トップ小説作成者・アミーゴラブさん


《春日部、最大の危機》
<その1…マサオくんの話>
「あーあ…」
思わずため息が出てしまう。
結局今日も、あいちゃんを家に誘えなかった…。
あ、こんにちは。僕、佐藤マサオです。
僕は今、酢乙女あいちゃんに恋している。一目惚れしちゃったんだ。
でもあいちゃんは僕の友達のしんちゃんがなぜか好きみたいで(何でだろう…)、僕には目もくれない。それでも僕は、まだ諦めていないんだ。ネネちゃんにはバカにされてるけど…。
でも、どうすればあいちゃんは僕に振り向いてくれるんだろう…。
そんな考え事をしていたせいかも知れない。僕は何かにけつまずいて転んでしまった。

「あた…あいたたた…」
擦り剥いてしまった手の平をさすりながら起き上がった僕は、その時自分が誰かに足首を掴まれている事に気がついた。
だ、誰?
振り向いて…そのまま凍りつく。
だって…だって、今、うつぶせになっていた状態から上げた、その顔は!
僕にそっくりだったんだ。
頭の中が真っ白になった。
逃げたくても、足が動かない。ああ、きっとこのまま捕まって食べられてしまい…。
あれ?
だけど、そっくりさんは襲ってこない。じいっと僕の顔を見つめるだけ。
何だかとっても悲しそうな目つきで、だんだん怖くなくなってきた。
いや、むしろ可哀相になってきたんだ。
そういえば、足首ももう離してくれてるみたいだし。
僕はおそるおそる立ち上がった。相手は無反応。
ほっとして歩き出す。振り返ると、僕のそっくりさんはやっぱり何も言わずにこっちを見つめていた。何だか追いかけられるより、ずっと逃げにくい…。
僕は立ち止まって、そっくりさんと視線を合わせた。

<その2・ネネちゃんの話>
1.転入生
ううう、眠〜い…。
椅子に座った途端、あたしは机にばったりとつっぷした。
だって、眠いのよ、疲れたのよ。
昨日は夜遅くまで、リアルおままごとの台本を考えてたんだから。
「病弱な妻に愛を捧げる夫」のお話なの。面白そうでしょ。
でも、マサオくんもしんちゃんも風間くんもボーちゃんも、ぜーんぜん乗り気じゃないのよねえ。全く腹が立つ。
今日はどうやって巻き込もうかなぁ…。

「あ、あの、皆さん。は、早く、席に、ついて…。」
ん?その声は、上尾先生?
目を上げてみると、果たして上尾先生が教室の入り口に立って、ぼそぼそとみんなに呼びかけていた。
「呼びかける」って言っても、呟くぐらいの声でしかないの。入り口に一番近い端っこの席のあたしだから聞こえるけど、周りで騒いでいる子たちには、多分全く聞こえていない。でもこれが上尾先生の地声なのよね。おまけに超弱気な性格だから…。
「み、皆さん…。」
あーあ、泣き出しちゃった。
あれ?そう言えば上尾先生、何しに来たんだろ?よしなが先生は?

「はい、みんな、さっさと席に座って!」
あ、よしなが先生。
今度はたちまちみんなが自分の椅子に座った。上尾先生がほっとしている。
なんか情けない…。
よしなが先生もあたしと同じ気持ちだったのか、ふうっとため息をついて上尾先生に言った。
「もういいわ、上尾先生。仕事に戻って。」
「あ、はい…。」
上尾先生はおどおどびくびくとあたしたちを見ると、逃げるように立ち去っていった。
幼稚園の先生になろうって人が、子供を怖がるなぁ!
でも眼鏡を取っちゃうと、すごく強気になるんだけどね、上尾先生。

