トップ小説作成者・水晶の花さん


勝てない。
絶望が、心の中に広がっていく。そして、今まで味わったことのない恐怖感も。
自分がどうあがいても勝てない相手が、目の前にいた。
身体中が傷つき、悲鳴をあげているのが分かる。もう思うように歩くことすらできない。でも、目の前の「それ」は確実に迫ってきていた。
背中を向け、泣き声に近い悲鳴をあげながら、走り出そうとした。
その時、背中に鋭い痛みが走った。その感覚で、斬られたのだと理解できた。身体が崩れ落ちるように倒れていく。
‥‥‥死ニタクナイ‥‥‥タスケテ、パパ‥‥‥。

ジャクリーン・フィーニーは、がくんという衝撃で眠りから引き戻された。
思わずぎくりとして立ち上がりかけて、そして苦笑する。ここはジェット機の中だ。少しくらい揺れるのは当たり前のことなのに、こんなに過敏に反応してしまうなんて‥‥‥。
ジャクリーン‥‥‥通称ジャッキーは、眠りこけている仲間たちを起こさないようにして立ち上がり、洗面所へと向かった。鏡の前に立ち、じゃぶじゃぶと音を立てて顔を洗う。それでさっぱりした。化粧直しも終えて、ジャッキーは自分の席へ戻ろうとした。
ちょうどその時、五、六歳ぐらいの少年がこちらへ歩いてくるのに気がついた。彼もまた、トイレに来たらしい。どこかで見た顔だな、とジャッキーは思ったが、別に気にもとめず、その子供とすれ違った。
ジャッキーの席は、通路側に決めてあった。これは乗ってくる客を見張る目的でだ。ジャッキーの敵を見つけ出す感受性は並みではないので、こういう見張りにはうってつけだった。今のところ、怪しい者はいないようだ。
しばしぼんやりとしていると、さっきの少年がこちらへ戻ってきた。そしてジャッキーのすぐそばを通り過ぎたのだが‥‥‥。
「ダメだよ、見張り役がぼーっとしてちゃ。」
耳元で囁かれ、ジャッキーはその場で凍りついた。さすがに顔ごとは振り返らず、目だけそちらへ向けると、ちょうど目の前を行き過ぎていく少年と視線がかち合った。

その瞬間に感じた視線の冷たさと鋭さに、ジャッキーは戦慄した。悪夢の記憶が蘇ってきた。
我に返った時、もうそこに少年の姿はなく、ただ遠ざかっていく足音だけが聞こえてきた。
「‥‥‥ん?ジャッキー、どうしたんだ?」
仲間の一人が目を覚まし、まだ動けないでいるジャッキーを怪訝そうに見た。
「何かあったのか?」
「いえ、なんでもないの。」
ジャッキーは何気ない声を装って言った。
「ちょっと、怖い夢を見ただけよ‥‥‥。」

ジャッキーたちSRIのメンバーは、今飛行機で日本へ‥‥‥春日部へと、向かっているところであった。なぜかは後々分かることになるが、今回の彼らとそしてしんのすけたちは、これまでにない恐るべき敵に立ち向かう事になる。
そしてすでに、一つの悲劇が春日部に起ころうとしていた‥‥‥。

「うわ‥‥‥すごい雨。」
桜田ネネは、さっきまで晴れていたはずの空がどんより曇って、上からバケツのように雨が落ちてくるのを見てびっくりして呟いた。
「傘持ってきてよかった‥‥‥。」
ママに言われ、しぶしぶ傘をマサオの家に持ってきたのだが、珍しく天気予報が当たったようだ。ピンクの傘をえいっと一気に広げ、外に出る。
「じゃ、マサオくん、また明日ね〜。」
「うん‥‥‥バイバ〜イ。」
マサオの声には、いまいち元気がなかった。これまで二時間近く、リアルおままごとの相手をさせられていたのだから無理はない。
それに気づかないネネは、「明日はまた新しいプロットでやるわよ。」と言って、マサオを一層げんなりさせたのだった‥‥‥。
雨足は衰える気配を見せず、むしろ激しくなりつつあった。人通りも絶えている。
「んもう、靴下が濡れちゃう。」と、ぶつぶつ言いながら歩くネネは、激しい雨音のせいもあり、背後に音もなく迫る人影に全く気づかなかった。
その人影は、ちょうどネネと同じぐらいの背の高さで、同じ傘をさし、服装まで同じだった。そして、傘で隠してはいたが、ちらりと覗いた髪型と髪の色は、ネネとそっくりだった。
そいつはネネに、低く声をかけた。
「ちょっと、あんた。」
ネネは「え?」と驚いたような声をあげて、何気なく振り向いた‥‥‥。

