February.26,2000 柩のスクリーミング・ジェイ・ホーキンズ
Tavernで宇多村氏が書いているように、スクリーミン・ジェイ・ホーキンズが亡くなった。享年70歳。柩の中から登場するパフォーマンスで知られる人で、1990年の東京九段会館のライヴでは、日本式の白木の棺桶に入って登場した。しかも西洋式に蓋を手で開けて起き上がるというパフォーマンスが必要なため、わざわざ棺桶と蓋に蝶番をつけて開くようにした。日本側のスタッフ、小道具屋さんの苦労が目に見えるよう。このときの模様は、ビデオ『スクリーミン・ジェイ・ホーキンズ東京棺桶ライヴ』というビデオで見ることができる。
私は以前クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルーをあまり好きでなく、彼らがカヴァーした『アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー』を知らないままできてしまった。どうやら、デヴィッド・ボウイ、アリス・クーパー、マンフレッド・マン、アーサー・ブラウンといった人達までカヴァーしているようなのだが、私は知らなかった。私が『アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー』を知ったのは、ご多分にもれずジム・ジャームッシュの映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を見て。確か深夜のテレビ放映で見たという記憶がある。この曲が好きだという女の子がでてきて、「やっぱりスクリーミン・ジェイ・ホーキンズはいいわ」と言って、この曲ばかりカーステレオで聴いている。このヘンテコな曲のどこがいいのだと思いながら、何回も映画の中で繰り返し流れていると、不思議と頭の中に残ってしまった。
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を見た週末、新宿の[ディスク・ユニオン]に行った。いくつか買い物をしていると、私の従弟である井上歩にバッタリと出くわした。立ち話をしているうちに、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の話を私が持ち出すと、「ああ、あの中の曲ね。これですよ、これ」と、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスのLP『フレンジー』をレコード棚から引っ張り出してくれた。その時点まで、私はこの曲のタイトルもミュージシャンも知らなかった。
三拍子のブルース、しかもおどろおどろしい表現でという、この、世にも珍しい曲を聴いているうちに、ぜひともライヴが見たいという気持ちがつのってきた。絶対この人のライヴはショウとして楽しいはずだ。そして、1990年5月。待望の来日。日程を見て、考えこんでしまった。東京公演は、全て都合のいい日がない。ふと地方公演はと見ると、名古屋が5月12日(土)。これなら行かれる。私も酔狂だったんですね。泊りがけで名古屋まで見に行った。
名古屋[ボトムライン]というライヴハウス。午後6時会場、7時30分開演。開場から開演まで一時間半もある。指定席制ではないので、開場時間よりもかなり前から並んで入場。ビールを飲んでいいかげんに出来あがっちゃったころにショウが始まった。私以外の客も、もうほとんど出来あがっちゃっている。ちなみに、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスは30歳で酒をピッタリとやめている。それにしても、もうこの酒でも飲んでいるのではないかというハイ・テンションは何なのか。
九段会館のときのように棺桶で登場というわけではなかったが、金のマント、白い靴、首には何やらブードゥーのまじないものの飾りやゴム製のヘビをかけ、鼻には骨、手にはヘンリーと命名されたドクロのステッキ。このヘンリー、目はチカチカさせるは唸り声は出すは忙しい。グランドピアノの上には、動く手のおもちゃ、クモなど奇妙な小物で一杯。曲順表なんてどこにいったのか埋もれちゃっている。
ピアノの前に立つ。大丈夫なのかオッサン。立ったままピアノでリズムを刻み出す。むむ、凄いリズム感をしている。バックはギター、テナー・サックス、ベース、ドラムス。みんないいテクニックを持っているいいバンドだ。ギターはサウスポーの白人で、いいブルースを弾く。ドラムスはぶっ叩き派で、曲調にあわせて、時々チープに叩いてみせるところなんかは憎い。