「今日は皆さんに、嬉しいお知らせがあります。」
たちまち、教室中が上尾先生の声も余裕で聞こえるだろうってくらいしーんとなった。
「お便秘が治ったの?」
こう言ったのは、もちろんしんちゃん。
「違います!」と、よしなが先生は一瞬ムカッとした様子になり、「今日から新しいお友達がひまわり組に来てくれるのよ。」
え―っ!転入生!?
教室が、今度はざわざわっと騒がしくなった。
「それじゃあ、どうぞ入って。」
よしなが先生が、入り口に向かって声をかけた。みんなの目が、一斉に前に集中する。
そこから教室に入ってきたのは―――
可愛い…。
女の子のあたしまで、思わず見とれてしまったくらいの女の子だった。
透き通るみたいに白い肌に、さらさらで背中まで垂らしてあるロングヘア。しかもその髪は真っ黒じゃなくて、少し青みがかった、これまた透き通るような藍色だった。
何よりもその顔よ。形良く整った鼻と薄桃色の唇、大きくぱっちりした目。その瞳も髪と同じ、澄んだ藍色をしていた。
いかにも清純な美少女!って感じ。
周りを見ると、男子は当然、女子までもが食い入るようにその子を見つめていた。あのしんちゃんでさえ、ちょっとドキッとしたみたい。
「じゃ、自己紹介してくれる?」
よしなが先生の言葉に、女の子はこくん、とうなずいて、口を開いた。
「藍野瑠璃…です。よろしくお願いします。」
か細い、小さな声。その声がまた小鳥のさえずりみたいで、可愛い。
それにしても藍野瑠璃なんて、随分洒落た名前。酢乙女あいといい勝負だわ。
「それじゃあ、自分の席についてね。風間くんの隣よ。」
瑠璃ちゃんが自分の席に向かって歩いていく間、みんなの視線がじ―っと瑠璃ちゃんを追っていく。
瑠璃ちゃんは風間くんの隣に座ると、恥ずかしそうに顔を伏せてしまった。
でもねえ…。あたしは少し心配になってきた。
いくら転入早々でも、これだけ可愛くて周りの気を引いちゃうと、あいが黙ってないと思うのよねえ。
酢乙女あいは、色白の美少女で頭も結構良くて運動もできておまけに大金持ちのお嬢様で、一言で言えば幼稚園の女子たちのリーダー。
だから自分より目立つ子がいると、我慢がならないタイプなの。最近はその性格がどんどん強くなって、年長の男子でも頭が上がらなかったりする。
厄介な事にならないといいけど…。

2.いじめと恋?
そして翌日…。
あたしの心配はばっちし当たってしまったのよ。
トイレに行って、教室から戻ったあたしはびっくりした。あいを先頭に、数人の女子達が瑠璃ちゃんをぐるりと取り囲んでいる。
「瑠璃さん、どうして誰ともお話しなさらないの?」
あいが瑠璃ちゃんに話しかけている。
「人付き合いが苦手なのかしら?まさか口がきけないってわけじゃありませんわよね。昨日ちゃんと自己紹介してましたし。」
あーあ、早くも始まってるよ、ねちねちしたいじめが。
後ろでは、男の子が固まっておろおろしているけど、こうなるともう手の出しようがないのよね。目をつけられちゃかなわないし…。

「ちょっと、邪魔なんだけど、どいてくれる?」
んん?風間くん?
あ、そう言えば、風間くんは瑠璃ちゃんの隣の席だったんだっけ。忘れてた。
さて、あいがどう出るか…。
でもあいだって自分のイメージを汚すような事はあまりしたくないはず。このまま引き下がってくれるか…。
あたしの予想は当たった。あいは一瞬だけ顔をしかめたけど、すぐにくるりと取り巻きの女子の方へ向き直って、
「あら、ごめんあそばせ。行きますわよ、皆さん。」
すました顔と口調が、こんな時になると尚更、深〜くむかつきます。
でもとりあえず、これでいじめは回避できたわけね。
瑠璃ちゃんは相変わらず顔をうつむけたまま、じっと席に座っている。でも良く見ると、ちょっぴり顔が赤くなってるみたい。
ん?しかも風間くんの方をちらちら横目で見ているような…。
も、もしかして、恋!?
それでね、あたし、見ちゃったんだ。
その日のお昼ごはんの時。風間くんがお弁当とお箸を机に置いてトイレに行っていた時に、お箸が机の端っこから落ちそうになってたんだけど、そのお箸を瑠璃ちゃんが、そっと風間くんの机の真ん中に戻してあげたの。 それも、さりげなく。
あいたちに見つかるとまたねちねち言われるからね。でも何か世話を焼いてあげるお母さんみたいで、微笑ましいなあって思っちゃった。
これが恋の芽生えってやつなのかもね…。
あいの事は心配だけど、風間くんがいれば大丈夫だろうし。
でも、あたしたちは全然、気がついてもいなかった。
瑠璃ちゃんが人間じゃないって事に…。

<その3・風間くんの話>
今日は、これで幼稚園は終わりだ。後はバスに乗って帰るだけ。
「ねえねえ、風間く〜ん。」
猫撫で声がしたので振り向くと、ネネちゃんがにこにこして立っている。
うーん、なんか嫌な予感…。
「今日、ネネん家で遊ばない?新しいおままごとの台本、考えたの。」
やっぱり出た!ネネちゃんお得意のリアルおままごと!
「ねえ、いいでしょ?今日は塾とかお休みなんだから。」
うっ、言い訳にして逃れるつもりだったのに、先読みされてた…。ネネちゃん、探偵になれるよ。
「今日のはすごいのよ!不治の病にかかった妻を看病する夫の、涙の物語なの。で、そこに病気になった妻に言い寄る医者が現れて…」
うわー、なんか子供らしいおままごとの内容から、すごくかけ離れてるよ。ま、いつもの事なんだけど。
「うん、別に忙しくないし、いいよ。」
僕はネネちゃんの機嫌が悪くならないうちに、慌てて返事した。変な役にされたら嫌だからね。

