August.29,2001 日本のスワンプ? 九州弁ブルース、ライトニン大内
一時期、都内のライヴハウスに毎週のように出かけていたことがある。そう、ちょうど今寄席通いに夢中になっているように。ジャンルは主にブルースとジャズ。ライヴハウスの立地は、たいてい地下。薄暗い階段を降りて行くとタバコの煙で咽返るよう。タバコ嫌いでパチンコに行かなくなってしまったというのに、なぜかライヴハウスでは気にならなかった。換気なんて最悪。混んでいるときなんか酸欠状態。一度、酸欠で倒れた人がいるのを目撃した。ホーン楽器やハーモニカの人はタイヘン。ハーモニカの石川二三夫が苦しそうにしていたこともあったっけ。コンサート会場とは違うから禁煙というわけにもいかないから可哀相だ。そんな中でウイスキーのオン・ザ・ロックを傾けながら、週末の夜を過ごしていた。
それがもう、さっぱり足を踏み入れなくなったのは、これという理由はないのだが、少々億劫になってきたことは確か。一緒に行く相手がいなくなったのも、それに拍車をかけたと言っていいかも知れない。宇多村さんからメールが来た。「シカゴプランニングから招待券きました? 25日いきませんか? ちょうど女房、子供いなかへいってるので」 これだけで何の事だかピンと来るのがブルース好きの仲間。しばらく前からシカゴプランニングから、ちょくちょく招待券が届くようになっていた。阿佐ヶ谷の[チェッカーボード]というライヴハウスでの小規模なライヴの招待券。いいなあと思っていても、ひとりではなあという思いで、見送り続けていた。さっそく返信メール。「いいですねえ、是非ご一緒しましょう」
土曜だというのに休日出勤をした宇多村さんと神楽坂で待ち合わせ。久しぶりに一緒に食事をして、いざ阿佐ヶ谷へ向かって出撃。南口を新宿よりに歩く。宇多村さん「これって、以前[ギャングスター]っていった店なんじゃないの?」 「そうかなあ」 私は中学生時代に阿佐ヶ谷に住んでいたことがあったが、この通りはそのころから飲み屋街。小さな店が両側にズラリと続いている。学校側からは、あの通りに行ってはいけないとされていたっけ。「そうだよ、そうだよ。以前一緒に[ギャングスター]行ったじゃない!」と宇多村さん。ああ、そういえば・・・。もう10年以上前の記憶が甦ってくる。
[チェッカーボード]到着。ここは狭い階段を上がって2階。「ああ、そうだ! ここは以前の[ギャングスター]じゃないか。都内には多くのライヴハウスがあるが、ここはその中でももっとも狭い店ではないだろうか。入って右がカウンターのバー。左側の小さなスペースが舞台となる。そうですねえ、カウターに座れるのがざっと7〜8人。舞台にひとり立つと、残りのスペースは10人座ればもうギチギチといったところですか。防音設備も無いのでエレキを通してガンガン演ると、途端に近所から苦情が来るらしい。それでも以前はドラム入れて、四人編成のバンドが窮屈そうに演っていたものだったっけ。以前の持ち主が手放して、今は代替わりしてまた毎週土曜の夜にはブルースのライヴをやっているそうな。
ジン・トニックをチビチビやりながら開演を待つ。下戸の宇多村さんはオレンジジュース。「このオレンジジュース、すっげえ旨い!」とお代わり。午後9時。それまでカウンターに座って飲んでいた男が立ちあがり、舞台に向かう。この夜の出演者、ライトニン大内その人だった。歳のころは30代だろう。椅子に座り、壁にたてかけてあったギブソンの年代もののアコースティックギターを取上げるやチューニングを始めた。客はようやく[つばなれ]といったところ。[つばなれ]とは寄席用語。数を勘定するとき、ひとつ、ふたつ、みっつ・・・やっつ、ここのつ、と最後に[つ]がつく。これが十となって初めて[つ]が無くなるから、10人以上だと[つばなれ]。もっとも、この夜の約10人の客のうち半数は、外国人! 不思議な空間となっていた。
ライトニン大内は、その名が示すように、ライトニン・ホプキンスのコピーをやっている男らしい。インストから入って、「ライトニン・ホプキンスといえば『モジョ・ハンド』なのですが、あんまり好きじゃないんです。名曲だとも思わないし・・・」と前置きして弾きはじめた。私もあんまり好きな曲ではないのだが、ライトニン大内、実に上手い。ギターはもちろんなのだが、何といってもその歌が上手い。若いのにライトニン・ホプキンスの持つ、しゃがれてブルージーな歌声を自分のものにしている。凄いことですよ、これは。スロー・ブルース、ブギ、シャッフルなど様々なライトニン・ホプキンスの曲のコピーを披露して、第1セット終了。