とにかく、ショウマンなのだ。終始立ったままでピアノを弾く。座って弾いたのは、ごくわずか。私はピアノを弾いた経験はないのだけれど、あれ、弾きにくいのではないだろうか。グランドピアノをステージに横に置き、立って弾きながら、顔は客席に向けて歌うって無理があると思うでしょ。それを演ってしまうのだよ、この人。出てきた途端に歌いながら煙草に火をつけ、それをヘンリーに咥えさせ、ピアノの上のおもちゃを動かし、かっと目をむいて客にサービス。忙しいったらない。
有名な『便秘のブルース』もこのとき初めて見ることができた。便秘で苦しんでいる男がトイレでふんばっているいる様子を曲にしてしまった、このナンバー。大爆笑ものなのだが、このパフォーマンスは見てもらうしかない。よく恥ずかしくもなくといった内容なのだが、見ている方もちょっと恥ずかしい。それもこれも観客に楽しんでもらおうという彼のサービスなのだが。
ビデオは九段会館という、れっきとしたホールでの模様で、しかも観客の反応がいまひとつわからないのだが、[ボトムライン]での夜は、いいかげん酔っ払っちまっている客で大騒ぎ。スクリーミン・ジェイ・ホーキンズも乗り乗りで、曲の合間に火を発するサービスやり放題。予定時間オーバーして演ってくれたんだろうな。東京では、1時間30分のステージだったようだが、2時間30分はオーバーとしても、2時間は確実にあったはず。
どうやら、1963年ごろ赤阪やら札幌のキャバレーに出ていたことがあるらしくて、フランク永井の「君恋し」なんか歌えるのだそうだ。ぜひ聴いてみたかったのだが、ついにその夢は果たせなかった。ご冥福をお祈りします。いつの日か、また棺桶の蓋を開けて彼が出てきて歌ってくれるような気がして仕方ないのだが。
ちなみに文中にあった、私の10歳以上年齢の若い従弟、井上歩はホームページを持っています。実のところ、私のホームページのスタイルは彼のものを参考にさせてもらった。遅れ馳せながら、感謝します。彼のホームページ[giuseppi]のURLは以下のとおり。音楽、パソコンに関してはとても詳しい。興味のある人はアクセスしてみて。
http://www2.gol.com/users/giuseppi
February.12,2000 オープニング・アクト
荒井注が亡くなった。新聞記事を読むと、64年にドリフターズに入って、74年に脱退しているから、ドリフターズにいたのは10年間ほどだったのか。逆算すると、加入したのが35歳くらいで、体力的衰えを理由に脱退したのが45歳くらい。45歳で体力的衰えを感じたというのが、どうも解らない。今の若い人は、もう荒井注の在籍していたときのドリフターズを知らないのだろうな。
ドリフターズの笑いというのは、コミック・バンド時代から同じパターン。リーダー(いかりや長介)がバンドをまとめようとするのだが、他のメンバーが勝手なことをするので、まったくまとまらない。そこからくる笑い。「8時だョ! 全員集合」など、延々とこのパターンだけで笑いを取ってきた。そのなかで、荒井注のキャラクターどころは、ふてくされ。ふてくされた態度でエレクトーンを弾く彼の姿は、今でも憶えている。荒井注脱退によって、ドリフターズはコミック・バンドとしての可能性がなくなってしまった気がした。その時点で、私はドリフターズを見るのを止めてしまった。
ビートルズ東京公演。武道館に行けるような歳でもなかった私は、テレビ中継を楽しみにしていた。当日、用があって自転車で出かけていた私は、中継が始まる時間が迫っていたので、あわてて自宅に戻るために自転車のペダルを力いっぱい漕いでいた。すると何があったのか、いきなりチェーンが外れてしまった。ギアに嵌めようと焦れば焦るほど、入らない。もう中継が始まってしまう。私は諦めて自転車を押して駆け出した。家に飛び込んで、テレビの前に。
あれっ、ビートルズが出ていない。母に訊くと、「日本のグループばかり出ているよ」と言う。前座があったのだ。そんな私の目の前に、ドリフターズ。そんなバカな。こいつらコミック・バンドじゃないか。当時ビートルズを神聖化していた私は、怒ったものだった。コミック・バンドを前座に出すなんて、失礼じゃないか。ドリフターズ以外にも、次々に日本のグループが前座で出てくる。しかも、日本のグループ・サウンドをバカにしていた私は、「ひっこめー! お前らレベルが全然違うぞー! ビートルズに日本の恥をさらすなー!」。ビートルズはロックだったが、日本にはまだロックと言えるバンドはなかった。私にとってグループ・サウンドは、歌謡曲でしかなかった。
今では外国のロック・バンドのコンサートに、日本の前座がつくというのは無くなってしまったが、ビートルズ以降、この形はしばらくあった。先日、日本のバンドではあるが、クリエイションがフェリックス・パパラルディと共演した76年の武道館公演の音を聴いた。たどたどしい超日本語発音英語の『タバコ・ロード』など懐かしかった。このとき、前座がついたのである。コスモス・ファクトリー。日本のプログレッシブ・ロックの雄。ハード・ロック・ブルース・バンドのクリエイションとは、かなり音のジャンルが違う。でも、みんなおとなしく聴いているのだ。ヤジなど聞こえてこない。時代だなあ。まだ、オール・スタンディングなんてさせてもらえなかった時代。みんな、まだまだロックの音に飢えていた。私も何でも受け容れていたものなあ。