バスに乗ったマサオは、ネネの姿がないのに気づいて怪訝に思った。
「ネネちゃんは?」
「さあ、お休みみたいだよ。どうしてか知らないけど。」
「ふーん‥‥‥。」
この時、マサオはなぜか嫌な胸騒ぎを感じた。でも大して気にはしなかった。
しかしこの胸騒ぎは、まさに当たっていたのである。

「今日は皆さんに、悲しいお知らせがあります。」
みんなが集まると、よしなが先生が沈んだ表情で言った。
「ネネちゃんが大怪我をして入院しました。」
「えーっ!」
しんのすけたちはびっくりして声を上げた。

その日の午後、防衛隊の面々はネネが入院している病室の中で、ベッドに横たわるネネの姿を見ていた。ネネの顔色があまりに悪いので、誰も言葉を出せないでいる。
結局、第一声を発したのはネネ自身だった。

「どうしたの、みんなして黙りこくっちゃって。」
しんのすけたちは顔を見合わせたが、いつまでも無言でもいられないと思ったのか、マサオが言った。
「その‥‥‥びっくりしちゃってさ。だって、いきなり大怪我したって‥‥‥交通事故か何かで?」
しんのすけたちはまだ、ネネがなぜ怪我をしたのか、理由を聞かされていなかった。
「ううん、違うの。襲われたの。」
「襲われた!?」
四人共‥‥‥ボーちゃんでさえ、思わず驚いて大声を上げて、看護婦さんに注意されてしまった。
「どういうこと、襲われたって?」
「もしかして、通り魔とか?」
「それが、分かんないの。ネネ、襲った奴の顔を見たような気がするんだけど‥‥‥どうしても思い出せないのよ。ただ、ものすごく怖かったことしか、頭の中にないの。」
「ほうほう、キトクソーリツってやつですな。」
「しんのすけ、それを言うなら記憶喪失だろ。」
「あは〜、そうともゆう〜。」

とその時、ネネが「あっ!」と叫んだ。
「何?ネネちゃん。」
「一つ、思い出したわ。あたしを襲った奴は、あたしとおんなじ顔をしてた。」
「えーっ!?」
しんのすけたちはまたまた大声を上げて、看護婦さんに怒られた。
「それ、本当なの?」
「間違いないと思う。あんまりびっくりし過ぎてたんで記憶が飛んでたのかも知れないけど、今窓に映った自分の顔を見てたら、急に思い出したの。」
「じゃあそっくりさん?」
「えーっ、あれはもう終わったんじゃないのぉ?」

しんのすけとマサオが口々に言った。無論二人共、つい最近起こったニセモノ騒動について言っているのだ。
「じゃあオラたちも襲われるかも知れないってこと?」
「えぇーっ!やだぁーっ!!」
今度は運良く看護婦さんがいなかったので、怒られずに済んだ。
「‥‥‥でも、僕たちも、狙われる可能性、ある。」
「そ、そんな、ボーちゃんまで怖いこと言わないでよ!」
「でも本当にそっくりな顔だったのよ。」
ネネも言い張った。
「風間くんはどう思う?‥‥‥風間くん?」
「‥‥‥え?な、何?何か言った?」
「どうしたの?ボーっとしちゃって。何かいつもの風間くんっぽくないけど。」
トオルは四人の会話に参加せず、ずっと目を宙に泳がせたまま黙っていたのである。
「う、うん、ちょっとね、考え事。」
「考え事?やっぱりそっくりさんのことで?」
「ま、まあそんなとこかな‥‥‥。」
やはりいつものトオルとは、どことなく違う。マサオの問いかけにもこんなにうろたえるなんて、何かあったのだろうか。
それとも‥‥‥もしかしたら‥‥‥。

