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Dolls /
Takeshi Kitanos Dolls

北野武

2002 J 114 Min. 劇映画

出演者

西島秀俊
(松本 - 会社員)

清水章吾 (松本の父)

金沢碧 (松本の母)

菅野美穂 (佐和子)

野村信次 (佐和子の父)

中村万里 (佐和子の母)

大森南朋 (松本の同僚)

大塚よしたか (松本の友達)

西尾まり
(佐和子の友達)

矢川純一郎
(佐和子の友達)

中島美奈 (新婦)

児玉頼信 (新婦の父)

石垣光代 (新婦の母)

大家由祐子 (良子)

津田寛治 (良子の恋人)

松原智恵子
(良子 - 後の良子)

三橋達也
(良子の恋人 - 後、やくざの親分)

深田恭子
(春奈 - アイドル歌手)

吉沢京子 (春奈の母)

岸本加世子 (春奈の叔母)

種子 (春奈の付き人)

大杉漣
(春奈のマネージャー)

武重勉 (温井)

豊竹嶋大夫 (大夫)
鶴沢清介 (三味線)
吉田簑太郎 (梅川)
吉田玉女 (忠兵衛)

見た時期:2003年10月

海外で評判のいい日本人監督が日本では批判を受ける、日本で認められなかった芸術家が海外で賞を取ると晴れの凱旋ができるなど、日本という国と芸術の相性はあまりよくありません。海外と言ってもいろいろで、芸術に目を向ける余裕のある国と無い国があり、また、芸術を政治に使ってしまう国があったりで、どれがいい、どれが悪いということは簡単には決められません。日本は例えば個人の名前は重んじないけれど、世界に誇るような芸術的な工芸があったりする国です。ですから芸術をないがしろにしているわけではなく、個人プレーを嫌う傾向が強いのだと思います。

「日本も芸術家をあたたかく迎えろ」と単純に言っているのではありません。芸術の中には逆境から生まれたものもありますし、普段の苦しい生活の中で一瞬の憩いを求めるために絵を描いたとか小説を書いたなどというケースもあるわけです。まだ景気が良い頃ドイツで画家に与えられる補助金や展覧会出品の機会に群がった大勢の無名画家の中にどれだけ芸術と言えるものがあったのかを考えると、保護し過ぎても良いものは出て来ないと思うのです。これは音楽、映画なども似たりよったりです。

さて日本ですが、批判に耐えるだけの太い神経が必要、あるいはそういう点に無神経である方が本人のためにも良いというのが映画界。その中でわりと自分の立場を分かっていると思える監督が北野武。

北野武の初期の作品、あの夏、一番静かな海を見る機会を作ってくれた人がいました。ビートたけししか知らず、自分は外国に出てしまっていたので、たけしのお笑いもそれほどたくさん見る機会が無かったのですが、個性はざっと知っていました。苛め風のギャグも続出するので舞台ではそれほど感じが良くありませんでした。しかしまあ、そういう人が普段の職業と違う事をやるというので興味もわき、見てみました。当然ですがテレビ・タレントのビートたけしと監督北野武の落差に驚きました。非常に静かなトーンで、これといった大きな事件も無く、あっさりと人間関係を描いているだけ。状況を映しているだけです。この詩人があのあくの強いビートたけしかと驚いたのは私1人ではなかったはずです。この作品を作った監督には詩人という日本では使いにくい名称がぴったりでした。

本人は《タレント稼業で稼いだ金を趣味に使っているんだ》というスタンスだったので、スポンサーの意向に従わなければならないという拘束衣も着ておらず、低予算映画で、本人だけが満足していればいいという作品です。よそのお金を使って自己満足映画を作ったケースを多々見ていたので、北野の態度は私の目には正しく映りました。彼は恐らく上映してくれる映画館がみつかるかという心配だけすれば良かったのでしょう。