ネネちゃんの後ろでは、しんのすけとボーちゃんが困った顔をして突っ立っている。どうやらこの二人も強引に引っ張り込まれた様子。
て事は、あと残っている候補と言えば…。
「あ、マサオく〜ん。」
やっぱり!
「マサオくん、今日ネネん家でおままごとやるのよ。どんな内容かっていうと…。」
「今日はダメ。」
「え?」
ネネちゃんだけでなく、思わず僕たち三人も聞き返してしまった。

だってマサオくんは僕たちの中でも一番の不幸キャラで、いつもネネちゃんの言いなりになっておままごとに付き合わされている。それがこんなにびしっと自分の意見を言ってくるなんて…。
「どうして?何でダメなのよ?」
あ、やばい。ネネちゃん、早くもお怒りモード。
さあマサオくん、恐怖に耐えて断り切る事ができるか?
「どうしても外せない用事があるんだ。本当だよ。」
「外せない用事?ふ〜ん、そう。」
ネネちゃんがわざとらし〜く鼻を鳴らす。こ、怖い…。
「で、何なの、その『用事』って?」
いつものマサオくんなら、もうここら辺で限界が来て「わーん、ごめんなさい!」
って降伏(?)してるはずだ。それぐらいに、ネネちゃんの声には凄みがある。
ところが…。
ネネちゃんが質問した瞬間、マサオくんがばっと顔を上げた。
その顔。目は吊り上がり、顔は真っ赤になり、口は耳まで裂けて牙をむき出し…て言うのは勿論大げさだけど、ものすごく怒っているのがよく分かる顔で、そりゃあもうネネちゃん以上の迫力だった。
そしてマサオくんは、叩きつけるように言った。
「それはプライベートな問題でしょ!教える理由なんかないもんっ!」
これにはさしものネネちゃんもびっくり。怒っていた事も忘れ、口をあんぐり開けて突っ立っている間にマサオくん、どっか行っちゃった。
「何よ、今の…。」
少しして、ネネちゃんは呟くように言ったのだった…。

<その4・ボーちゃんの話>
1.マサオくん追跡
「どお?」
「う〜ん、まだ出てこないみたいだね…しんのすけ!それ僕のお菓子!!」
僕たち四人は、マサオくんの家の前に来ていた。
まるで探偵みたいに、近くの塀に隠れてマサオくんが出てくるのを待っていたのだ。
何でこんな事をしてるのかっていうと、それはやっぱりネネちゃんのせいで…。

「今日のマサオくん、なんかおかしくなかった?」
おままごとの最中、ネネちゃんが突然言い出した。
「え?そうかなあ、別にそうでもなかったと思うけど。」
風間くんはどうでもいいといった様子で、渡された台本を眺めながら返事した。
「そういえば、左耳から耳くそがはみ出してたゾ。」
しんちゃんは寝転がって眠そうな声を出す。

「ううん、絶対におかしかった!」
ネネちゃんは断言した。もともと一度言い出したら聞かない性格だ。
でも…今日のマサオくんの、あの凄い剣幕。僕も少し、おかしいなとは思った。
マサオくんは根っから人が良くて、気が小さくて、そして優しいんだ。あんなに怒ってまでネネちゃんの誘いを撥ねつけたのには、きっと何か理由があるんだろう。
でも…そんなの、どうでもいい事じゃないか。
誰だって、秘密の一つや二つは持っているものだ。マサオくんにそんな秘密があったとしても不思議はない。ほっといてあげるべきなのだ。
え?僕の秘密?それは企業秘密という事で…。
「ねえ、調べに行かない?」
ネネちゃんの声が、僕を考え事から引き戻した。調べる?
何となく、嫌な予感が胸の中に広がった。
「何を?」と、きょとんとした顔で尋ねたのはしんちゃん。察しのいい風間くんは、早くも顔をしかめている。
「決まってんじゃない。マサオくんに何があったのか、よ。」
ネネちゃんはもう、マサオくんが何か隠していると決めてしまったらしい。
「それを何で調べなきゃいけないの?」
しんちゃんが至極最もな質問を投げる。ネネちゃんは即答した。
「そりゃあ、気になるからよ。しんちゃんたちだってそうでしょ。」
はあ…。ネネちゃんには敵わない。
「じゃ、行くわよ!」「今すぐ行くの?」
風間くんがびっくりした顔になった。顔には出さなかったけど、僕もびっくりした。」
「当たり前じゃない。現場を押さえなきゃ意味ないでしょ。」
マサオくんを犯罪者か何かと間違えている。
でも…こうなった以上、行かないわけにはいかず、結局僕たちはマサオくんの家の前で「張り込み」をする事になったのだった…。

