トップ小説作成者・どろろさん


月光恋夜


――ただいま、梅さん。
そう、笑顔で言った彼。
顔の下半分は、髭に覆われて。
彼女は微笑んで、
――お帰り、徳郎さん。
嬉しくて、嬉しくて、涙が溢れてきた。
突然泣き出した彼女に、彼は戸惑った。
――泣かないで。ほら、笑って。
優しい声で言われて、余計に涙が溢れてきた。

「夢……か」
薄暗い部屋の中、まつざか梅は呟いた。
黄昏時の部屋に響く音は、時計の針が動く音だけ。
午後五時。
幼稚園が終わって、帰ってくるなり、寝てしまったらしい。
棚の上の写真を見遣る。
「そうよね……彼が、帰ってくるはず、ないもの」
眼を伏せる。
(今日は、徳郎さんの…命日だったっけ)

瀬古井荘を出て、歩き出したまつざか。
赤い夕陽、橙色に藍色がかった空。
「どうして、夕暮れって切ない気持ちになるのかな……」
途中、花屋に寄って菊の花束を買った。
向かうのは、町外れの墓地だ。
町のあちこちから夕飯の匂いが漂ってくる。
遊んでいた子供達が帰って行く。
買い物帰りの主婦達。
下校中の学生達。
何故だか、そんな光景を懐かしく思った。

まつざかは思わず笑ってしまった。
随分と昔、自分が転げ落ちた階段だ。
あの時、近くの接骨院へ行っていたら、徳郎とは出逢えていなかったろう。
隣町のサンタバーバラ接骨院で一目惚れしてしまった。軽い打ち身だからもう来なくていい、と言われた時は彼に毎日でも逢いたくてワザと落ちた。今度は告白の練習をしていたら、それを相手本人が聞いていたのだから驚いて三回転半で落ちて腕まで折って、全治三ヶ月の入院。思えば、あの頃が最高に幸せだった。大好きな人と、毎日逢えたのだから。

ようやく辿り着いた。
小さな墓地。
まつざかの眼の前にある墓には、『行田徳郎之墓』とある。
菊の花を手向ける。
それから手を合わせた。
――徳郎さん、向こうでお元気ですか?
あたしは元気です。毎日毎日疲れ知らずの野獣のような子供達と遊んで。くたくたになったって、そんな自分が好きで、ふたば幼稚園が好きで、子供達が大好きで。
しばらく語りかけたまつざかは立ち上がって、墓地を後にした。

陽はすでに暮れて、空は藍色。
星々が瞬いている。
月は金色に輝いて、街灯の切れた夜道は月明かりで充分だった。
「綺麗な月…こんな時、徳郎さんがいたらなぁ……」
月明かりの中を恋人同士で歩く。
何ともロマンチックではないか。

ふと、誰かの気配がして、横を見ると……
「……えっ?!」
隣の人物は穏やかに微笑む。
「と…徳郎さん……!」
(どうして……!だって、徳郎さんは……)
心底驚いた。
「君があんまり寂しそうなんで、つい出てきちゃったよ」
頭を掻きながら照れくさそうに言う。
「出てきたって……?」
「僕は…いわゆる、幽霊さ」
「幽霊……」
言われてみれば、確かに下半身が半透明になっている。
(……徳郎さん)

ぽつぽつ話しながら歩いていると、何度かデートをしたことのある中央公園に来ていた。
ベンチに座る。
「やぁ、本当に月が綺麗だね」
「ええ」
少しの沈黙。
「僕はね、ずっと君のこと見守ってきたんだ」
「え……」
ふっと笑う。
「君のことが、心残りでね」
「…………」
まつざかは俯いた。
「君が、僕の後を追って死のうとしてた時は驚いたし、焦ったよ。何せ君にはもっと長生きしてほしかったから」
「ごめんなさい」
小さな声で詫びる。
「別に謝ることはないよ。それだけ、僕のことを愛してくれてることも分かった。でも、やっぱり死ぬのはよくない。自殺なんてもっての外さ。――僕の手紙で、立ち直ってくれて良かった」
緩やかな夜風。
「それからの君はみるみる元気を取り戻していった。普段の君を見ているのは楽しかったし面白かった。確かにしんちゃん達が言うように、おっかないし厚化粧だし、よしなが先生とは喧嘩ばかりで強がり、性格も歪んでる」
可笑しそうに笑う。
「でも、梅さん。君は、優しくて思いやりがあって、いい先生だと思う」
まつざかを見て、少し哀しそうに笑う。
「やっぱり君の恋人になれて、僕は幸せだった。例え、ほんの少しの間だけでも。僕は、本当に幸せだった」
涙が込み上げてくる。
月光に照らされた雫が、頬を伝う。
涙が止まらない。
生まれて初めて出来た恋人。最愛の人。
幽霊である、今の彼には触れることさえ出来ない。
「ありがとう」
徳郎の言葉に、まつざかは首を振る。何度も何度も。
違う。
感謝するのは自分の方だ。
こんな自分の彼氏になってくれた。こんな自分を心の底から好きになってくれた。
色々なトラブルはあったけど、やっぱり二人は愛し合っていた。
「梅さん。きっと君には、本当の運命の人が現れると思う。僕みたいに、君を哀しませたりなんかしない。本当に君を幸せにしてくれる運命の人が。――僕は、君の幸せを願ってる。そして、これからもずっと君を見守っている。君の傍にいる。ずっと」

そう言って徳郎は、ゆっくりと消えて行った。
まるで、月の光に溶けてゆくように……

独り、静かに泣いていたけれど、やがて立ち上がり、彼女は呟いた。
「さぁて、明日も頑張ろう」
うぅ〜んと伸びをする。
その顔には晴れやかな笑顔が浮かんでいた。

小説トップに戻る

トップページに戻る