「鳩摩羅什」について         2007.5.19

姚秦(ようしん)
 四世紀末から五世紀始めの頃、中国の華北西部を統制した国で五胡(ごこ)十六国の一つ、
通称は、前秦と区別するために、後秦と言った。
鳩摩羅什(344〜413)
 父は、インド人鳩摩炎。母は、亀茲国(現在の中国最西部中央アジアの国境近く車庫クチャ)の王女耆婆。
亀茲国は、オワシスの中にあり、東西貿易で繁栄して豊かな国であった。ラピスラズリー(瑠璃)が採れた。
しかし、この地は、匈奴や漢にいつも狙われていた。
 7歳にして出家。日に千偈を読む。9歳にしてインドガンダーラ・カシュガル留学。
12歳亀茲国に戻る。高名な僧となる。アビダルマ・論を講義する。
379年(前秦建元18年9月)中国王符堅は、将軍呂光に7万の軍をあづけ、鳩摩羅什を中国に連れることを頼む。
亀茲国王白純は、これを阻んだが、大敗して殺される。呂光は、羅什がまだ若い事を知ると、亀茲国の女を以て娶らし、犯戒させる。
その後、符堅が殺されたこと聞くと呂光は、涼州で自ら王となった。その後呂光は亡くなる。羅什は軟禁生活、約17年。

401年後秦弘始3年5月姚興軍を遣わし、呂光の子孫呂隆を討って、50歳を越えた羅什を、都長安に連れて行く。
秦王は、羅什を国師の礼をもって優遇した。
 402年阿弥陀経を翻訳する。403年大品般若経訳す。405年12月大智度論。406年5月法華経、維摩経訳す。おおよそ300巻大乗経を翻訳す。
 後秦弘始15年4月13日、長安大寺で亡くなる。70歳。私自身は、愚かであるが、多くの翻訳した経典は長く残るであろうと言ったと伝えれている。
(舌だけは残る)
 羅什の翻訳は、自分が犯戒した事もあり、人間の苦悩・煩悩というものをよく知っており、人間臭い、情のある訳になっている。その後、同じ経典を、色々な方が、翻訳したが、羅什の訳が後世までお経の読誦されている。
 鳩摩羅什以前の訳を古訳。羅什から玄奘までの訳、旧訳(くやく)唐の玄奘及び以後を新訳という。また訳者不明なものを失訳経という。
 詔(みことのり)姚秦の第二世は、前秦を破り、華北の西半を統制して国勢を弘め、仏教を保護して、その受け入れに力を注いだ。
 
多思知恩 鳩摩羅什が、国を滅ぼされて涼州に連れて行かれた頃、西域から馬が中国に伝わりました。
中国は、権力で欲しいものがあると国を滅ぼしてまで、そのものを得ようとしました。素晴らしい馬駿馬(しゅんめ)。
鞭をあてなくても主人の意図を察して走る。普通の馬、鞭をあてて走る。駄馬、鞭をあてても走らない。
この馬は殺されて桜肉となる。馬は、走りが命。人は多思知恩。無縁でも仏縁が得られる人は、最高である。
しかし一般人は、有縁の死などのよって諸行無常を知り仏縁を得る。どうしようもない人は、有縁の人の死に会っても仏縁が深まらない。
馬は桜肉になるが、人はいかに?