「オラ…もう帰りたい。」と、しんちゃんが言った。声が小さいのは、ネネちゃんに聞こえないようにだろう。
この一時間近く、マサオくんの家からは誰も出てこなかった。しーんと文字通り静まり返って、何の前触れもない。
「ネネちゃん…もう、帰った方がいいよ。」と、風間くんが囁いた。「日も傾いてきたし…ママも心配するから、ね?」
「でも…。」と、ネネちゃんは不満げだったけど、辺りが暗くなってきたのを見て、しぶしぶ立ち上がった。
「そうね。帰りましょ。」
僕としんちゃんは顔を見合わせ、安堵のため息を漏らしたのだった…。

<その5・風間くんの話>
・二人のマサオ
ふう、やれやれ…マサオくんを見張るための「張り込み」で、僕はかなり疲れていた。
「ネネちゃんも物好きだよ、全く…」
人間、秘密の一つや二つ、持ってたっていいじゃないか。もちろん当人にそんなことは言えないが…。
僕は今、マサオくん家の裏手の方を歩いていた。やっぱりしーんとして、何も聞こえてこない。
おかしいな、と、その時初めて気がついた。
夕方のこの時間なら、マサオくんのママが夕ご飯の支度をしている音や、テレビの音が聞こえてくるのが普通だ。それなのに、この小一時間、何も聞こえない…。
僕は突然不安になった。少し考えた後、ゆっくりとマサオくん家の裏口に近寄った。
よく見れば、戸が開けっ放しになっているのが分かった。ますますおかしい。マサオくんもおばさんもとても几帳面な性格なのに…。
ごくっと唾を飲み込み、僕は足音を立てないよう、中に足を踏み入れた。

マサオくんの家には何回か遊びに来た事があるけど、そう詳しく中の様子を知っているわけじゃない。だから初めは、そこが台所だという事に気がつくのにしばらくかかった。
びっくりするくらいきれいに片付けられている。僕のママだってだらしないタイプじゃないけど、このきれいさには負けるだろう。
その時、奥の方で鈍い音がして、僕は凍りついた。
続いて、押し殺した泣き声のような音。
小さかったから分かりにくかったけど、僕にはそれがマサオくんの泣き声だったような気がして、急いで奥の方へと走り込んだ。
その途端、目の前に誰かが飛び出してきて、僕は仰天した。咄嗟に「ワッ!」と叫んで飛び退く。

なあんだ、マサオくんじゃないか。
H風間くん、何で…?・なんか入りたい気分になっちゃって。えへへ。理由になってない…。
でも、マサオくんは全然不審そうな顔をせずに、にこっと笑った。
Bじゃあお茶でも飲んでく?・え?そ、そんなつもりじゃ…。・いいからいいから。戸惑う僕は、半ば強引に腕を引っ張られ、マサオくん家に上がり込むことになった。
居間に入ると、マサオくんのママがいた。本を読んでいる。
}マ、風間くんが喉乾いたから、何か飲み物欲しいってさ。はあ?僕そんなこと、言った覚えないぞ。
でも僕が反論するより早く、おばさんが笑みを浮かべて立ち上がった。
Bじゃあすぐに何か持ってきてあげるわね。そして、台所へと入っていく。ど、どうなっちゃってんだよ…。
Aいいのに…。・何言ってるのさ。風間くん、あんなに喉乾いたって言ってたのに。言ってません。そう言おうとした僕は、マサオくんの顔を見てぎくっと口をつぐんだ。
顔はにこにこしている。でも、マサオくんの目は全く笑っていなかった。冷たく鋭い光が宿っていて、むしろ怖い!
Hマサオくんの声に力がこもった。はっきり言って、ネネちゃん以上の迫力。
Aはい…。僕はうなずいた。だって、そうしなきゃ殺されそうだったから。
いや、大げさに言ってるんじゃなくて、本当にそんな気がしたんだって!
Hその途端、マサオくんの笑顔から迫力が消えた。でも、まだ僕の中の恐怖感は消えてない。
おかしい。絶対何かがおかしい…。

Aどうぞ。マサオくんのママが、オレンジジュースらしき飲み物をコップに入れて、お盆に乗せて運んできた。
Aどうも…。僕は取り敢えず頭を下げたけど、それ以上は言葉が続かず、しばし沈黙。
c飲まないの?・あ、いや、飲みます!うわっ、おばさんの目つきまで怖くなってる!ほんとにどうしちゃったの?
僕はコップを口へ持っていこうとした。
(飲むな。)
え?
周囲を見回したけど、マサオくん親子と僕以外の人間はいない。
おかしいな、確かに今、声が…。