トオルを見るみんなの視線が、疑わしげなものに変わってきた。それを感じたのか、トオルは妙にそわそわし始めた。
「じゃ、じゃあ僕、もうすぐ塾だからこれで‥‥‥。」
「え?‥‥‥あ、ちょっと、風間くん!」
マサオが止める間もなく、トオルは病室から走るように出て行ってしまった。
「変だね、風間くん。」
「うん‥‥‥もしかしたら‥‥‥。」
みんな、考えていることは同じだった。
風間くんはそっくり人間と入れ替わっているのではないか?
「よーし、じゃあ風間くんを追いかけて、本当に塾に行くか確かめるゾ!」
「し、しんちゃんがそう言うんなら、僕も行くよぉ!」
「ボー!」
「ネネも行きたいなぁ‥‥‥。」
「ダメ!」
三人は慌てて押し止めたのだった。」

トオルは病院から出てしばらくしてから後ろを振り向き、誰もいないのを確かめると、走り出した。これから行く所は、決して誰にも知られてはいけない場所だった。本当なら、決められた時刻以外は行ってはいけないのだ。
でもとうとう人が襲われた。それもネネちゃんだ。放っておいたら、身近な人たちにもっと大変なことが起きる可能性もある。
「クリア‥‥‥早くクリアに知らせなきゃ‥‥‥。」
トオルは走りながら、知らないうちに呟いていた。

「か、風間くん、速いね‥‥‥。」
マサオがはあはあ息を切らしながら言った。
「どこ行くんだろ?」
「それを確かめに行くんだゾ。」
しんのすけが珍しく(?)的を射た発言をした。

ちょうどその頃、ジャッキーとSRIのメンバーたちは春日部に到着していた。

そして、恐怖も同時に春日部を訪れようとしていた‥‥‥。

「どうしよう‥‥‥。」
その場に立ち尽くして、しんのすけたちは途方に暮れていた。
「確かにここに入ったよね?」
マサオがおろおろと周りに目を向ける。
「うん‥‥‥。」
ボーちゃんもきょろきょろしている。普段は無表情な顔に、戸惑いが表れていた。
「ワープしたのかな。」
「まさか。魔法使いじゃあるまいし。」
しんのすけのズレた考えを、マサオは即座に打ち消した。
「じゃ、何でいないの?」
「うーん‥‥‥。」
三人共腕組みして、考え込んでしまった。
ここまでトオルの後をつけてきたわけだが、この古びた建物に入ったきり、いつまで経ってもトオルが出てこない。しびれを切らして入ってみると、トオルはどこにもいなかった、というわけだ。
よく調べてみたが、この廃屋には出入り口が一つしかないし、窓もきっちり閉められていて、しんのすけたちの目に触れずに出て行くことなど不可能なのだ。
それなのに、トオルは中にいない。これはどういうことか?
解けない謎に出くわした三人は、五歳児なりに脳細胞をフル回転させて答えを見つけようとしていたが、ダメだった。考えれば考えるほど、頭がこんがらがってくるのだ。
「どうしよう‥‥‥。」
マサオがまた言った。
「ネネちゃんに怒られる‥‥‥。」
それが一番怖いのである。
「もうしょうがないゾ。こうなったら、もっと別のことを考えるゾ。」
「別のこと?」
「うん、どうやってネネちゃんに言い訳するかだゾ。」
諦めた三人は、廃屋から出て、ネネの怒りの回避の仕方の話し合いを始めた。
「じゃ、こうゆうのは?マサオくんがお金を落としちゃって、探してるうちに見失っちゃったとか。」
「それか、マサオくんがいじめっ子にからまれた、とか。」
「何で僕のせいにばっかするの!」
話し合いは、なかなか終わりそうになかった。