第2セットに入って、「九州弁のブルースを・・・」と突然にオリジナルになる。高校生のときに初恋の相手に振られたときのことを歌ったというブルース。これまさか、高校生のときに作った曲じゃないだろうな。「しゃーねえばってん」っていうフレーズが妙に日本語らしからぬ響きを持っていて新鮮な驚きを覚えた。つづいて、その彼女との初めてのデートの時の気持ちを歌ったブギ。振られたあとの雨の日に彼女のことを思うブルース。そして、落ちこんでいる彼を慰めようと誘ってくれた仲間と、クルマを盗んでドライブして、ナンパに出かける楽しいナンバーで締めくくった。このひとつの流れのある4部作は、実によく出来ている。ぜひともまた聴いてみたい。
ラスト・ナンバーは、彼のオヤジさんのことを歌ったナンバー『オヤジブギ』。仕事もしないでギャンブルにのめり込んでいる父親。家に帰ってみると自分のステレオがない。父親にステレオはどうしたと訊ねると、「裁判所が差し押さえに来るから隠した」と言う。♪裁判所こん いっこうこん 裁判所こん いっこうこんばい・・・ ウソつきでいかげんなオヤジのことを歌うこのナンバー、悲惨なのに実に楽しい。興味のある人は浦和のライヴ・ハウス[Mojo]のオムニバス・アルバム『Live at Mojo』というCDに入っているので是非、御一聴のほどを。
ライトニン・ホプキンスの残された写真を見ていると、若いころよりも歳取ってからからのものの方が圧倒的にいい顔をしている。ほとんどの写真でサングラスをかけていて、タバコを吸いながらギターを弾いている。ウイスキーを瓶からラッパ飲みしている写真もり、時に鋭い目をしているのがある。彼はもとから不良だったとう話を耳にするし、老人になってからも、まだまだ不良だったらしい。CDから聞こえてくる彼の声は、まさにそんな感じがするのだが、わが日本のライトニン大内くん、優しそうな目をした好青年といった雰囲気。もっともっと不良になって、地の底から響いてくるようなブルースが聴きたいものだ―――って、これはこちらの勝手な希望かな。
それにしても九州弁がこんなにブルースに合うとは思ってもみなかった。宇多村さんと、これってきっとシカゴあたりの垢抜けたブルースじゃなくて、きっともっと南部のスワンプ・ブルースなんじゃないの―――って、これまた勝手なバカ話をしながら阿佐ヶ谷を後にした。なんだかまた無償にライヴハウスへ行きたくなってしまった。今週の[チェッカーボード]は、あの[竜巻の順]こと、女性ブルース・ギタリスト長見順だ。どうしよう。今週もレンチャンしちゃおうかなあ。
August.20,2001 『蛍の光』の不思議
『蛍の光』って曲ありますよね。卒業式のときにさんざん聴かされたし、今でもパチンコ屋の閉店のときとか、船が出るときに流れる。私の行きつけの本屋でも、閉店のときに流される。もうちょっと選ぶのに時間が欲しいと思うのに、これが流れると急にせわしなくなって、「今日はいいか」という気持ちになって、何も買わないで帰ってきてしまったりする。
『蛍の光』ってタイトル、どこにアクセントを入れてますか? ホタルノヒカリって、タのところにアクセントを入れている人、多くないですか? でも、これって、よく考えるとヘンですよね。ホタルって、普通、ホタルってアクセントが来ますね。なんでホタルノヒカリって言わないんだろう。それは、この曲が、♪ほたーるの ひか――り って、[た]のところにアクセントが来ちゃうからなんでしょうね。
この曲は、もともとスコットランド民謡。それに無理矢理に日本語を当てたものだから、ヘンなものになっちゃった。あんまりいい出来のものとは思えない。
モトになった民謡は、『遠い昔の日々』とでもいうもので、久しぶりに逢った二人の友人が、昔を懐かしんで一緒に酒を飲むといった内容の歌詞。お互い、バケツ一杯飲むなんて歌詞があって、どうも卒業式には合わないと思うのだが・・・。どうして再会の歌を別れの歌にしちゃったんだろう?
しかも日本語になったこの曲、♪蛍の光、窓の雪 ふみ読む月日 重ねつつ って、なんだか道徳みたいな歌詞にしちゃった。酒飲みの歌とは大違い。『蛍雪時代』って受験雑誌ありましたよね。[蛍雪]って『新明解国語辞典』で調べてみたら、「[灯油が買えなかった貧書生、中国古代の車胤(シャイン)が蛍(ホタル)の光を集め、又、孫康(ソンコウ)が雪明りに頼って読書にいそしんだ故事から]ある目的を目指して苦学すること とある。この『蛍の光』は明治時代からのものだそうで、道徳ではなくて修身なんだろうけれど、なんだか原曲の歌詞とは遠いところに持ってきちゃった気がするなあ。
この曲って普通歌われるのは、一番の歌詞のみ。せいぜいが二番の ♪とまるも行くも 限りとて・・・あたりまで。私、この曲に三番や四番があるとは知らなかった。学校で習わなかったもん。
筑紫のきわみ 陸の奥
海山遠く へだつとも
その真心は へだてなく
ひとえにつくせ 国のため
千島のおくも おきなわも
やしまのうちの まもりなり
いたらんくにに いさおしく
つとめよわがせ つつがなく
四番の「千島のおくも おきなわも」は、大正時代は「台湾の果ても からふとも」になっていたという。なんだか戦後教育にはふさわしくないので、二番までってことになっちゃったみたいな気がするんだが・・・。