Iわあっ!びっくりした。マサオくん、いきなり大声出さないでよ。
再びジュースを口に入れようとした。が、次の瞬間。
(飲むなっつってんだろ!)
さっきの声が、また頭に響いた。い、一体誰が?
でもその声には強い説得力のようなものがこもっていて、僕は思わずコップを下ろしてしまった。
H何で飲まないの?マサオくんの声が、急に低くなった。不吉な感じがよぎる。
Aやっぱりいいです。・いい?何が?もう、この状況でいいって言ったら、何の事かぐらい分かるだろ!
………あ、もしかしてマサオくん、わざと聞いてる?見れば、顔がさっきと同じように冷たい笑顔に変わっていた。
Aもう喉乾いてないから。だからジュースはいいです。言った途端、がしっと誰かに肩をつかまれた。
I変な悲鳴を上げて振り返った僕の目に、マサオくんのママの顔が映った。い、いつの間に後ろに…。
人の良さそうな顔はにこにこ。でも指は、痛いくらいに僕の肩に食い込んでいる。
Aせっかく入れたのに。一杯ぐらい、いいでしょう?はっとして目を前に戻すと、マサオくんが立ち上がって僕の方へと向かってきていた。その手にはジュース入りのコップが…。
A風間くん。飲ましてあげるよ。だ、だからいいって言ってるのに…。
A飲みなさいっ。おばさんの手に力がこもった。い、痛いよお。
≠Iど、どうしよう…。

と、その時。
(おい。)
またあの声!
いつもと雰囲気の違うマサオ親子も怖いけど、姿の見えない声もめちゃくちゃ不気味だ。すると、そんな僕の思考を読み取ったかのようにまた声が響いてきた。
(怖がるな。気味悪いだろうが、今は姿を見せるわけにはいかないんだ。我慢してくれ。それより、右手を上げろ。)
え?
戸惑う僕に、声が少しイライラした色を帯びた。
(どうでもいいから、さっさと上げろ!)
Aはあ…。・ん?何、風間くん。あ、やば。っていうか、この二人の耳には声が聞こえてないのか?
(早く!)
はいはい、分かったよ、もう。
僕は言われた通りに右手を上げた。
すると…不思議な感覚が、右手に走った。何かにつかまれているような、包まれているような。見れば、指がひとりでに曲がって手の平が握りこぶしの形になっていく。
そして、次の瞬間。
僕の右腕がものすごい勢いで動いた。それとほぼ同時に、握られた右こぶしに鈍い感触が走る。
気がつけば、だいぶ離れた所の壁に叩きつけられたマサオくんの姿が…。
こ、これは、何?まさか…僕がマサオくんを殴った?
そんなバカな。大体僕程度の腕力じゃ、子供一人を吹っ飛ばすなんて、できっこない…。

(何ボーっとしてんだ、早く逃げろ!)
また謎の声。あ、そうだ、逃げなきゃ。
おばさんもびっくりしたのか、肩をつかんでいた手は思ったより簡単に外れた。そのまま脱兎のごとく、裏口に向けて走り出す。
Aこ、こら、待ちなさーい!数秒遅れて、おばさんが追いかけてくる音。お、思ったより速いっ!
このままじゃ、裏口に行き着くまでに追いつかれるかも…。
ん?
台所のテーブルに置いてあるものが、僕の目を引いた。
湯気を立ち上らせている、ステンレス製のやかん。お湯を沸かし終わったばかりみたいだ。
振り返れば、おばさんはもうすぐそばに迫っている。その後ろには、ついさっき僕が殴り飛ばした(そんなつもりじゃなかったんだけど)マサオくんの姿もあった。
二人とも、かなり迫力満点の顔。
よ、よーし。そっちがやる気なら、こっちも…。
Hらえ!お決まりのセリフと共に、僕はやかんを二人に向かって投げつけた。手加減する余裕なんて全くなかったから、マサオくんもおばさんも、まともに熱湯を身体に浴びることになった。
ものすごい悲鳴が響いた。いやそれはもうすさまじくて、人間のものだとは思えなかったよ、本当に。
二人がそれからどうなったか、僕は見もせずに、裏口から飛び出した。そしたら、足元に転がってた白い固まりを危うく踏みつけそうになった。
Lャンッ!・あ、シロ!どうしてしんのすけの飼っているシロがここに…あ、もしやまた自分で散歩?
とにかく、シロの姿を見て僕はなぜか少し安心した。
U歩を忘れられたの?・クーン…。シロ、悲しそう…。
Aじゃあ僕と一緒にちょっと散歩でもする?それから家に送ってやるよ。・キャン!僕はシロと一緒に、夕暮れの道を歩き出した。さっきのことは、誰にも言わないでおこうと思いながら…。