その後何度か北野映画を見る機会がありました。全部ではありませんし、北野が他の人のために働いた作品ではなく、自分のために作った作品中心です。あの夏、一番静かな海は詩人の作品でしたが、その後見たものは主として「自分の中の子供との対決、容認」を主眼に置いた作品でした。大人が自分の中にいる子供に気付き、その子供とどうやって付き合っていくかは大きな課題ですが、北野はあっさり子供っぽい所をそのまま画面に持って来ました。監督が自分のお金でやりたい事をやっているという感じです。

北野には子供っぽさ、海岸、やくざ、人間関係などいくつかのパターンがあり、例えば Brother などは、彼のスタイルのオンパレードでした。その上演じる人が北野武という名前に負けてしまって、俳優としての能力を出し切れなくなっていました。だんだん「いくつ見ても同じか」「たけしが偉くなり過ぎて周囲がついて来られなくなったか」という考え方に傾き始めていました。(偉くなったたけしを「天狗になった」と批判している声を聞きましたが、私は偉くなったたけしに周囲がついていかなければ行けないと思います。北野武に成長するビートたけしに周囲が食いついて、皆で成長しなければ行けない。)繰り返しになっても腹が立たないのは、映画の北野とビートたけしをきっちり分けていたからでしょう。そして人におだてられてもあまりいい気にならず、(貰えたらいいなぐらいには思っていたかも知れませんが、)賞を取るより我が道を行くことの方に重点があったからでしょう。実生活で色々あったという話は伝わっています。生きている事の大切さを感じた結果こういう方針になったのかと私は勝手に想像しています。

日本では北野をけなす人や批判する人もいるようですが、ベルリンでは批判的な事を言うのはタブー。私は一時マンネリ化していたと思っていましたが、人に言ったことはありません。「自分のために作る映画だから、何本ワンパターンで作っても構わないじゃないか」という意見も自分にあったので、それほど大声で文句を言う必要性も感じませんでした。画家でも同じパターンで何度も何度も気の済むまで絵を描く人がいます。

最近暫く見なかったのですが、先日 Dolls を見る機会がありました。しょっぱな人形浄瑠璃が出て来たのを見て「やるなあ」と思いました。私はかなり年がいってから浄瑠璃の良さに気付いたのですが、気に入っています。木目の細かい動きを作り出す人形使い、流し目なども表現できるような人形を作る職人、男でありながら女の涙を演じる太夫、子供の時には退屈だと思っていたものに対してこの10年ぐらいでがらっと意見が変わっていたところです。「するとビートたけしもそろそろ年なのか・・・」と変な所で納得してしまいました。(後記: なんて思っていたら東京ではみんな文楽を見に行って、楽しんでいる。悔しいなあ。)

全編人形劇でもいいぞと思っていたらあれあれ、すぐ人間が登場。それもあまり演技の上手でない人たち(しかし今回の俳優は北野の名前に固くなってはいない)。結婚式の当日に振られた恋人が自殺未遂を図ったと知り、式場を抜け出して彼女を見舞いに行くところから始まります。近松門左衛門作浄瑠璃冥途の飛脚のストーリーを素材にしたとなっていますが、そう書いていた記事がタイトルを間違えたのか、それとも北野が筋をかなり変えたのか、あまり似ていません。

恋人の佐和子は薬物自殺の後遺症なのか、精神的なショックが原因なのか、普通の事はほとんど分からなくなってしまいます。四六時中見張っていないと子供のような事を始めます。ここから後2人は常に一緒です。この物語の横で、若い頃に去った女性を探しに、ん十年前にデートをしていた公園に来るやくざの親分、アイドル歌手と追っかけの男性2人、やくざの親分にお小遣いを貰いに来る男の子のエピソードなどが語られます。北野スタイルで慌てず騒がず時間を取っています。これがまどろっこしいという人もいるらしく、私も Dolls に関しては退屈する直前まで伸ばしているという感じがしました。