‥‥‥くそっ、あと少しだったのに。
悔しさに、思わず舌打ちが漏れた。また逃がしてしまった。これで5回目だ。
そいつはしんのすけたちの後ろから、同じようにトオルをつけていた。ただ、目的は三人と全く違っていたのだが。
あの三人は邪魔だったが、別に風間トオルさえ捕まえてしまえばあとはどうでもいい。適当に始末するか、いなくなるのを待てばいいのだ。そいつには、先を行っていた三人にない特技があった。身体を全く見えないように、透明にできるのだ。だからしんのすけたちよりずっと早く、あの廃屋へ飛び込んだのだが、一足遅く、またしてもトオルの気配が消えてしまった。
どうしてあそこへ行った途端に奴が消えてしまうのかは、そいつにも全く分からなかった。いずれにしろ、分かっているのはまた失敗したということだ。このことを報告に行かねばならない。
そいつはふらふらと歩き始めたが、数歩も行かないうちにぎょっとして足を止めた。
覚えのある気配が、こちらに近づいてくるのを感じた‥‥‥そんな、何であの化け物がここにいるの?
そいつは慌てて身体が透明になっているか確認し、さっき出てきたばかりの廃屋に駆け込んで、影になっている所に隠れた。そんなことをしなくても姿は見えないのだが、そんなものが通じる相手ではない。なるべく目立たないに越したことはなかった。
気配はゆっくりと近づいてくると、なんと廃屋の中に入ってきた。そして真っ直ぐに、部屋の隅の方へ‥‥‥そいつが隠れている所へと、歩いてきた。
お願い‥‥‥見つからないで。
そいつの願いは空しかった。姿は見えなかったが、そいつのすぐそばに立った気配が、笑いを含んだ声で言った。
「そんなとこで何してるんですか、ジールさん。」
そいつは‥‥‥ジールは、凍りついたように動けなかった。恐怖で身体が固まって、震えることすらできない。
「あ、あんたこそ、何しに来たのよ。」
声がみっともなく震えるのを、どうしようもなく止められなかった。
「暇つぶしですよ、暇つぶし。」
声が笑った。
「あんなに長く閉じ込められてると、イライラするんですよね。だから任務をおおせつかってきたんですよ。」
「任務?」
「最近失敗続きなんでね、あのネネって子とも入れ替わり損なったし、尾行もまともにできてないし、それにナンバー5のモンスタータイプのくせにチェリッシュにはまるで歯が立たないし。だからジールさんを始末しろって。」
ジールは動こうとしたが、遅過ぎた。ヒュッという音と共に、ジールの意識は闇へと消えた。
そして、二度と戻らなかった。

「あーあ‥‥‥全く、役に立たないのばっかり。」
足元に広がる黒い液体を見下ろしながら、その人影はため息混じりに言った。さっきまではジールだった液体だ。
「やっぱりチェリッシュとクリアは、僕がやるしかないのか‥‥‥。」
人影から、微かな笑い声が漏れた。どこか、背筋が冷たくなるような笑い方だった。

「ジャッキーッ、久しぶりりあんとぐりーん。」
しんのすけは独特の挨拶で、ジャッキーを我が家へ迎えた。
「いやあ、本当にびっくりしたよ。」
「そうよ、いきなり電話もらったから、驚いたわ。」
「ごめんなさい、急に連絡して‥‥‥。」
言いながら、ジャッキーたちは野原家の居間に入った。そこにはもう退院したネネと、マサオ、ボーちゃんも座っていた。ジャッキーを見て、嬉しそうに手を振って歓迎する。
「久しぶりね、みんな。」
ジャッキーは微笑んで、それからふと眉をひそめた。
「あら?しんのすけ、あなたにはもう一人、男の子の友達がいなかった?」
「うん、実は‥‥‥。」
しんのすけはトオルがニセモノになっているかも知れないということを説明した。ジャッキーの顔が強ばる。
「それは大変だわ‥‥‥。」
「何が大変なの、ジャッキー?」
「電話で言ったわよね、またニセモノが出没し始めたって‥‥‥でもそれは私のパパとは無関係で、しかもコンニャクローンより遥かに発達しているそっくり人間たちなの。」
「アミーゴスズキじゃないんなら、一体誰が‥‥‥。」
「さあ‥‥‥とにかくね、奴らは非常に危険なの。凶暴な上にある程度の知性を持ち合わせているし、それに、とても強いのよ。実を言うと‥‥‥。」
ジャッキーは少し顔を歪めた。
「SRIはね、奴らのうちのたった一人の襲撃に合って、ほぼ壊滅したわ。」
「え!?」
全員が驚愕して叫んだ。
「ど、どうして‥‥‥。」
「効かなかったのよ、コンニャクローン退治用の薬品が。もちろんありったけの力を使って戦ったけど‥‥‥ダメだったわ。私以外のメンバーは五人を残してほとんど死んだし、私も殺されるところだった。」
ジャッキーはぐいと服の襟元を引っ張って、肩をむき出しにした。
「ほら、見て。」
全員‥‥‥しんのすけでさえ、言葉を失ってジャッキーの肩を見つめた。その白い肌に、生々しい傷跡が数本走っている。まだ治り切っていないようだった。
「背中には、もっとすごいのがあるわ。思い切り斬られたの。命があったのが奇跡よ。」
ジャッキーは服を元に戻した。
「とにかく、トオル君がニセモノに連れ去られたとしたら‥‥‥相当ひどい目に合わされてるかも知れないわ。」
「ひどい目?」
「殺されてるかも知れない。」
「嘘!」
ネネが悲鳴のような声を上げた、その時だった。