その数分後。
マサオ家での台所では、熱湯をかけられたマサオ親子が立ち上がっていた。あれだけのお湯をまともに浴びたら、相当ひどい火傷を負うはずだ。それなのに、もう二人の肌はほとんど元通りになっていた。
しかし傷は癒えても、風間くんにまんまとしてやられた悔しさは消えないらしかった。
Aあんな奴に殴られるなんて…。マサオくんが歯噛みする。その表情には、普段のマサオくんの人のよさそうなところは、一欠けらも見えなかった。
氓Aただじゃ済まさ…。言いかけたマサオママの表情が、突如凍りついた。その視線を追い、マサオくんが振り向く。
風間くんが台所の隅っこに立って、じっと二人を見つめていた。
Aいつの間に…。まさか風間くんが戻ってくるとは思っていなかった二人は、束の間呆然としたが、すぐに立ち直って氷のような眼差しで風間くんを睨んだ。
[ん、戻ってくるとは思わなかったよ…さっきは、よくもやってくれたよね。風間くんは答えず、ただ二人から目を反らしただけだった。その態度が、余計にマサオくんの気にさわった。
I人に迷惑かけといて…マサオくんは口をつぐんだ。風間くんの口元に、微かな笑みが浮かんだのだ。それも、蔑むような笑いが…。
Aな…!あまりに腹が立って、二人ともうまく言葉が出てこなかった。風間くんは怯える様子を全く見せず、あらぬ方向に視線を向けている。からかうような笑みは、相変わらずだ。
A濠信じられないようなスピードで、二人の腕が突き出される。
ところが、二人が深くえぐっていたのは、家の壁だった。
c?立ち尽くした二人の耳に、くすくす笑いが聞こえてきた。はっとして振り向くと、風間くんがさっきまで二人のいた所にいて、あぐらをかいていた。二人と目が合うと、またくすりと笑う。
xい遅い。そんなんじゃだめだよ。風間くんの口から、初めて声が飛び出た。子供と遊んでやっている、大人のような口調だった。
c。マサオくん親子が、再び飛びかかろうと身構える。
Aまだやるの?風間くんはくすくす笑い、大きな黒い目で二人をひたと見据えた。
c。不思議なことに、二人とも見入られたように動けなくなってしまった。いや、まるで見えない縄に縛られているかのように…。

[ら。風間くんがひょいと右手を上げた。と、二人の身体が、見えない手に突き飛ばされたかのように後ろの壁に叩きつけられた。かなり強い衝撃だったらしく、マサオくんもママも、なかなか立ち直れないでいる。
A氓ヘどうするの?悠然と座っている風間くんを見て、二人は敗北を悟った。………こうなったら、逃げるしかない。
さっきの風間くんと同じように、二人は裏口から外へと、飛び出していった。
風間くんは後を追おうともせずに、遠ざかっていく足音を聞いていたが、やがてすっと立ち上がって居間へと繋がる扉に目をやった。
ひとりでに扉が開いた。そこには、恐怖と驚きで顔を引きつらせたマサオくんの姿があった。
Bマサオくんは風間くんと目が合うと、ぺたんと座り込んだ。腰が抜けてしまったのである。
|がるなよ。何もしないからさ。あ、でも今見たことは、忘れてもらうからな。マサオくんは聞いているのかいないのか、激しく首を振りながら後ずさろうとしていた。でも腰が抜けているので、うまくいかない。そこへ風間くんが、つかつかと歩いてきた。

Oも人が良過ぎるんだよ。ちょっとかわいそうに見えるからって、家にあいつらをかくまうなんてさ。お前、セールスにもすぐ引っかかるタイプだろ。マサオくんはとても答えられる状態ではなかった。顎ががくがくと震え、意味のないうめきが口から漏れる。そんなマサオくんの様子には構わず、風間くんは人差し指をマサオくんの額に当てた。
刺すような痛みが、頭に走った…と思った次の瞬間には、マサオくんは気を失っていた。風間くんはそれを確かめると満足そうにうなずき、氓Aあいつだな…。B
その直後…風間くんの姿はふっと掻き消えていた。

