転職しました。
13年間中学校で英語の教員をしてきました。
この春、同じ自治体の肢体不自由養護学校に異動しました。
身分としては「転職」ではないのですが、
仕事の内容というか実質はほぼ「転職」ではないかというほど変化しました。
これは私の希望が通ったもので、御陰様で現在は充実感ある仕事に感謝して日々を送っています。
ここで少し、私と今の仕事について紹介しようと思います。
「どうしたの?何かあったの?」
現任校には数名、以前に勤務した職場の同僚だった先輩が先に着任しておられました。
その中のお一人にかけられた第一声。
2人で爆笑してしまいました。
なぜか私が「養護学校に異動する」と知ると「一般の中学校で何か問題があった」とか誤解を受けたらしく(?)
前任校でも私と親しい同僚が他の人からこっそりと「真相」を
聞きたいと打ち明けられたそうで・・・(苦笑)
養護学校、特に肢体不自由養護学校に勤務したいという希望を出したのは2度目でした。
5年前には配当が出ませんでした。
最初にご縁のあったところで頑張ろうという気持ちでやってきました。
今回も「(配当は)ないかもしれないから」と上から言われていたし、
むしろ決まって驚いたくらいで・・・
私が志してきたのには訳があります。
2人の親友との別れ・・・
私は小さい頃から好奇心旺盛で、なりたいなと思った職業もあれこれありました。
しかし、比較的しっかり自我が出来てから志した職業には常に「教職」が入っていました。
一番最初に教職関係で調べたのが「養護学校の教諭」です。
これには今は亡き2人の親友が関わります。
Fちゃん。生まれた時から近くに住み、幼なじみでした。
彼女は筋ジストロフィーという病を背負って生まれ、生き抜きました。
私が小さかった頃はまだ、養護学校が整備し始められたばかり、障害者への偏見や差別もかなりありました。
Fちゃんのお母さんはFちゃん自身のため、治療やリハビリ、
Fちゃんに適した学校への入学のために転居・・・など母親としてFちゃんの世話をしつつ、
社会や行政に色々な面での改善を要求するような行動も起こしていました。
身近な私達親子にも啓発活動として色々な本を紹介してくれました。
『ねむの木の子供たち』『生きることについて』・・・
今でも印象強く覚えています。
私は、熱心に活動に参加した子供ではありませんでしたが、
Fちゃん親子とのつきあいは長く、その当時としては障害者の問題に関心を持ちながら成長した方ではないかと思います。
中学校時代には個別支援学級と交流をもつクラブ活動を主催し、
高校でもその時お世話になった先生を再度訪ねて取材させてもらい
レポート発表をしたりしました。
Yちゃん。もし彼女がまだ存命だったら、仕事のこと、子育てのこと、何でも話し合う一番信頼できる友人だったに違いありません。
小学校5年から中学3年という時代、もっとも一緒にいて色々なことを語り合い、共に過ごした親友・・・
彼女は21歳、大学3年の時に病に倒れ、わずか4ヶ月の闘病生活でこの世を去ってしまいました。
彼女のお葬式の日、彼女のお母さんに約束しました。
「きっと教師になります。」
国立の教員養成系大学には進学しなかった私に
ストレートで養護学校へ赴任する道は用意されなかったのですが
この度の異動は私がしたかった仕事にようやくご縁があったものです。
先に旅立ち、いつかあの世で再会したい2人の親友に導かれた仕事と思っています。
早く旅立つ人はそれだけ、前世に修行や仕事をなし終えた徳の高い人だと聞いたことがあります。
私はまだまだ修行が足りない人間なんだといつも思っています。
予想していたより多い3人の男の子を産み育てることになったのも
Fちゃん、Yちゃんの2人に後押しされたのかな、と思うこともあります。
いつかあの世で再会したとき、
私も自分の人生、頑張ったよ。と胸をはれるように・・・
Fちゃん、Yちゃん、見ていてね。