■ 鴨長明とは・・・
1153(仁平3)年〜1216(健保4)年
鎌倉初期の文人、歌人。通称菊丈夫。法名蓮胤。名を「ながあきら」とも読む。
京都賀茂神社の禰宜(ねぎ)長継の子。
和歌を源俊恵に学びその派の頭領となり、管弦の道にも通じる。後鳥羽院に召されて
和歌所寄人となったが、のち出家して日野山の方丈の庵に隠遁著述の生活を送った。
中世隠者文芸の祖とされる。主著「方丈記」「発心集」「無名抄」。
「方丈記」
鎌倉前期の随筆。一巻。鴨長明著。1212(建暦二)年成立。
仏教的無常観を基底に、作者の体験した都の生活の危うさ・はかなさを描き、ついで
移り住んだ日野山の方丈の庵の閑寂な生活を説く。文章は簡明清純な和漢混淆文。
〜「国語大辞典」小学館刊
序
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ
消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し。
玉敷の都の中に、棟を竝べ甍を爭へる、尊き卑しき人の住居は、代々を經て盡きせぬ
ものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年破れて今年は
造り、あるは大家滅びて小家となる。住む人もこれにおなじ。處もかはらず、人も多かれ
ど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人二人なり。朝に死し、夕に生るゝなら
ひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。
また知らず、假の宿り、誰がために心をなやまし、何によりてか目を悦ばしむる。その
主人と家と、無常を爭ひ去るさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花殘れり。
殘るといへども朝日に枯れぬ。或は花は萎みて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべ
を待つことなし。
■ 河合神社・・・鴨長明ゆかりの神社〜賀茂御祖(下鴨)神社敷地内
↑ 河合神社 ↑復元した「方丈草庵」
鴨長明は、五十歳のときすべての公卿から身を引き大原へ隠遁した。その後世の無常と
人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として1208
(承元二)年、五十八歳のころ(現在 京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動して
いるあいだに、「栖」として仕上げたのが、この「方丈」である。移動に便利なようにすべて
組立式となっている。
広さは一丈(約三メートル)四方。約二.七三坪、畳五畳半程度。間口、奥行とも一丈四方
というところから「方丈」の名がある。さらにもうひとつの特徴は、土台状のものがおかれ、
その上に柱が立てられているところである。下鴨神社の本殿もまた土居桁の構造である。
この構造は、建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は
式年遷宮により二十一年ごとに社殿が造替される自在な建築様式をヒントに得たものと
いわれている。
〜「河合神社説明板」
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