それからさらに数分後。
目を覚ましたマサオくんは、周りを見回して不思議そうに首をかしげた。
B僕、何でこんなとこで寝てたんだろ…。

・そっくりさん
僕は冷たい風に頬を撫でられたような気がして、ふっと目を覚ました。
ベッドにいるにしちゃ変な態勢だなと思ったら、机に突っ伏して眠っていたのだった。僕は苦笑して起き上がった。どうやら塾のおさらいをしているうちに、寝入ってしまったらしい。
時計を見れば、夜中の12時近く。いい加減に寝なくてはならない時間だ。服もそのままだから、着替えなくちゃ。
僕は椅子から下りて、部屋のドアを開けようとした。
Aちょっと待てよ。え?
秤Oに、出ない方がいいぜ。お前のママがまだ起きてるからな。聞いているうちに、僕ははっとなった。マサオくんの家で襲われかけた時、話しかけてきたあの声じゃないか!僕は反射的に部屋の中を見回した。あ、でもあの時は声が聞こえただけで、誰がしゃべっているのか分からなかったんだっけ。
ところが、今回はそうではなかった。

僕のベッドの上に、誰かが膝を立てて座っていた。なぜか知らないけど、その周りにぼんやりと黒い影のようなものが漂っていて、姿がよく見えない。でも影の向こうからじっと注がれる視線は、痛いほど感じることができた。
「き、君は誰?」「どうでもいいだろ、そんなこと。」
よくないです。大体、どこから入ってきたんだよ。
Aドアからに決まってんだろ。塾行ってるくせに、そんなこともわからないのかよ。む、むかつく!見ず知らずの相手に馬鹿にされるなんて…。
怖さよりも腹立ちが勝ってきて、僕は黒い影の向こうの人物をにらみ返した。

「何だよ、お前。勝手に人の部屋に入って、何好きなこと言ってんだよ。」
ものすごく腹が立っていたので、こいつは何で僕が塾に通っていることを知ってるんだろうなんてことは、少しも頭に浮かばなかった。
「大体さぁ、そんな意味のわかんない霧みたいなのの中に隠れてないで出て来いよ。すごく気分悪いんだけど。」
それを聞くと、影の向こうにうっすら見える人影が、少したじろぐのが見えた。
「…いいのか?」「え?」「ほんとに見たいのかって聞いてるんだ。気絶しても責任取らないぞ。」
僕は少し不安になったけど、それよりもこいつの顔をまともに見て文句を浴びせてやりたいという気持ちの方が遥かに強かった。だからさっきと同じ、強い口調で答えた。
「つべこべ言ってないで、早く見せてよ。」

黒い影に包まれたそいつは、「しょうがないな…」みたいなことをぶつぶつ呟くと、微かに身じろぎした。その途端、影が一瞬にしてさあっと晴れた。
「う…。」
僕は何か言おうとしたけど、言葉が出てこなくて代わりに震え出した。
だって、だってそこに現れたその顔は!
まるで鏡を見ているみたいだった。つまり、僕とそっくりだったのだ。
顔だけじゃない。身体つきも、服装も、それによく考えてみれば今までの声も、全部…。
そうか!初めて話しかけられた時、どうも聞いたことがあるなと思ったけど、あれは自分と同じ声だったからなんだ。
なんて考えてる場合じゃなかった。は、早く、逃げないと…。
「お、おい、待てよ。」
ベッドの上で、僕のそっくりさんが慌てた声を出した。でも待てと言われて素直に待つ人なんか、普通いない。僕は構わずにドアへと走った。

あ、開かない…。
いくら押しても引いても、ドアはびくともしなかった。
ど、どういうことだよ、これは!
「オレの話をちゃんと聞くまでは、絶対に出さないからな。」
振り向くと、僕にそっくりの少年が目をぎらぎらさせてこちらを睨んでいた。
「お、大声出すよ!」
「いいよ、別に。どうせオレの姿は、お前にしか見えないんだ。寝ぼけてたんだろって言われるのがオチさ。」
僕はドアの前にへたり込んでしまった。何がどうなってんのか、さっぱり分からない。
「それにお前のママを呼んでも、助けになってくれないぜ。」
「何で?」
「あいつ、ニセモノだからな。」
「えーっ!?」
「ばか!大声出すな。誰か来たらどうするんだ。」
はあ?自分の姿は見えないって、さっき言ってなかったっけ?

それに、ニセモノっていったら嫌な思い出がある。確かそっくりさんはサンバが好きで、曲をかけたら突然幼稚園のみんなが踊り出したりしたんだっけ。
それで家に帰ったらママがいつも通りにこにこ待ってたけど、その後ろからもう一人の僕が…ううっ、思い出したくない!
でも確かニセモノ事件は、もう解決したんじゃ…。
「お前今、一ヶ月前のこと思い出してんだろ。」
こ、こいつ、心が読めるのか!?
「あの事件はな、実は完全には終わってないんだ。」
「ええ?じゃあまた、アミーゴスズキが…。」
「…誰だ、それ?」
あれっ、知らないの?てことは今度の事件には、アミーゴスズキは無関係ってこと?
混乱中の僕には構わず、そいつは話を続けた。