花札を思わせる色彩で四季も一緒に表現しているので、監督にとっては時間が必要だったのでしょう。色が派出過ぎて良くないと感じるシーンもありましたが、やくざの親分が良子に会いに行く公園はカメラがきれいでした。親分が住んでいる日本家屋は私が子供の頃はまだ普通で、私自身ああいう形式の家に住んだことがありますが、現在ではもう贅沢になってしまいます。親分が抹茶を飲んでいるシーンがどれほど現実的なのかは見る人によって感じ方が違うでしょう。私も時々作法は無視して抹茶を飲むのは好きなので、あまり違和感を抱かず見ていました。この辺が今20才ぐらいの人にどういう風に映るかは分かりません。外国向けのサービス・シーンと受け取る人が出るのも分かる気がしますが、昔自分が知っていたもの、最近はほとんど見られなくなったものを懐かしがる監督が、映像に残したかっただけなのかも知れません。私はこちらの意見に傾いています。

ストーリーは、こういう何組かの人間関係が示され、それぞれの終わり方をするというだけで、種は明かしません。私が不思議に思ったのはこれを愛の映画だと書いているサイトが多い点です。私には愛の映画と言うより責任の映画だという気がしました。北野の作品全てにメッセージがあるわけではなく、北野は自分が好ましいと思っている物を選んで画面に残そうと試みているとも取れるのですが、この作品では責任というメッセージが私に届きました。「親に言われた通り偉いさんの娘を嫁にしようとしたため1人の女性が自殺を図った、それは自分の責任だ」と松本は感じています。彼女を引き取り再就職して暮らすという現実的な路線にせず、赤い縄でお互いを縛ってどこまでも一緒に歩くという方法を取りましたが、「ほったらかしにしては行けない」というのが松本の出した結論。何十年も前に去った女性がいて、「いつまでも待っています」という彼女の言葉を覚えていて、もう1度念のために公園の待ち合わせの場所に現われるやくざの親分。そこに本当に彼女がまだ待っていたので、一時を過ごします。しかし彼女は僅かですが軌道から外れています。その彼女に時間が許す限り会いに来るやくざの親分。あの時彼女を不幸にしたから、今埋め合わせをと考えているのでしょう。小遣いをせびりに来る子供にいつもちゃんと小遣いをやっていた親分は、かつてこの子の父親、自分の弟分に殺されかかり、逆に殺しています。言わばやくざ内部の正当防衛ですが、未亡人を1人作り、子供は片親になってしまっています。 それで小遣いをやるたびにお母さんによろしくと言います。アイドルのエピソードは責任というテーマではないでしょうが、いつも追いかけて来るファンの名前を覚え、礼を言います。現役の時はアイドルという仕事をきっちりこなしていました。そして顔に大怪我をした今、ファンのイメージを壊しては行けないと完全引退をします。自動車事故は北野の人生にも大きな転機をもたらしていますが、「かわいい子」で売っていたただのミーハーかと思える女の子にはっきりした職業上の決断をさせています。

というわけで私には愛の物語というより責任の物語、責任を感じた人間の行動パレードに見えました。北野のこのメッセージで好感が持てたのは、実際の世間には「悪い悪い」と自分を責めて見せていながら実際には何もしない人が多いからです。自責の念に駆られている自分の姿が気に入っているだけというケースです。これは被害者意識の持ち過ぎと同じぐらい役に立たない考え方だと思います。北野の登場人物はそれに対し、自分に責任があると感じてから、小さな事でも、地味な事でも何かやっています。その行動で自分を許してしまう安易さも無く、松本は1年近く佐和子を連れ歩いています。随分長い間無責任時代が続き、現在はそのつけが回って来ていますが、北野はその反対の立場を代表しているかのように見えます。次の作品ではまたまた賞を取りました。そちらは完全なエンターテイメントと聞いています。ベルリンに来たら見に行こうと思います。

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