「残念ですけど、それはとんでもない勘違いですよ、皆さん。」
「え?」
突如降ってきた声に、一同は戸惑って周りを見回した。と、窓の方を見やったマサオが悲鳴を上げた。
全員がその場に硬直した。‥‥‥開いた窓の所に、いつのまにかトオルが腰かけて、こちらを見つめていたのだ!
いや、トオルじゃない。しんのすけたちは思った。トオルのニセモノだ。
「ニ、ニセモノ!風間くんをどこへやったんだ!!」
しんのすけが大胆不敵にも叫んだ。しかし、相手は表情を崩さなかった。
「だから、言ってるじゃないですか、それは勘違いだって。」
丁寧な口調が、却って不気味だ。
「勘違いって、どういうことよ?」
「トオル君はニセモノと入れ替わってはいないってことですよ。最も、何か隠してはいるようですが。」
「隠してる?何を?」
「それは本人に聞いてみればいかがです?」

「‥‥‥どういうこと?」
「だから、僕は知りませんって。」
その時、ジャッキーが不意に立ち上がった。鋭い光をたたえた瞳で、相手を睨みつけている。
「みんな、下がって。」
「え?」
「こいつよ、SRIを襲って私に切り傷を負わせたのは‥‥‥。」
「えーっ!?」
「飛行機で会った時、まさかと思ったけど‥‥‥まさか本当に来てたなんて。」
ジャッキーは唇を噛みしめ、懐から銃とナイフを二本、取り出した。
「一応‥‥‥名前を聞かせてくれないかしら?あんたたちを支配している奴の名前を。」
「そんなこと、言うと思ってるんですか?」
トオルのそっくりさんが笑った。
「でも可哀そうだから、組織の名前と僕の名前ぐらいは教えてあげましょうか‥‥‥僕はシリウス。ブラックシャドー<黒影>の、ナンバー2。」
「ブラックシャドー?」
ジャッキーが聞き返した、次の瞬間だった。
首筋に迫る殺気を感じ、ジャッキーが身をひねったのと、何かがジャッキーのすぐ後ろの壁に突き刺さるのが、ほぼ同時だった。
「く‥‥‥。」
ジャッキーは歯噛みして、相変わらず笑っているトオルのそっくりさん‥‥‥シリウスを睨んだ。かわしきれなかったのか、首に小さな傷ができていて、血が滲んでいる。
シリウスの指が伸びて、信じられない速さでジャッキーに襲いかかってきたのである。
「ジャ、ジャッキー‥‥‥。」
しんのすけがさすがに震え声を出して、ジャッキーとシリウスを交互に見つめている。野原一家も、防衛隊の面々もだ。
いや、マサオだけは床にのびていた。恐怖のあまり完全に気絶してしまったのである。
「それ邪魔ですね。」
シリウスが事もなげに言ったかと思うと、ジャッキーの手から銃とナイフが弾き飛ばされた。
「‥‥‥!」
「はい、じゃあそろそろ終わりにしましょう。」
「ジャッキー!」
しんのすけが叫んだ。ジャッキーの身体のあちこちに切り傷ができ、ぱっと血が飛んだ。
ジャッキーがうめいて、床に崩れ落ちるように座り込んだ。
「‥‥‥そっかあ、思い出した。この前背中を斬った人ですよね、確か。」
シリウスの言葉に、ジャッキーは答えなかった。ただ荒い息を吐いている。
「次はどこがいいですか?」
シリウスは無邪気と言っていいほど楽しそうな笑みを浮かべて、ジャッキーに尋ねた。ジャッキーを痛めつけることを、心から楽しんでいるのだ。
「やめろお!」
しんのすけが恐怖を忘れて駆け寄ろうとした、その時であった。