「とにかく、まだ終わってないんだ。」
「何でそんなこと分かるんだよ。」
「現にオレがいるだろ。」
た、確かに。 
「で、僕にどうしろって言うわけ?」
「ああ、そのことだけどな、お前、ガキのわりにしっかりしてそうだし、ちょうどいいから協力してもらうぜ。いいな。」
「いいな。」って…全くこいつ、なんて自分勝手な奴だ。
ていうか、ガキにガキって呼ばれたくないんですけど…。
「まずは、お前のママと入れ替わってる奴を何とかしないとな。」
「何とかって?」
「始末するんだ。生かしとくと後で色々面倒だから。」
ええっ!だめだよ、そんなの。殺人だよ!
「だーいじょうぶだって。相手は人じゃないんだぜ。」
「じゃあ何なのさ。」
「知らない。」
即答かよ!
「どうでもいいだろ、そんなこと。殺人って確か、人を殺すって字を書くんだよな。人間を殺すんじゃないから、殺人にはならないぜ。」
うーん、こういうのを屁理屈って言うんだろうな、多分…。
結局僕は、そいつに言われるままにニセママの「始末」に協力することになってしまった。

「で、どうするの?」
僕は小声で、ママに聞こえないように囁いた。
部屋から出て、取りあえずママのいる居間まで来たのはいいけど、これからどうするつもりなんだろう?騒ぎを起こしたら隣の人から苦情が来るかも知れないし…。
「大丈夫、それは心配すんな。」
「何でそんなにはっきり言えるわけ?」
「ここの奴らもほとんど替わられてるから。」
余計にやばいだろうが!
「だから大丈夫だって。万一気がつかれたら、そいつらも一緒にやればいいだろ。」
そんなに簡単に言わないでください。相手が人間だろうとなかろうと、誰かを「殺す」っていうのは気味悪いんだから。
「ちぇっ、仕方ないな…じゃあ、この際生け捕りにするか。」
「生け捕り?」
「殺すのは嫌なんだろ。それならそうするしかないじゃないか。」
そうかな?もっと話し合いとか、色々方法は…。
「バカ、アホ、間抜け、ノータリン、ナス、カボチャ!」
な、何だよ!?て言うか、すごく色んな悪口知ってるんだね。
「あのな、相手は人じゃなくて、いわば化け物なんだ。あんな頭と性格の悪い、食い意地ばっかはってる化け物に人間の理屈が通用すると思ってんのか?話し合いなんかやった所で、ボコボコにされるのがオチさ。」
えらくボロクソ言ってるけど、そう言う君も「化け物」の仲間なんじゃないの?
「う…それはまた別なんだよ。ややこしいから、後で話す。」
あ、ごまかした。
「うるさい!と、とにかくだな、今からオレの言うことを…。」
言いかけたそいつが、ぴたっと口をつぐんだ。

「どうした?」
「…あの居間の中、他にも誰かいるぞ。」
えっ?
僕は慌てて覗き込んでみたけど、ママがソファで座っているのを除いて、誰も見えない。「いないよ、誰も。」
「見えないだけだよ、オレの時と同じで。ちょっと待てよ、お前にも見えるようにしてやるから。」
そう言うと、そいつは僕の頭をいきなりがしっとつかんできた。な、何する気!?
「バカ、じっとしてろ!」
言われた瞬間、つかまれた手から頭の中に、奇妙な感覚が流れ込んできた。そう…何だか脳の中を爽やかな風が通り抜けていったかのような、そんな感じの。
それはほとんど一瞬にして終わったけれど、その時の感覚はしばらく鮮明に頭の中に残っていた。
「よし、これでいい。」
そいつは満足そうにうなずいた。
「じゃあ、もう一回見てみろ。今度はちゃんと見えるからな。」
言われるままに、僕は居間の中をもう一度覗き込んだ。

う、嘘っ!
僕は仰天した。今まで誰もいなかったはずの机の上に、誰かが腰掛けていたのだ。
しかも、ここから見える後姿。あれってまさか…。
「そのまさかよ。」
僕のすぐ後ろで、ママの声がした。
えっ?
慌てて振り返ると、そこにはニコニコ笑うママの姿が。ソファに目を戻すと、もうそこには誰もいない。
な、何なんだ、一体…。
「トオルちゃんったら、そんなとこで立ち聞きなんてお行儀悪いわねえ。」
「え?別に、そんな…。」
と、とんでもない、立ち聞きなんてっ!僕はただ、僕とそっくりな変な奴に無理やり連れてこられただけ…。
あれ?あいつがいない…。
ついさっきまで、僕の後ろにくっついてたはずなのに。もしかして、危なくなったから姿を消しちゃったとか?そ、そんな、人を勝手に巻き込んどいて!

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