私は文書を書くこと自体あまり慣れていません。それで文書構造などがおかしいかもしれませんが、そこはご幼少下さい。
「田舎と都会」

仕事で疲れて家に帰り、ライトのスイッチをつけると暗くなっている部屋に明るさを再び取り戻した。
思わずリモコンに手が伸び、お風呂の準備などに取りかかるのだが今日会社で起きた嫌なことなどが思い出される。そういえば田舎はどうしているかなと思ったりする。
田舎。
広辞苑をひくと『【田舎】1.都会から離れた土地。2.古里、故郷。』などが記載されていた。その中で私が知らなかったと思われる物が書かれていた。『いなかじるこの略、粗暴なの意』意外な意味が書かれていて思わず顔が微笑んでしまう。
ただ馬鹿にする言葉が込められて利用されても、その言葉にあるものは深い物が感じられた。
都会から離れた土地と言ったら範囲がかなり広い感じがする。
人が集まっている田舎もあれば、ぽつんと家がまばらにある田舎もある。

私は田舎にもレベルがあると思う。
その時「どちら住んでいる所の方が田舎か?」という田舎達の争いも凄い。
「おまえの所に牛さ何頭いるんだ?」
「何をいっちょるとよー!おれのところはねー、、、」
遠い視線でこの言い争いを聞いていると結局のところは「どちらも田舎だ」ということ。
何故「田舎」と言う言葉はこの人達に悪く写るのかが私にはよく分からない。
田舎のレベルによって様々な田舎のレベルがあるが、それはそれでいいじゃないかと思う。以前東京の市ヶ谷に少しの間住んでいるとき、最初は何もかもが新鮮で刺激的な所だと思ったのだが、
次第にこれが何故か虚しくなってきて、次第に
「雨らしい雨はここは降らないのか?もっと激しく降ってもいいじゃない?」「何故、星があまり見えないの?」「何故、山が見えないの?」「何故、何をするにでもお金がいるわけ?」「もう少し静かな所はないの?」「リラックスできる所は何処?」「自然に戯れるところはもっと無いの?」
とイライラしてきた事がある。
人が自分の身を守るために身を寄り添ってできた町。
人の欲望を叶えてくれる町。
新しい刺激がある町。
人の要求を叶えてくれる町が都会だと思っていたが,実はあまりそうでは無いと思い、この時、ただ仕事や楽しむところなどにはいいかもしれないけれど、私にとっては「ここは住む場所じゃない。」とこの時強く感じた。
同時に私は田舎に住んでいる方が似合っているのかもしれないと思った。
その時も「田舎は今頃どうしているのかな」と懐かしく、同時に戻りたいなと思ったりした。


ひょっとしたら私と同じような人が沢山都会にはいるかもしれない。
そしたらこの時の「田舎は今頃どうしているのだろうか」と思ったときは、人はどのようなイメージが湧くのだろうか。
私の場合、私が長くいた故郷の中で行動している自分と、それを取り巻く風景の香りが鼻の先端にきたような感覚を得た事を覚えている。
ただ私は田舎にいて都会に行ったからこのような感覚がある訳で逆に都会から仕事などの事情により田舎に来たらどうだろう。
そしたら都会から来られた方にとっては故郷が都会であり、その中で暮らしていた風景などが蘇るのは当然じゃないかと思った。
そしたら彼らの故郷は「田舎」とも呼べるのではないかということである。
何故、この時田舎という言葉自体が都会という言葉より秀でているような印象を受けるのかが分からなくなる。
それは人が前に進んでいこうとする前向きな気持ちが必要だと言いたいのだろうか。
それなら田舎と言う時間の背景でそう呼ぶのであれば、都会は今いる自分の時間だと切り離して考える事ができる。その考えでいくのであれば、通常使う言葉で
「田舎から都会へ行き修行を重ねて田舎に戻り都会で磨いた腕を田舎で商売する」
というのであれば、どうなるのであろうか。
時間的な事として書くのであれば、
「田舎から都会へ行き、大都会へ行った。」
と書くことができる。
それでは場所的に書くのであれば、
「田舎から都会へ行き、田舎へ行った。」
となる。
今度は通常使う言葉で「都会から田舎へ行き、そこで腕を磨いて都会で商売する」
という場合で時間的な事として書くのであれば、
「田舎から都会へ行き、大都会へ行った」
と書くことができる。
それでは場所的に書くのであれば、
「都会から田舎へ行き都会へ行った。」
となる。

 

すると、場所は違うのに時間的な意味で田舎、都会と分けている言葉が同じになる。
なるほど日本語はよくできている。
つまり、偏見や場所によって田舎と都会を使い分けているわけではないのだと言えないだろうか。
最近不況だとよく言われる。この不況は経済的な不況だと言われるが実はそうではない、

と言えないだろうか。
この田舎と都会という言葉。
なるほど、日本語はよくできている。



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