ジャッキーは服のすそを引っ張られたのを感じて視線を下ろし、そして唖然となった。
座り込んでいるところのすぐ隣の床に、ぽっかりと黒い穴が開いていた‥‥‥いや、穴というよりは異次元空間の出入り口のようだ。ざわざわと不気味に波打っている。
そしてそこから一本の腕が突き出して、ジャッキーの服をつかんでいた。人間の、子供の腕らしい。
「え?」
シリウスの目が見開かれた。本気で驚いている。とすると、この現象はシリウスのせいではないのだ。
と、黒い穴が一気に広がったかと思うと、腕はジャッキーの身体をそのまま穴に引き込んでしまった。
「ジャッキー!?」
しんのすけが叫んだ時には、穴はジャッキーを呑み込んで消えてしまった。
「一体‥‥‥。」
青ざめたみさえはふと後ろに目をやって、悲鳴を上げた。さっきの黒い穴が、すぐ後ろの壁に現れていた。
「あ‥‥‥。」
それこそ何も言う間もない。しんのすけたちは磁石のようにそちらへ引き寄せられ、気絶したマサオも、全員が穴の中へ吸い込まれてしまった。
視界が真っ暗になる一瞬前、しんのすけは居間の床に飛び降りているシリウスの顔を見た。その顔が、驚きと怒りで歪んでいるのが束の間目に入った。
そして‥‥‥。

しんのすけは突然背中に、柔らかい感触を感じた。
「ぐえっ!」
すぐ下で踏み潰された蛙みたいな声がするのをしんのすけは聞いて、首をねじって振り返った。すると、目の前にマサオの真っ白な顔があった。どうやらマサオのお腹に倒れ込んでしまったらしい。
でもそのおかげかどうか、マサオはようやく意識が戻ったようだった。
「ここ‥‥‥。」
マサオがお腹をさすりながら、目を丸くした。
「風間くん家じゃない?」
その通りだった。トオルの住むマンションの部屋の、こぎれいなリビングの床に、一同はひっくり返っていたのである。
「何だったの、今の。」
ネネが狐につままれたような顔で、きょろきょろしている。
「何かワープしたみたいな感じだけど。」
「ま、そんなとこかな。」
頭上で声がして、全員飛び起きた。声のした方向を見ようとした拍子にマサオは机の角に嫌というほど顔をぶつけてしまい、「あいたっ!」と叫んだ。
声の主は、テレビの前にある机の上に寝そべって、頬杖をついてしんのすけたちを眺めていた。えらく行儀が悪い。それはいいとして、問題は‥‥‥そいつが、ネネにそっくりな姿をしていることだった。
「キャッ!」
襲われた経験があるだけに、飛び上がって逃げようとしたネネの腕を、そっくりさんが掴んだ。
「おい、ちょっと待てよ。」
え?一同はきょとんとなった。姿も声も間違いなくネネで、服装も女の子らしいのに、そいつの口から飛び出した言葉はいかにもぶっきらぼうで、男の子っぽかった。そのギャップに、しんのすけたちは戸惑ったのである。ネネも思わず動きを止めてしまった。
「取り敢えずそこに座れよ。今チェリッシュが何か持ってくるからよ。」
「あ、あの‥‥‥。」
「まだ安全とは言えないぜ。シリウスの奴が怒ってるだろうからな。だからお前らはあたしらがいいって言うまでここにいるんだ。分かったな。」
何とも強引な言い方だが、そこに脅しているようなニュアンスは感じられなかった。そしてしんのすけたちが何も聞けないうちに、台所の方から足音がして、誰かがリビングに入ってきた。
へっ?
全員の目が一瞬点になった。入ってきた奴も、やっぱりネネとそっくりだったからだ。これで三人のネネがここにいることになる。
ひろしが本物のネネの顔を見やると、ネネは度肝を抜かれたのを通り越して、棍棒で殴られたのにふさわしい顔をしていた。
「どうしたんだ?」
ジュースの入ったグラスを載せたお盆を運んで入ってきた方が、ショックで口もきけなくなっているしんのすけたちを見やりながら、のんびりと言った。こちらも男っぽいしゃべり方をしている。
「あたしたちの顔に、何かついてるかい?」
「見とれてるんだよ。」
机に寝そべっている方が事もなげに言って、欠伸を一つ噛み殺した。
「なあ、トオルの部屋に何か漫画あったよな。」
「あったけど、勝手に取ったのバレたらえらいことになるぜ。」
「でも退屈なんだよ。」
「じゃあすごろくでもやるか。」
「もう飽きたよ。十回もやったじゃないか。」
「人生ゲームもあるぞ。」
「あれややこしいから嫌いだ。」
「それじゃ‥‥‥。」
「ちょーっと待った!」
漫才みたくかけあいを続ける二人の間に、みさえが割って入った。二人がびっくりしたようにみさえを見る。
「聞きたいことがあるんだけど‥‥‥。」
「何?おばさん。」
「おばさん?」
みさえのこめかみがピクッと引きつった。危険を感じたひろしが、素早く話を引き取った。
「つまりね、君達が誰で、どうして風間くんの家にいるのか、理由を教えてほしいんだ‥‥‥君達は、コンニャクローンなんだろ?」

