ベンチャーズコーナー 

段無用ノ介とベンチャーズとの出会いは12歳の時、テレビに出演していたベンチャーズの演奏を聴(見て)いて衝撃を受け、その後当時毎月購読していた「中一コース」という雑誌にエレキ・ベンチャーズの特集があり、グリッサンド奏法等が記載されていて無性にエレキが欲しくなり、更に「海の若大将」、「エレキの若大将」に打ちのめされてエレキを手にする。そしてバンドを結成し、最初に演奏した曲はベンチャーズのパイプラインだったように記憶している。
 そこでベンチャーズが使用していたエレキ・ギターについて(ノーキー在籍まで)、各種音楽雑誌から抜粋して記載してみた。


FENDAER YEAR
世にエレキ・ギターが登場したのは1935年。当時はアコースティック・ギターににマイク(ピックアップ)を取付けただけのようなフル・アコースティック・エレキが主流だった。しかし、フル・アコはよりパワフルな音を求めるに際してボディ内が空洞のため、雑音を発しやすい構造になっており、新たな改造が必要とされていた。そこで、登場したのがソリッド・ボディのエレキギターである。1948年、それを世に送り出したのが、フェンダー社であった。
 時は流れ、ボブ・ボーグルとドン・ウィルソンがぬ二人だけでベンチャーズ”を名乗って活動していた初期のころ二人はそのフェンダー社のソリッド・ボディのエレキギターを手に入れ、それをフェンダー“コンサート”につないでプレーしていた。ボブはフェンダー・ジャズマスターで、当時59年製を新品で買ったものらしく、2トーンサンバーストでタートイス・カラーの3ピース・ピックガード、スラブボード・ネックがそれを物語っている。

 ドンはフェンダー・ストラトキャスターで、59年時点でメイプル・ネックの塗装が剥がれたものを手にしており、その後、ローズネックの’60年〜’62年製を買ったようだ。彼は’62年に、ボブと同じフェンダー・ジャズマスターにコンバートしているが、それは彼のピッキングが強く、よく弦が切れたためだという。彼が買ったのも’59年〜’61年製で、ボブのギターと同じスペックのものである。
 60年に参加したノーキー・エドワーズはフェンダー・プレシジョン・ベースをもってベンチャーズに加わったが57〜59年製の中での後期のものと思われる。当時ノーキー・エドワーズは、58年製のフェンダー・ストラトキャスターの次に手に入れた56年にかった51年製のフェンダー・テレキャスターを愛用しており、62年にはフェンダー・ジャズマスターも手に入れて弾いていたそうだ。
当時ソリッド・ボディのハイクラスのエレキ・ギターというと、フェンダー社とギブソン社のエレキ・ギターが主流であった。しかし、ギブソン社のエレキ・ギターが粘り気のがある重々しい音色を発するのにのに対して、フェンダー社のエレキ・ギターは、からりとした抜けのいい音を選択した。もし、彼らが、ギブソン社の音色を好んで使用していたとしたら、あの軽やかでカラフルなサウンドは生まれなかったかもしれない。段無用ノ介も白いフェンダー・ジャズマスターを所有している(フェンダー・ジャパン製)
MOSRITE YEAR
モズライトとベンチャーズの出会いは、ノーキー・エドワーズがテレキャスターのネックを細く削ってもらうために、ベーカーズフィールドのセミー・モズレーを訪れ、そのテレキャスターの代わりにモズライとギターを借りたことがノーキーとモズライとの出会いであり、それを63年5月に発売されるアルバム「SURFING」のレコーディングで使用したことがベンチャーズとモズライトの黄金時代の始まりとなったのである。
 1965年1月2日パンアメリカン航空の便で17:25pmに来日したベンチャーズは計9回の公園を行っている。前年11月28日に発売されたチケットが数日で売りきれるといういような盛り上がりをみせ、その演奏も脂ののりきった黄金時代にふさわしいものであった。
この来日でノーキーが持参したモズライトは、今日63年モデルと称されるベンチャーズモデルでセットネック、スリムなネック厚、ビブラミュート・テールピース、サイドジャック、3プライ・バインディングなどをその特徴としていた。
一方、ドンのギターは同型の63年モデルではあるが、メタリック・レッドにフィニッシュされ、マッチング・ヘッドを外見上の最大特徴としている。
 ボブのベースはおそらくプロトタイプと思われるもので2ピックアップ、3コントロール・ノブをその最大の特徴としている。
 1965年7月21日日本航空865便を使って3度目の来日を果したベンチャーズは「ダイアモンドヘッド」「十番街の殺人」「キャラバン」の3大ヒットを引っさげて初の長期公演を行うこととなる。この65年夏の公演で彼らが使用したモズライトこそファン垂涎の的となったパールホワイトの64〜65年モデルであった。もはやボディー・バインディングは取り去られ、でタッチャブルに変更されたネックは量産モデルの範疇にあるものの63年モデルにもまして強力なピックアップから出力されるサウンドは、多感な少年達を熱狂のエレキブームと駆り立てることに成功する。ノーキーは、64年モデルと思われるシリアル600番台のモズライトを使用。同年7月28日及び8月4日放送のスターの広場で加山雄三氏と共演したベンチャーズは、その年の最終公演を川崎で終えた後、ノーキーが使用したそのギターを同氏にプレゼントしている。翌66年春の再来日の際にギター1本、ベース1本を更にプレゼントしている。段無用ノ介も66年製パールホワイトのモズライト(シリアルNo.3082)64年製パールホワイトのレプリカのモズライトを所有している。
 1966年3月18日4度目の来日を果したベンチャーズは3月31日までに13回の短期公演を行っている。キャンディ・レッドのモズライトで揃えた姿は今でも人気が高く、63年のサイドジャック、64年のパールホワイトについで1度は所有したいモデルかもしれない。
 1966年7月17日前年同様に年2回の来日を行ったベンチャーズは7月20日〜9月11日にかけて50回以上の公演を行っているが今回は前年の夏と同じくパールホワイトのモズライトで登場。それらはモズレーユニット、ネックロッドの調整方法、ノブの形状、ポリエステル・フィニッシュが採用されている。更に興味を惹かれる点はギターのピックガードに描かれたモズライトのロゴマークとモズライトの文字である。
 1967年6度目の日本公演は7月25よりスタートし、8月17日の最終公演まで20回という比較的短期ツアーであった。ソリッド・ボディのモズライトからセミ・アコースティックのコンボモデルへとスイッチさせたせいか、これまでのハードなドライブ感は幾分影をひそめることになる。ノーキーは、トランスパレント・レッドのコンボ・モデル。モズレーユニットはベンチャーズモデルと同一タイプでFホールにバインデングのつかないことから初期の生産ロットである事がわかる。ドンも同じコンボ・モデルを使用。こちらはサンバーストであること以外、ノーキーのギターと同一の特徴を備えている。ボブもサンバーストのコンボ・ベースを使用。ノーキーはパールホワイトの12弦ソリッドも持参し、数曲を演奏しているのが目新しい点である。


今、流れている曲は加山雄三(弾厚作:作曲)のヒット曲「夕陽は赤く」をベンチャーズの編曲によって演奏されたものを段無用ノ介がMIDIアレンジしたものです。このレコードは日本のみのシングルリリース
     <東芝EMI株式会社 CP28-5821>

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