で、慎一のそうした優しさを見る度に、気持ちの糸をつないでいた。そうしないとやっていけなかった。
7月26日の早朝、突然慎一から電話があった。
「もうだめだ。もうユキとダメになっちゃったよ」
「急にどうしたの?また奥さんに何か言われたの?」
電話は途中で妻に代わった。
「子供はあなたが勝手に堕ろしたんでしょ!あなたはそういう人なのよ!」
……激しいやり取りが数時間にわたって続いた。
その夜、慎一はユキのアパートへやってきた。
「二度目の中絶は勝手にやったんだから、僕には責任がない。もう、みんなダメになった。僕は責任をとらない」と言い出したのだ!!
「君を裏切らないって言ったのは嘘だったの?結婚のことも中絶のことも責任をとらないなんて・・・。私が避妊してって言ったの覚えてる?」
「ああ、そうだった。僕の責任だ。責任をとって離婚する。そしてユキとも別れる」
なんて人なの!!
しかし、この約束も翌日にはあっけなく反故(ほご)にされてしまった。
「奥さんとの離婚はどうなったの?」
「離婚はしない」
「そんな・・・女房と別れるって言って帰ったのに、約束が違うんじゃない!!」
「……」
「あなたがこんな人だったなんて……」
全てが終わった。
眠れない・・・。眠れない・・・。
夢?
薄暗い三途の川のようなところ。
中絶した子供たち。
川から出た無数の白い手が子供たちを川に引きずり込む。
怖くなり、私は逃げ出した。
「おかぁさーん、置いて行かないで!」
逃げながら時々振り返った。
「おかぁさーん」
子供たちの手が溶けていく。
「行かないでー」
それでも戻ることが出来なかった。怖かった。死に物狂いで逃げた。
どんよりと曇った空からあの妻の声が響く。
おんな
「子供たちを置いて先に行ってしまっていいの?」
「あなたも死になさい。」
夢から覚める。汗まみれ。
ベッドのそばの電話が鳴る。
時計は午前3時を示している。
こんな時間に誰?
電話をとった。……あの奥さん?
「もしもし、西村です」
「・・・死んでなくて良かった。死んでもらっちゃこっちが困るから」
その出来事があってから、私は精神安定剤を飲まなければ眠れなくなりました。
トランキライザー
朝、いつも通りに慎一さんから電話がかかってきた。
「もしもし?俺だよ」
「おはようございます」
「今から行くからね」
「ごめんなさい・・・。 今日、少し熱を出しているんです。休ませてください」
「そうか・・・分かった。お大事に」
ほんとは、発熱なんて嘘。
コートに着替え、外に出た。
外は雪が降っている。
手に息を吹き掛けてみる。
空を見上げる。
「綺麗・・・」
「堕胎された子供たちが永遠に成仏できないのでは?
あの妻の言葉の呪縛によって」
おんな
慎一さんとあの妻の家の前まできてしまった。
ドアのノブに手をかけた。
ひねると簡単に開いた。
カギもかかっていなかった。
なぜか中には眠っている子供たちしかいない気がした。
静かに扉を開き、中に入った。
眠っている子供たち。
窓越しに外の雪を見る。
部屋の中には、慎一さんも、あの妻もいない。あたしとこの子供たちだけだ。
おんな
この世に出てくることができなかったあの子達も、本当は、祝福されて生まれてきて、今ごろこんな風に幸せに眠れたのに・・・。
「せめてあの妻の言葉の呪縛から開放してやりたい・・・」
おんな
部屋を見回す。
ストーブを見つけた。
灯油のタンクを抜き取る。
子供たちとその周辺に灯油を撒いた。
ライターを着火。
子供たちに向かって投げた。
くるくるとスローモーションで飛んでいくライター。
炎に包まれて、泣き叫ぶ子供たち。
どうして炎で言葉の呪縛を解き放とうとしたかって?
こどもたち
何だか、綺麗になるような気がするでしょ。