February.4,2000 小説を読んだような
先月、パティ・ペイジの『涙のワルツ』について述べているうちに、どうも私の好きな歌詞は映画の一場面のように、ストーリー性があるということに気がついた。ストーリー性という言葉をドラマ性言い変えてもいい。今回は、山口百恵の歌で、このことを述べてみよう。
山口百恵でドラマ性のある歌というと、まず『秋桜(コスモス)』が思い浮かぶ。翌日結婚していく娘が、特別な思いでいる母の姿を切々と歌った歌詞は、情景が頭の中で絵になる。「明日嫁ぐ私に苦労はしても 笑い話に時がかえるよ 心配いらないと笑った」という歌詞は、ドラマの中のセリフに近い。これは、さだまさしの作詞作曲。
しかし、山口百恵の歌で圧倒的に多いのは、作詞阿木耀子、作曲宇崎竜童コンビによるものだ。『横須賀ストーリー』が、おそらく一番最初に百恵に提供した曲だと思うのだが、この曲で私は百恵のファンになり、同時にダウンタウン・ブギウギ・バンド(DTBWB)のファンにもなった。
それまで、DTBWBを私は嫌いだった。つっぱりロックのイメージが強かったからで、当時、ハード・ロック、プログレッシブ・ロック一本の私には、「けっ、駄っせー!」としか思えなかったのだ。それが百恵を知ることによって、DTBWBおよび宇崎竜童の本当の姿が見えてきた。DTBWBの初期のヒットといえば、『スモーキング・ブギ』。これがいけなかった。これでマイナス・イメージが出来てしまった。おかげで、次の大ヒット『港のヨーコ横浜横須賀』に拒否反応が出来てしまった。
『スモーキング・ブギ』は宇崎の曲ではない。宇崎、阿木コンビの1作目が『港のヨーコ横浜横須賀』だったのだ。宇崎が、奥さんの阿木に「何か詞を書いてくれないか」と頼んで出来たのが、この曲。1番、2番、3番・・・と続けて書いてあったものの、阿木の作詞に関する知識のなさから音数が不ぞろいで曲にならない。仕方なく、宇崎は節を付けずに歌った。いつぞや、ラジオの女性アナウンサーが「あれはいい曲でしたね」と宇崎に言ったら、宇崎、憮然として「あの曲で私が作曲したのは、『港のヨーコ、横浜横須賀ーっ』て部分だけですよ」と答えていたのを思い出した。なにはともあれ、この曲、ストーリー性、ドラマ性がたっぷりあると思いませんか?
ある男が、恋人のヨーコを捜して、京浜地帯の飲み屋のバーテンダーに訊いて歩く。さて注目したいのは、この歌詞、すべてバーテンダーらしき男のセリフであることだ。阿木は1作目にしてセリフの歌詞を書き上げた。これって、すごくめずらしい歌詞でしょ。百恵、宇崎、阿木トリオで最もヒットしたのは、おそらく『プレイバックpart2』だろう。「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ これは昨夜の私のセリフ」。ここでもセリフがでてくる。男と喧嘩別れした女が車を運転していると、交差点で隣の車がミラーをこすったと言ってくるので、「馬鹿にしないでよ」と言い返す。そういえば、このセリフは、自分が昨夜別れた男にも吐いたセリフだったと思い出す。なんと回想手法。もう完璧なドラマ。
2番になるとラジオから沢田研二の『勝手にしやがれ』が流れてきて、「勝手にしやがれ、出ていくんだろう」という昨夜の男のセリフを思い出す。急に別れたばかりの男が恋しくなり、車を男のもとへと走らせる。もう、ひとつの短い曲の中に、短編小説を圧縮して作り出してしまったようなもの。しかも、聴く側にとっては、この圧縮された曲を解凍して、イメージがどんどんと広げることもできる。
『プレイバックpart2』は、今でもラジオでよくかかっている。しかし、私がもっとも好きなのは、めったにラジオではかからなくなった『絶対絶命』である。5秒ほどの短いイントロに続いて、いきなり「別れて欲しいの 彼と そんな事は出来ないわ 愛しているのよ 彼を それは私も同じ事」って、これはもう、セリフどころではない。会話ではないか。歌詞に会話を持ってきてしまったなんて曲あったろうか? いきなり会話をぶつけてきて、次が「夕暮れせまるカフェテラス」と背景の説明の歌詞になる。もう小説そのまま。ひとりの男を挟んだ三角関係の曲。やがて主人公の女性が身を引くことで、終結する。頭の中で小説を読んでしまったようなイメージがひろがる。こういうの好きなんですよね。
ストーリー性、ドラマ性のある曲の話は、また違う例を挙げて、後日書いていきます。