二人は束の間、そっくりな顔を見合わせた。
「うーん、そうだとも言えるしそうじゃないとも言えるな。」
「どういうことよ。」
みさえが怒ったように言った。
「だってさ、説明すると長いんだ。あたしらそういうの苦手だから、ライトに聞いてよ。」
「ライト?」
「あたしたちの仲間で、ここに住んでんの。あ、そう言えばあたしらまだ自己紹介してなかったっけ。」
机に寝そべっていた方が、よっこらしょと起き上がった。
「あたしがクリア。で、そっちがチェリッシュ。そこんとこよろしくね。」
よろしくね、と言われても何が何やら分からないしんのすけたちは、ただ呆然とその場に座り込んでいるばかりだったが、不意にしんのすけは大切なことを思い出した。
「ジャッキー!ジャッキーはどこにいるの?」
立ち上がりかけたしんのすけを、机に座っているクリアが止めた。
「あの女の人なら、心配しなくても大丈夫だと思うよ。今ヒールが治してるから。あ、ヒールってのはあたしたちの弟で、あたしたちは双子なんだけど。」
どんどん話し続けるクリアに、一同は口を挟む隙が全くなく、そっくりさんに兄弟や双子がいることに驚くことすら忘れていた。
「ヒールにはちょっと変わった体質があってね‥‥‥ん?どうした?」

最後の言葉は、今しがたリビングへと入ってきた人物へ向けられたものだった。
マサオがウッとうめくような声を上げた。‥‥‥入ってきた少年は、マサオにそっくりだったのである。幸い今回は、マサオは失神せずに済んだ。
「何か用か、ヒール。」
クリアが気楽な調子で話しかけると、ヒールと呼ばれたマサオのそっくりさんは二人のいる方へ近づこうとしたが、床に大勢の人間が座り込んでいるのを見て、しんのすけたちと同じくらいびっくりした表情になった。
「ああ、そいつらはいいんだよ。トオルの友達さ。」
ヒールが不安げにこちらを見たのに気づいて、クリアが安心させるように言った。
「危なそうだったから連れてきたんだ‥‥‥いいか、トオルには言うなよ。帰ってくるまでに何とかするから。」
ヒールはうなずいて、右手に握っていた何かを二人に差し出した。小さな紙片らしい。
「ありがと。」
チェリッシュが受け取って、それをしばらく見つめていた。何か書いてあるようだ。
「OK。じゃあ目を覚ますまで、そばにいてやってくれ。起きたらすぐにあたしらとライトを呼びに来るんだ。」
ヒールはもう一度うなずいて、小走りでリビングから出ていった。
「しゃべれないんだよ。」
みんなの表情に気づいたチェリッシュが、説明した。
「そう、あいつがあたしらの弟のヒールさ。ちょっと「事故」に遭っちまってな‥‥‥おい、何やってんだ、お前?」

ドタッという鈍い音に、クリアとチェリッシュが台所の方を振り返った。しんのすけたちもつられてそちらを見た。
「あら。」みさえがはっと息を呑んで言った。「風間くん!」
台所からリビングに通じる出入り口のところに、トオルがうつ伏せに倒れていた。どうやらつまずいて転んだらしい。
「あ、いたたたた‥‥‥。」
トオルはうめきながら身を起こし、クリアとチェリッシュの方を見て、それからしんのすけたちの方へと目をやった。その途端にぎょっとした顔になり、慌てて台所に駆け戻ろうとした。

「ま、待ってよ、風間くん。」
マサオが慌てて呼び止めようとすると、トオルは立ち止まってくるりと振り返った。その顔に、はっきりと怯えの表情が現れていた。
そして、その口が開いた。
「違います。」
「えっ?」
しんのすけたちは聞き間違えたと思った。
「今、何て言ったの?」
そう聞いたのは、みさえだった。

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